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第九章《赫姫と国光》
【六】
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曖昧な記憶を手繰り、右も左すら定かでなくなった道を進み続ける。民家の屋根に重くのしかかった雪を下ろすことに夢中で、誰も緋子に気づかない。
道のない中、自分の足跡を残していく。自由とはこのような感覚なのだろうか、と緋子は口元を緩める。
もしも自由の身になったら、と考える。そのとき自分は一体なにをするんだろうと。
──なにも浮かばない。
自由を得たところで、なにか劇的なことが起きるわけではない。三日も生きていられないかもしれない。それならどうして、こうして歩いているのだろうか。
──どうして、あの人を探しているんだろう。
誰かに命じられたわけでも、この先に希望があるわけでもない。けれど、それでも、と思ってしまう。
「緋子さん?」
呼び止められたその瞬間、胸がぎゅっと縮こまり、息がひゅっと浅くなった。あの声が、待ちわびたその声が私を呼ぶ。なぜか目頭が熱くなった。
振り返ると、男が立っていた。髪に雪が積もり、頭が白くなっている。手に桶を持っているから、水を汲みに外へ出たらしい。
偶然という言葉で片すには、あまりに運命的で。
「……光臣さん」
名を呼んだだけで心が震えた。この口でその名を呼んでいいのか、躊躇われる。けれど溢れ出ていた。名前を呼んだだけだというのに、奥底に燻っていた気持ちが一緒に外に出てしまった気がした。
こほっと咳払いをした緋子は、予想もつくのに「どうしてここへ?」と尋ねる。
「水を汲みに。あなたは?」
私も、と言おうとした口が瞬時に閉じられる。桶も持たずに水汲みなんて有り得ない。なにかうまい言い訳はないか──、
「……あまりにも真っ白で素敵な景色だったので、歩きたくなりまして」
これもまた苦しい言い分だ。真っ白な雪景色なんて、この村じゃ日常だ。そういう者たちにとっては嫌気すら感じる景色だといえる。
その嘘を知ってか知らずか、男は「そうなんですね」と笑みながらうなずいた。
「では天気も足場も悪いことですし、お送りしますよ」
期待しなかったわけではなかったが、まさか本当に叶うとは、と胸が熱くなる。
けれど家まで案内されるのは複雑だった。なにせ意地悪い人間たちの巣窟なのだ。見知らぬ人間を放っておくはずがなかった。
「有り難い申し出ですが、遠慮しておきます。最期に一言お礼をと思って外へ出たものでしたから、お会いできて幸運でした。……改めて、私を助けてくださりありがとうございました」
深々腰を折る緋子に、光臣は「最後?」と戸惑いを口にした。
「ええ。私は……貢物になるので」
男の目が大きく見開かれ、口が微かに開く。
嘲笑でも安堵でもない反応に、緋子は喉がじわりと熱くなるのを感じた。
「それは、……」
男も神を信仰しているのか、はたまた神を信じる土地の者に疑問を投げるのを躊躇っているのか、後に言葉は続かなかった。
──こういう人を、「良い」人と呼ぶのね。
まだ会って一日しか経っていない。けれどこの男の人の良さを知るには十分な時間だった。
緋子は微笑み、
「いいんです。むしろ、ちょっと感謝もしてるんです。死にたい毎日を送っていても、自分で死ぬ勇気なんてなかったから……神様に捧げられることでこの生を終えることができるのなら、これ以上ない幸せな終わり方だわ。……まあ私の死で大嫌いな人たちが得をするのはすごく不愉快ですが」
「嫌いな人間のために貴方がそこまでする必要はないのでは?」
男の言うことは最もだった。
けれど緋子は首を振る。
「いいえ、もう……もう、疲れたのです」
相変わらず、緋子の口元には笑みが浮かんでいる。けれど目は光を失い、まるで動く屍人のようだった。
「だから止めないでください。お願いします」
緋子の目から涙が落ちる。
はっきりしない視界の中、目の前の男と視線が絡む。
虐げられる毎日に疲れて、いい加減死にたいはずだった。良い機会のはずだった。最期は願いが叶って、今まで見下してきた人間たちの手の翻し方に失笑して、それで十分のはずだった。
いつ死んでもいいと、思っていたはずだった。
けれど、どんどん欲は生まれていった。助けられた吹雪の日、神様はいるのかもしれないと淡い希望を抱いた。もしかしたら先の未来、今までの不幸の分まで幸せがあるのではないかと期待が生まれていた。
その度に、裏切られてきた。
ゆっくり歩み寄ってきた光臣は、壊れ物に触れるかのように、ぎこちない手つきで彼女の背に手を回した。
「頑張ったんですね」
柔らかく、労る声色に緋子は目尻を震わせる。
曇天の空から、真白く粒の大きな雪が再び降ってきた。
道のない中、自分の足跡を残していく。自由とはこのような感覚なのだろうか、と緋子は口元を緩める。
もしも自由の身になったら、と考える。そのとき自分は一体なにをするんだろうと。
──なにも浮かばない。
自由を得たところで、なにか劇的なことが起きるわけではない。三日も生きていられないかもしれない。それならどうして、こうして歩いているのだろうか。
──どうして、あの人を探しているんだろう。
誰かに命じられたわけでも、この先に希望があるわけでもない。けれど、それでも、と思ってしまう。
「緋子さん?」
呼び止められたその瞬間、胸がぎゅっと縮こまり、息がひゅっと浅くなった。あの声が、待ちわびたその声が私を呼ぶ。なぜか目頭が熱くなった。
振り返ると、男が立っていた。髪に雪が積もり、頭が白くなっている。手に桶を持っているから、水を汲みに外へ出たらしい。
偶然という言葉で片すには、あまりに運命的で。
「……光臣さん」
名を呼んだだけで心が震えた。この口でその名を呼んでいいのか、躊躇われる。けれど溢れ出ていた。名前を呼んだだけだというのに、奥底に燻っていた気持ちが一緒に外に出てしまった気がした。
こほっと咳払いをした緋子は、予想もつくのに「どうしてここへ?」と尋ねる。
「水を汲みに。あなたは?」
私も、と言おうとした口が瞬時に閉じられる。桶も持たずに水汲みなんて有り得ない。なにかうまい言い訳はないか──、
「……あまりにも真っ白で素敵な景色だったので、歩きたくなりまして」
これもまた苦しい言い分だ。真っ白な雪景色なんて、この村じゃ日常だ。そういう者たちにとっては嫌気すら感じる景色だといえる。
その嘘を知ってか知らずか、男は「そうなんですね」と笑みながらうなずいた。
「では天気も足場も悪いことですし、お送りしますよ」
期待しなかったわけではなかったが、まさか本当に叶うとは、と胸が熱くなる。
けれど家まで案内されるのは複雑だった。なにせ意地悪い人間たちの巣窟なのだ。見知らぬ人間を放っておくはずがなかった。
「有り難い申し出ですが、遠慮しておきます。最期に一言お礼をと思って外へ出たものでしたから、お会いできて幸運でした。……改めて、私を助けてくださりありがとうございました」
深々腰を折る緋子に、光臣は「最後?」と戸惑いを口にした。
「ええ。私は……貢物になるので」
男の目が大きく見開かれ、口が微かに開く。
嘲笑でも安堵でもない反応に、緋子は喉がじわりと熱くなるのを感じた。
「それは、……」
男も神を信仰しているのか、はたまた神を信じる土地の者に疑問を投げるのを躊躇っているのか、後に言葉は続かなかった。
──こういう人を、「良い」人と呼ぶのね。
まだ会って一日しか経っていない。けれどこの男の人の良さを知るには十分な時間だった。
緋子は微笑み、
「いいんです。むしろ、ちょっと感謝もしてるんです。死にたい毎日を送っていても、自分で死ぬ勇気なんてなかったから……神様に捧げられることでこの生を終えることができるのなら、これ以上ない幸せな終わり方だわ。……まあ私の死で大嫌いな人たちが得をするのはすごく不愉快ですが」
「嫌いな人間のために貴方がそこまでする必要はないのでは?」
男の言うことは最もだった。
けれど緋子は首を振る。
「いいえ、もう……もう、疲れたのです」
相変わらず、緋子の口元には笑みが浮かんでいる。けれど目は光を失い、まるで動く屍人のようだった。
「だから止めないでください。お願いします」
緋子の目から涙が落ちる。
はっきりしない視界の中、目の前の男と視線が絡む。
虐げられる毎日に疲れて、いい加減死にたいはずだった。良い機会のはずだった。最期は願いが叶って、今まで見下してきた人間たちの手の翻し方に失笑して、それで十分のはずだった。
いつ死んでもいいと、思っていたはずだった。
けれど、どんどん欲は生まれていった。助けられた吹雪の日、神様はいるのかもしれないと淡い希望を抱いた。もしかしたら先の未来、今までの不幸の分まで幸せがあるのではないかと期待が生まれていた。
その度に、裏切られてきた。
ゆっくり歩み寄ってきた光臣は、壊れ物に触れるかのように、ぎこちない手つきで彼女の背に手を回した。
「頑張ったんですね」
柔らかく、労る声色に緋子は目尻を震わせる。
曇天の空から、真白く粒の大きな雪が再び降ってきた。
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