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シーズン1
第一話
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『五十嵐室長はテクニシャン』は、とある小説投稿サイトで連載中の人気作品だ。毎週、月水金の午前六時に更新される。
言わずもがな、主人公は五十嵐室長。イケメンエリートな上に隠れ御曹司というよくあるヒーローではあるが、『~にもかかわらず、EDでDT⁈』というサブタイトルがついていて、かなり残念なイケメンなのだ。
その五十嵐室長をこよなく愛する女性がいる。その名も浅香凡子。彼女は小説の登場人物ではなく、『五十嵐室長はテクニシャン』の熱心な読者の一人だ。平凡な子になるように『凡子』と名付けられたこの女性は、月並みとは言いがたいほどの喪女に成長した。彼氏なし歴二十四年(=年齢)の筋金入りの喪女である。
凡子は、更新のある朝、最新話を最高のコンディションで読むためにいつもより早い四時に目覚める。まずは身を清め、その後で、熱いコーヒーと朝食を摂る。何も口にしないと集中力が低下するが、摂りすぎもよくない。消化器に脳への血流を奪われないよう、いつもより軽くする。
「全身全霊をかけて、最新話を拝読するのがわたしの使命」と信じている凡子は、更新の十分前にはスマートフォンを手に、期待に胸を膨らませながら待つ。これでも、待機時間は随分短縮された。当初は一時間ほど画面を見つめて待っていたのだ。
電波式アナログ時計の秒針を見つめ、五秒前からカウントを始める。そして、更新と同時にページを開く。
「来たー! 五十嵐様!!」
凡子は、一話千文字ほどを読む間、不気味な笑顔を浮かべながら、何度も「ぐふふふふふ」とおかしな声を出す。
そして読み終わるとすぐに、コメント欄に感想を書き込む。
『恋先生
更新ありがとうございます。
今回も大変楽しく読ませていただきました。なんといっても、五十嵐様がバーでウイスキーを飲み過ぎてしまい……なところ、最高でした。
いつもより積極的に女性を口説く五十嵐様に期待は膨らむばかりでしたが、五十嵐様はまごうことなく五十嵐様でした。
尊いです。
毎回、語彙力が死んでいて申し訳ございません。次回も楽しみにしております。』
凡子の、読者としてのアカウント名は『七海子』だ。名前の響きは気に入っているのだが、漢字が気に食わないため、どうせならと綺麗な漢字に変えた。
凡子は作者の『水樹恋』に自分の存在に気づいてもらいたい一心で、毎回、感想を書き込んでいる。地道な努力である。
感想を書き込んだあとは、瞑想に入る。
今回の五十嵐室長を、脳内で映像へ変換する大事な作業だ。
散々五十嵐室長の姿を妄想した後、凡子は再読したい欲に駆られるが、必死で抑える。
初読の感動をもうしばらく噛みしめるためである。
凡子の世界は、五十嵐室長を中心に回っている。
仕事の休憩時間は、SNSで発信するための情報収集に充てている。SNSは『五十嵐室長はテクニシャン』を広める目的でしているが、小説の宣伝ばかりしていても、だれも凡子の投稿を読んでくれない。そのため、フォロワーを増やすための努力をしている。会社の同僚たちから、丸の内のオフィス街で食べられるおしゃれなランチと、美容の情報を集めて、発信している。SNSでのテーマは『五十嵐室長にお似合いの良い女風』だ。リアリティをもたすために、発信する内容は、調べに調べ尽くしている。
そして休みの日には、五十嵐室長の二次創作に精を出す。ほかにも、中途半端な画力ではあるがファンアートも描く。
休日に五十嵐室長を堪能したあと迎える月曜日。多くのサラリーマンにとって憂鬱な曜日ではあるが、凡子にとっては週の中で一番幸せを味わえる特別な日だ。
朝には『五十嵐室長はテクニシャン』が更新される上に、『蓮水監査部長』が、本社に出勤するからだ。蓮水監査部長は、『五十嵐室長』が実在したら、きっと彼のような容姿をしていると思えるほど、眉目秀麗なのだ。年の頃もちょうど同じくらいの三十代前半で、細身で長身なところも、クールな雰囲気を漂わしているところも、イメージ通りだ。
凡子の勤め先は、大手商社の系列にあたる総合警備会社だ。凡子は商社の本社ビルで、受付業務を行っている。いわゆる受付嬢という職種だ。
本社ビルは、東京の代表的なオフィス街、丸の内にある。三十階建てのビルにはグループ会社も多数入っていて、一階には社員証がなければ通過できないゲートが設置されている。そして、ゲートの手前に受付ブースがあり、午前九時から、午後六時までは、二、三名の受付担当者がいて対応にあたる。
来客時の取り次ぎが主な業務内容だが、不審者がゲート内に侵入しようとした際の訓練もしっかり受けている。つまり、れっきとした警備員なのだ。凡子は、『メイドに扮した護衛』にも似た自分の『設定』がとても気に入っていた。
もう一つ、凡子が今の仕事で気に入っているのは、制服があることだ。キャビンアテンダント風のデザインで、コスプレ気分も味わえ、その上、毎日の仕事着を悩む時間が省ける。
蓮水監査部長とは、入社からひと月経ったころ、一度だけ言葉を交わしたことがあった。
受付業務の中に、社員証を忘れたと申告してきた人物の、確認と臨時カードの貸出がある。
ある月曜日、蓮水監査部長が受付にいた凡子の前に立った。その頃凡子は、すでに『五十嵐室長はテクニシャン』の熱烈なファンだったこともあり、蓮水監査部長のことは当然知っていた。
脳内で「五十嵐様が目の前に!!」と、半パニックになっているところに「社員証を忘れたのでセキュリティカードの貸出をお願いしたい」と言われた。
――お声まで、五十嵐様のイメージにピッタリだなんて。この方は『生き神様』に違いない。
凡子は精一杯取り繕って「今、申請書をお出ししますので、お待ちください」と、言葉にした。緊張したせいで、必要以上に事務的になってしまったのを覚えている。
「君は新人だから、私のことを知らないのかな?」
蓮水監査部長が口元に笑みを浮かべた。凡子は「五十嵐様の笑顔いただきました!」と叫びたい気持ちを必死で抑えながら「存じ上げております」と返した。
「それならば」と手を差し出され、凡子は、申請書を手渡した。
蓮水監査部長は申請書をすぐ脇に置き、もう一度手を差し出してきた。凡子は戸惑いながら、次にボールペンを渡した。
「私に記入しろと?」
「はい、規則ですのでご記入ください」
蓮水監査部長は「規則なのであれば、仕方ありませんね」と言って、申請書を記入した。
凡子は、端末で照合などを行い、セキュリティカードを手渡した。
「お帰りの際には、ご返却をお願いいたします」
「ありがとう」
最後にも微笑みを見ることができたので、凡子は嬉しくてつい、満面の笑みを返してしまった。
後から、蓮水監査部長の行動は新人に対する試験であったと知らされた。大抵の新人が、そのままセキュリティカードを渡そうとして始末書を書かされる。警備会社の社員の間で、密かに、蓮水監査部長の洗礼と呼ばれていた。
系列会社の平社員からみれば雲の上の存在である蓮水監査部長とは、会話を交わす機会がない。しかし、凡子には、通りすがる姿を横目に見るくらいがちょうど良かった。あまりに近くに来られると鼻血を噴きかねない。
何をするにも、凡子の頭の中は五十嵐室長で一杯だった。
毎週月曜十一時からの定例会議に出席するため、蓮水監査部長は本社ビルにやってくる。
間もなく、到着する頃だった。
凡子は、興奮を隠すのに必死で、いつも、無表情になってしまう。
一緒に受付ブースにいる同僚が「蓮水さんだわ」と、呟いた。凡子は、何気ないそぶりで、入り口の方へ視線を向ける。
蓮水監査部長の今日の装いは、濃いグレーの三つ揃いスーツだ。ネクタイは赤みがかった焦げ茶を合わせている。
――五十嵐様……もとい、蓮水監査部長は何色でもお似合いになる。
ついつい、蓮水監査部長のことを五十嵐様だと思ってしまう。しかし、凡子から蓮水監査部長に話しかけることはないので、呼び間違う心配はない。
颯爽とこちらへ向かってくる蓮水監査部長の隣には、いつも通り、補佐的役割をしている、泉堂隆也がいた。
言わずもがな、主人公は五十嵐室長。イケメンエリートな上に隠れ御曹司というよくあるヒーローではあるが、『~にもかかわらず、EDでDT⁈』というサブタイトルがついていて、かなり残念なイケメンなのだ。
その五十嵐室長をこよなく愛する女性がいる。その名も浅香凡子。彼女は小説の登場人物ではなく、『五十嵐室長はテクニシャン』の熱心な読者の一人だ。平凡な子になるように『凡子』と名付けられたこの女性は、月並みとは言いがたいほどの喪女に成長した。彼氏なし歴二十四年(=年齢)の筋金入りの喪女である。
凡子は、更新のある朝、最新話を最高のコンディションで読むためにいつもより早い四時に目覚める。まずは身を清め、その後で、熱いコーヒーと朝食を摂る。何も口にしないと集中力が低下するが、摂りすぎもよくない。消化器に脳への血流を奪われないよう、いつもより軽くする。
「全身全霊をかけて、最新話を拝読するのがわたしの使命」と信じている凡子は、更新の十分前にはスマートフォンを手に、期待に胸を膨らませながら待つ。これでも、待機時間は随分短縮された。当初は一時間ほど画面を見つめて待っていたのだ。
電波式アナログ時計の秒針を見つめ、五秒前からカウントを始める。そして、更新と同時にページを開く。
「来たー! 五十嵐様!!」
凡子は、一話千文字ほどを読む間、不気味な笑顔を浮かべながら、何度も「ぐふふふふふ」とおかしな声を出す。
そして読み終わるとすぐに、コメント欄に感想を書き込む。
『恋先生
更新ありがとうございます。
今回も大変楽しく読ませていただきました。なんといっても、五十嵐様がバーでウイスキーを飲み過ぎてしまい……なところ、最高でした。
いつもより積極的に女性を口説く五十嵐様に期待は膨らむばかりでしたが、五十嵐様はまごうことなく五十嵐様でした。
尊いです。
毎回、語彙力が死んでいて申し訳ございません。次回も楽しみにしております。』
凡子の、読者としてのアカウント名は『七海子』だ。名前の響きは気に入っているのだが、漢字が気に食わないため、どうせならと綺麗な漢字に変えた。
凡子は作者の『水樹恋』に自分の存在に気づいてもらいたい一心で、毎回、感想を書き込んでいる。地道な努力である。
感想を書き込んだあとは、瞑想に入る。
今回の五十嵐室長を、脳内で映像へ変換する大事な作業だ。
散々五十嵐室長の姿を妄想した後、凡子は再読したい欲に駆られるが、必死で抑える。
初読の感動をもうしばらく噛みしめるためである。
凡子の世界は、五十嵐室長を中心に回っている。
仕事の休憩時間は、SNSで発信するための情報収集に充てている。SNSは『五十嵐室長はテクニシャン』を広める目的でしているが、小説の宣伝ばかりしていても、だれも凡子の投稿を読んでくれない。そのため、フォロワーを増やすための努力をしている。会社の同僚たちから、丸の内のオフィス街で食べられるおしゃれなランチと、美容の情報を集めて、発信している。SNSでのテーマは『五十嵐室長にお似合いの良い女風』だ。リアリティをもたすために、発信する内容は、調べに調べ尽くしている。
そして休みの日には、五十嵐室長の二次創作に精を出す。ほかにも、中途半端な画力ではあるがファンアートも描く。
休日に五十嵐室長を堪能したあと迎える月曜日。多くのサラリーマンにとって憂鬱な曜日ではあるが、凡子にとっては週の中で一番幸せを味わえる特別な日だ。
朝には『五十嵐室長はテクニシャン』が更新される上に、『蓮水監査部長』が、本社に出勤するからだ。蓮水監査部長は、『五十嵐室長』が実在したら、きっと彼のような容姿をしていると思えるほど、眉目秀麗なのだ。年の頃もちょうど同じくらいの三十代前半で、細身で長身なところも、クールな雰囲気を漂わしているところも、イメージ通りだ。
凡子の勤め先は、大手商社の系列にあたる総合警備会社だ。凡子は商社の本社ビルで、受付業務を行っている。いわゆる受付嬢という職種だ。
本社ビルは、東京の代表的なオフィス街、丸の内にある。三十階建てのビルにはグループ会社も多数入っていて、一階には社員証がなければ通過できないゲートが設置されている。そして、ゲートの手前に受付ブースがあり、午前九時から、午後六時までは、二、三名の受付担当者がいて対応にあたる。
来客時の取り次ぎが主な業務内容だが、不審者がゲート内に侵入しようとした際の訓練もしっかり受けている。つまり、れっきとした警備員なのだ。凡子は、『メイドに扮した護衛』にも似た自分の『設定』がとても気に入っていた。
もう一つ、凡子が今の仕事で気に入っているのは、制服があることだ。キャビンアテンダント風のデザインで、コスプレ気分も味わえ、その上、毎日の仕事着を悩む時間が省ける。
蓮水監査部長とは、入社からひと月経ったころ、一度だけ言葉を交わしたことがあった。
受付業務の中に、社員証を忘れたと申告してきた人物の、確認と臨時カードの貸出がある。
ある月曜日、蓮水監査部長が受付にいた凡子の前に立った。その頃凡子は、すでに『五十嵐室長はテクニシャン』の熱烈なファンだったこともあり、蓮水監査部長のことは当然知っていた。
脳内で「五十嵐様が目の前に!!」と、半パニックになっているところに「社員証を忘れたのでセキュリティカードの貸出をお願いしたい」と言われた。
――お声まで、五十嵐様のイメージにピッタリだなんて。この方は『生き神様』に違いない。
凡子は精一杯取り繕って「今、申請書をお出ししますので、お待ちください」と、言葉にした。緊張したせいで、必要以上に事務的になってしまったのを覚えている。
「君は新人だから、私のことを知らないのかな?」
蓮水監査部長が口元に笑みを浮かべた。凡子は「五十嵐様の笑顔いただきました!」と叫びたい気持ちを必死で抑えながら「存じ上げております」と返した。
「それならば」と手を差し出され、凡子は、申請書を手渡した。
蓮水監査部長は申請書をすぐ脇に置き、もう一度手を差し出してきた。凡子は戸惑いながら、次にボールペンを渡した。
「私に記入しろと?」
「はい、規則ですのでご記入ください」
蓮水監査部長は「規則なのであれば、仕方ありませんね」と言って、申請書を記入した。
凡子は、端末で照合などを行い、セキュリティカードを手渡した。
「お帰りの際には、ご返却をお願いいたします」
「ありがとう」
最後にも微笑みを見ることができたので、凡子は嬉しくてつい、満面の笑みを返してしまった。
後から、蓮水監査部長の行動は新人に対する試験であったと知らされた。大抵の新人が、そのままセキュリティカードを渡そうとして始末書を書かされる。警備会社の社員の間で、密かに、蓮水監査部長の洗礼と呼ばれていた。
系列会社の平社員からみれば雲の上の存在である蓮水監査部長とは、会話を交わす機会がない。しかし、凡子には、通りすがる姿を横目に見るくらいがちょうど良かった。あまりに近くに来られると鼻血を噴きかねない。
何をするにも、凡子の頭の中は五十嵐室長で一杯だった。
毎週月曜十一時からの定例会議に出席するため、蓮水監査部長は本社ビルにやってくる。
間もなく、到着する頃だった。
凡子は、興奮を隠すのに必死で、いつも、無表情になってしまう。
一緒に受付ブースにいる同僚が「蓮水さんだわ」と、呟いた。凡子は、何気ないそぶりで、入り口の方へ視線を向ける。
蓮水監査部長の今日の装いは、濃いグレーの三つ揃いスーツだ。ネクタイは赤みがかった焦げ茶を合わせている。
――五十嵐様……もとい、蓮水監査部長は何色でもお似合いになる。
ついつい、蓮水監査部長のことを五十嵐様だと思ってしまう。しかし、凡子から蓮水監査部長に話しかけることはないので、呼び間違う心配はない。
颯爽とこちらへ向かってくる蓮水監査部長の隣には、いつも通り、補佐的役割をしている、泉堂隆也がいた。
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