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うつつ7
十二
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亮は戻ってくると、ひかりに「東屋についたら、そこで待っとくって」と言った。ひかりは気分が沈んだせいで、黙って頷いただけだった。
「これからは、もう少し、外出をするなりして、体力をつけた方がいいよ。一人が面倒なら付き合うし」
ひかりは確かに疲れていた。それでも、今表情がさえない理由は別にあった。ただ、訂正をする気力もない。
「ありがとう」とだけ返した。
和明をあまり待たせないよう、ひかりはできるかぎり早く歩いた。そのうちに、東屋についた。結構広く、駅の待合室くらいの広さがある。窓にガラスははまっていないが、三辺を壁で囲われている。
壁際に木製のベンチがあり、和明は一人で座っていた。
入り口で亮から「俺は、ここで待っとく」と、声をかけられた。
東家の中は、風はいくらか防がれていても、日が当たらない分、暗くて寒い。
ひかりは和明の前に立ち、「遅くなって、ごめんなさい」と謝った。和明は、微笑みながら「何も問題ないよ」と言った。
「君は、楽しめてる?」
ひかりは答えにこまった。
「思ったより距離が長くて……」
「体力的につらくなることはわかりきっているのに、なぜここを選んだのかと不思議だったよ」
ひかりは、どうして言ってくれなかったのだろうと思った。
よく考えれば、和明が事前に教えてくれたとしても、体力をつけておく時間もなかった。体力を理由に別の場所に変えられるよりは、ずっとましだった。
「座らないの?」
「近くに、見たい場所があって、先に行ってきます」
ひかりがそう返すと、「君が無理をしてまで見たかった場所が、気になるな」と、目を細めた。
「ただの、ベンチです」
「ただのベンチが見たいのには、何か理由がありそうだ」
ひかりは、どう誤魔化すかを必死で考えていた。
「問い詰める気はないから、心配しなくていいよ」
そう言って、和明は立ちあがった。
「僕も、一緒に行くよ」
和明が一緒に来てくれるとは思っていなかったので、ひかりはつい「本当にいいんですか?」と聞き返してしまった。
枯れ草を踏みながら、砂浜へと向かう。ひかりは、波の音にかき消されそうな和明の足音に耳をすませた。
和明とベンチに並んで座れるかもしれない。ひかりはつい笑みをこぼすほどに、嬉しかった。
当然、小説内に書かれていた行為をしたいわけではない。登場人物達が居た場所から、同じ景色をみている気分を味わいたいだけだ。
松林を抜けると、風が強く感じられた。ひかりはコートの襟を手で押さえながら首をすくめた。
「君が見たかったベンチは、あれかい?」
「そうだと思います」
「確実ではないということ?」
ひかりは答えを間違えたと思った。写真を見たわけではない。情報は石のベンチであることと、二人で並ぶには小さいということくらいだ。
「座って海を眺められれば、それで良いんです」
「東屋からも、海は見えていたよね」
「そうですけど……」
和明が、ひかりの肩に手のひらをのせた。
「問い詰めない、約束だったね」
誤魔化せたわけでも、興味を失われたわけでもない。単に、見逃してもらえただけだ。和明が疑問を抱くのは仕方ない。WEB小説の聖地巡礼に付き合わされているとは、想像できないはずだ。
石のベンチに着いた。四つほど並んでいるけれど、二人で並べそうな大きさのものは一つだけだった。想像していた見た目とは違った。ひかりは、墓石のように正確に切り出され研磨されていると思い込んでいた。実際は、表面の目は粗く、角が落とされている。口の中でホロホロと崩れる焼き菓子のようだった。
ひかりは手を伸ばしてベンチに触れた。表面はざらついているけれど、崩れはしない。そして、予想通り冷たかった。小説内では秋に来ていた。空も海も今よりはもう少し明るかったのではないか。
「座らないのかい?」
ひかりは、一瞬でも腰掛けてみたかった。ひかりは隣に立つ和明の顔を伺いながら「このベンチに、一緒に座りませんか?」と、誘ってみた。
「二人で座るには狭くないかい?」
断られる気がしていた。落ち込みほどのことではない。ひかりは諦めて「そうですよね」と、ベンチに視線を落とした。
「身を寄せれば、ギリギリ収まるかもしれない。座ってみようか」
思いがけない言葉に、ひかりはまた、和明の方に顔を向けた。
「良いんですか?」
「座るくらいは問題ないよ」
和明がベンチの前側に回る。左側に腰掛けた。ひかりもすぐに隣に座った。少し体がはみ出してしまう。和明が、ひかりの腰に手を回して支えながら、体をずらしてくれた。和明にぴったりと体を寄せただけで、ひかりは自分が熱を帯びた気がしていた。
ここまで、体験できるとは思ってもみなかった。
ひかりは嬉しさのあまり「ありがとうございます」と口にしていた。
「これが、君がここでしたかったこと?」
頷くと、和明は「本当に、君は不可解だ」と言った。
ひかりは顔をあげ、目の前で静かに波打つ海を見た。遠くに細長く山が見える。このあたりの地形を、ひかりはよく知らなかった。頬を冷たい風が刺してくるけれど、ひかりの心は言い様もなく満たされていた。
「君の、真の意図は僕にはわからない」
和明が話しかけてきた。ひかりは何も言葉を返せなかった。和明が少し体を動かし、ひかりの耳元に顔を寄せた。息がかかり、ひかりは感じてしまった。
「ただ、確実なことがある。長谷川君は今、僕たちの背中をじっと見ているよ」
鼓膜に近い場所で低く声が響く。途端に心拍数があがる。
ひかりは浮かれていて、亮の存在を気にもかけていなかった。
「何も問題はない。僕たちは夫婦なんだから」
和明が、ひかりのくだらない願いをすんなりきいてくれた理由が、わかった気がした。
「これからは、もう少し、外出をするなりして、体力をつけた方がいいよ。一人が面倒なら付き合うし」
ひかりは確かに疲れていた。それでも、今表情がさえない理由は別にあった。ただ、訂正をする気力もない。
「ありがとう」とだけ返した。
和明をあまり待たせないよう、ひかりはできるかぎり早く歩いた。そのうちに、東屋についた。結構広く、駅の待合室くらいの広さがある。窓にガラスははまっていないが、三辺を壁で囲われている。
壁際に木製のベンチがあり、和明は一人で座っていた。
入り口で亮から「俺は、ここで待っとく」と、声をかけられた。
東家の中は、風はいくらか防がれていても、日が当たらない分、暗くて寒い。
ひかりは和明の前に立ち、「遅くなって、ごめんなさい」と謝った。和明は、微笑みながら「何も問題ないよ」と言った。
「君は、楽しめてる?」
ひかりは答えにこまった。
「思ったより距離が長くて……」
「体力的につらくなることはわかりきっているのに、なぜここを選んだのかと不思議だったよ」
ひかりは、どうして言ってくれなかったのだろうと思った。
よく考えれば、和明が事前に教えてくれたとしても、体力をつけておく時間もなかった。体力を理由に別の場所に変えられるよりは、ずっとましだった。
「座らないの?」
「近くに、見たい場所があって、先に行ってきます」
ひかりがそう返すと、「君が無理をしてまで見たかった場所が、気になるな」と、目を細めた。
「ただの、ベンチです」
「ただのベンチが見たいのには、何か理由がありそうだ」
ひかりは、どう誤魔化すかを必死で考えていた。
「問い詰める気はないから、心配しなくていいよ」
そう言って、和明は立ちあがった。
「僕も、一緒に行くよ」
和明が一緒に来てくれるとは思っていなかったので、ひかりはつい「本当にいいんですか?」と聞き返してしまった。
枯れ草を踏みながら、砂浜へと向かう。ひかりは、波の音にかき消されそうな和明の足音に耳をすませた。
和明とベンチに並んで座れるかもしれない。ひかりはつい笑みをこぼすほどに、嬉しかった。
当然、小説内に書かれていた行為をしたいわけではない。登場人物達が居た場所から、同じ景色をみている気分を味わいたいだけだ。
松林を抜けると、風が強く感じられた。ひかりはコートの襟を手で押さえながら首をすくめた。
「君が見たかったベンチは、あれかい?」
「そうだと思います」
「確実ではないということ?」
ひかりは答えを間違えたと思った。写真を見たわけではない。情報は石のベンチであることと、二人で並ぶには小さいということくらいだ。
「座って海を眺められれば、それで良いんです」
「東屋からも、海は見えていたよね」
「そうですけど……」
和明が、ひかりの肩に手のひらをのせた。
「問い詰めない、約束だったね」
誤魔化せたわけでも、興味を失われたわけでもない。単に、見逃してもらえただけだ。和明が疑問を抱くのは仕方ない。WEB小説の聖地巡礼に付き合わされているとは、想像できないはずだ。
石のベンチに着いた。四つほど並んでいるけれど、二人で並べそうな大きさのものは一つだけだった。想像していた見た目とは違った。ひかりは、墓石のように正確に切り出され研磨されていると思い込んでいた。実際は、表面の目は粗く、角が落とされている。口の中でホロホロと崩れる焼き菓子のようだった。
ひかりは手を伸ばしてベンチに触れた。表面はざらついているけれど、崩れはしない。そして、予想通り冷たかった。小説内では秋に来ていた。空も海も今よりはもう少し明るかったのではないか。
「座らないのかい?」
ひかりは、一瞬でも腰掛けてみたかった。ひかりは隣に立つ和明の顔を伺いながら「このベンチに、一緒に座りませんか?」と、誘ってみた。
「二人で座るには狭くないかい?」
断られる気がしていた。落ち込みほどのことではない。ひかりは諦めて「そうですよね」と、ベンチに視線を落とした。
「身を寄せれば、ギリギリ収まるかもしれない。座ってみようか」
思いがけない言葉に、ひかりはまた、和明の方に顔を向けた。
「良いんですか?」
「座るくらいは問題ないよ」
和明がベンチの前側に回る。左側に腰掛けた。ひかりもすぐに隣に座った。少し体がはみ出してしまう。和明が、ひかりの腰に手を回して支えながら、体をずらしてくれた。和明にぴったりと体を寄せただけで、ひかりは自分が熱を帯びた気がしていた。
ここまで、体験できるとは思ってもみなかった。
ひかりは嬉しさのあまり「ありがとうございます」と口にしていた。
「これが、君がここでしたかったこと?」
頷くと、和明は「本当に、君は不可解だ」と言った。
ひかりは顔をあげ、目の前で静かに波打つ海を見た。遠くに細長く山が見える。このあたりの地形を、ひかりはよく知らなかった。頬を冷たい風が刺してくるけれど、ひかりの心は言い様もなく満たされていた。
「君の、真の意図は僕にはわからない」
和明が話しかけてきた。ひかりは何も言葉を返せなかった。和明が少し体を動かし、ひかりの耳元に顔を寄せた。息がかかり、ひかりは感じてしまった。
「ただ、確実なことがある。長谷川君は今、僕たちの背中をじっと見ているよ」
鼓膜に近い場所で低く声が響く。途端に心拍数があがる。
ひかりは浮かれていて、亮の存在を気にもかけていなかった。
「何も問題はない。僕たちは夫婦なんだから」
和明が、ひかりのくだらない願いをすんなりきいてくれた理由が、わかった気がした。
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