【完結】白銀を捧ぐ

白井ゆき

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春の予感

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「まもなく、女子対抗リレーが始まります。選手の方は第3入場口までお越しください。繰り返します――」

 澄んだ青が広がる雲ひとつない穏やかな空。太陽は燦々と地面を照らし、時折生徒の髪を風が攫う。心地よい快晴。絶賛の体育祭日和。……といえば聞こえはいいが、端的に言えば真夏日である。障害物がなく、ただでさえ日陰のないグラウンドは、真っ青な空により余すことなく照らされている。

「あつーい!」

 テントの真ん中で両足を投げ出し、ハンディファンを顔面にあてる環は、俺があえて口にしていなかった言葉を大声で言ってのける。

「暑いっつーから余計暑くなるんだよ」
「だってぇー」

 唇を尖らせ上体を反らした環を尻目に、俺は立てた膝に両腕をのせ、その上に頭を押し付けた。額を伝った汗が地面に落ち、円いしみが零れる。
 10月とは言え、地球温暖化に抗えない日本の気温は下がる気配を見せず、真夏さながらの気温を記録していた。7、8年ほど前、丁度俺達が小学生の頃は、この時期でも十分に涼しく薄っすらと汗がにじむ程度で済んでいたが、今となっては熱中症患者がでてもおかしくない気温だ。環境の変化に伴い体育祭の時期をずらすべきではないだろうか。せめて後2週間後ろに倒すだけで随分と快適に過ごすことができるだろうに。
 1つ、また1つと増えていく雫を見つめ、やがて大きな円になったころで、堪らず環の腕を取りファンの風を顔に当てた。

「暑い?」
「あっつい……」
「扇風機は?」
「教室忘れた……」
「ばかぁー」

 返す元気すらもない。曖昧な母音を絞り出した俺の肩に顔を預けた環が、2人にあたるように角度を調節する。扇風機の生み出す生ぬるい風に目をつむった。決して心地よくはない。けれども表面に浮かぶ玉のような汗がこれ以上増えることもない。この高温の中では、そよ風にも満たない程の風さえもありがたかった。

「そういえば、当日の仕事ないわけ?」

 開会式直後の全員参加である50m走が終わって以来、環はテントの中で項垂れる俺の隣で同じようにバテていた。中学の体育祭では、体育委員はここぞとばかりに雑用を任されていたが、直前の畳み掛けるような忙しさと打って変わって、そんな素振りを一切見せない。中学までと比べ、観覧に訪れた保護者の数こそ少ないが、競技の密度は濃い高校の体育祭の中心たる実行委員がこんな調子でいいのだろうか。おかげで、そよ風に当たることができているわけだが、後々怒られるなんてことがあれば後味が悪い。目だけで見れば、「ないよぉー」と気の抜けた声が返ってきた。

「当日サボるために事前準備頑張ったからねぇー」
「おー、お疲れ」
「もっと褒めてー」
「えらいえらい」

 暑さにやられ、会話に覇気がない。 そりゃあそうだ。テントの影に引き篭もっているとはいえ、入場待機時間や、やたらと長い開会式も合わせればかれこれ4時間経過している。文明の利器が齎す冷気に甘やかされた体はとうの昔に音を上げている。同じように育てられたはずの同級が何故あんなにもはつらつと声を上げることができているのか、応援に励む集団を見て、項垂れた時だ。
 今にも溶けて消えてしまいそうな雰囲気を漂わせる俺達の頭上で、パンッと破裂音が響いた。体育祭であることを忘れ、脱力しきっていた体が驚きで跳ね上がり背筋が伸びる。そんな俺の肩からずり落ちた環の頭が宙を舞った。破裂音の発生源には、胸の前で両手を合わせた女子生徒が仁王立ちしていた。きっちり1つに束ねた髪を揺らし、よく通る声で俺と環を咎める。

「小田原くん! 水野くん! これから女子のクラス別リレーなんだからそんなところでさぼってないで応援!」

 グラウンドで繰り広げられていた力自慢大会と言う米俵を模した重石を頭上に掲げるという地味な絵面の競技は、2人で項垂れている間に決着がついたらしい。疲れた様子の参加者が小走りで退場している。優勝者かお調子者か。数人だけ自分のクラステントに手を振っている。その後を追うように入場したのはリレー選抜メンバーだ。全学年、全クラスの参加者たちの中から、自分のクラスはどれかと視線を彷徨わせたが、そこそこの参加者たちの中から見つけ出すのは至難の技と言うもので、すぐに諦めて視線を戻した。

「ちょっと委員長ー。急に大きな音出さないでよぉ。あざみがびっくりしちゃったじゃーん。怖かったでちゅねぇ、よしよし」
「うぜぇ」

 俺の頭を胸元に引き寄せ、赤子をあやす様に撫で回す環の手を払った。しかし、弾かれた手が再び髪をかき乱す。汗に濡れた髪の毛が左右へ散らかると蒸れていた頭皮に風が通り、わずかな涼しさがもたらされ、目を細めた。すると、より一層掻き乱し、「もう大丈夫でちゅからねぇ」と笑うのだ。信じられない者を見るような委員長の目が突き刺さる。とんだとばっちりだ。普段から赤ちゃん言葉を使っているわけではない。そういうことをするのは環だけだ。
 
「だからうぜぇって。ほら行くぞ。委員長ごめんね」

 環を押しのけながら立ち上がり、応援に参加する態度を示せば、「ならいいのよ」と別のクラスメイトのもとへと歩みを向けていた。どうやら、クラス全員に声をかけて回っているらしい。頼れる委員長はどんな時でも真面目だ。「日陰から出たくないぃ」と駄々をこね、俺の腕にしがみ付く実行委員とは大違い。
 
「じゃあ、1人でうずくまっとけ」
「やだぁ、置いて行かないでよぉ」

 腕にしがみついたまま駄々をこねる環を引きずり、テントの外へ向かう。日向へ一歩踏み出せば、強い日差しが降り注ぎ、頭皮をじりじりと焼いた。それだけで、体に纏わりつく温度が数度上がった気がする。乾きかけていた汗を上書きするように、新しい汗が皮膚からにじみ出て不快に肌を伝った。

「あっつ……」

 規則正しく並べられたクラステントの前。グラウンドと応援座席を仕分ける申し訳ない程度の白線ギリギリに沿って並ぶ生徒に紛れた。体の隅々まで響く和太鼓。学年カラーである青いはちまき。掌ではじけるメガホン。それらの陰に隠れるように、最後尾に立った。掌で作った小さな庇では暑さをしのぐことができず、隣に立つ環のハンディファンを再び自分の方へ向けた。

「応援しないんですかー」
「だりぃ」

 中学の時ほどの熱量がないのは、何も気温のせいだけではない。何かにつけてグループ活動をしていた義務教育とは打って変わって、カリキュラムが大幅に増えた高校の授業では、絶え間なく続くお経のような教師の解説を聞くのが主だ。だからこそ、主体的に動かない限りは中学のように親交は深まらない。たとえ同じクラスだったとしても最低限の交流すらないのが現実だ。加えて、体育祭の練習や、参加する競技が最低限の俺にとって、これから始まる女子の対抗リレーなど、従兄弟の体育祭で見た名前も知らない生徒たちの徒競走と何ら変わらないのだ。出場選手を把握していないことはもちろんとして、名簿を見ても顔を思い出せない人がいる恐れもある。そんな競技に熱狂的に応援できるような気力は日差しが奪ってしまった。

「委員長が聞いてたら怒られちゃうよ」

 そう言って、俺の頬を潰した。感触を楽しむようにふにふにと小刻みに動かす環を見て、笑みをこぼした。

「環も一緒だろ」
「んふふ。そうだね。じゃあ一緒にさぼろっか」

 こてんと首を傾げた環の目が三日月に細まる。魅力的な言葉に誘われるように頷くと、嬉しそうに笑みを深めた環に手を引かれるまま、歩き始めた。
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