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シクラメン
4※嘔吐表現あり
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「もぉ、びっちょびちょ」
環に引っ張られるがまま走った俺は、環が住むマンションのエントランスの前で水をたっぷり含んだシャツを絞った。走ったおかげで、雨に打たれた時間はわずか5分程度ではあったが、アスファルトを叩く大粒の雨は容赦がなく、頭から爪の先まで余すことなく濡れている。絞ってもキリがないことに気づいた俺たちは、仕方がないとそのままエレベーターに乗り込んだ。筐体にできた2つの大きな水たまりは見なかったことにし、部屋の前まで進む。
「タオル持ってくるから待ってて」
開かれた扉の前。ずぶ濡れの体で玄関に上がることは流石に躊躇し、通路で待つことにした。肌に張り付く服を摘んでは絞り、摘んでは絞り。気休め程度にしかならないが、何もしないよりはいいだろう。
「入って良かったのに」
頭の上にタオルを乗せられ、そのまま体が室内に招かれる。そのまま、わしゃわしゃと髪を拭かれた。
「今日雨降るっていってたっけ?」
そう尋ねられ、今朝、朝食を食べながら眺めていた情報番組を思い出した。画面上方、番組ロゴと同じ色合いの時計の隣に常時表示される簡易的な天気予報が示す都市圏の順番は思い出せても、肝心な天気は思い出せない。
「天気予報見てねぇ」
「俺も。にしたってさぁ、直前まで晴れてたじゃんね」
「な」
肩に染みを落としていた俺の髪の毛の水分を粗方取り除き、満足気に頷いた環に連れられ、脱衣所に入った。2人きりの空間で「あー、気持ち悪ぃ」と迷うことなくシャツのボタンを外した環から、慌てて目を逸らした。
上裸を見たことは何度もある。プールの授業では互いの水泳帽を奪い合ったし、真夏の暑い日には上着を脱いでアイスキャンディを頬張った。何度も目にしている。それでも、懐抱に芽吹いた気持ちに気づいた今、当時と同じようにとはいかない。意識もするし、照れもする。何てことのない些細な仕草1つをとっても、欲求を増幅させるきっかけになりえるのだ。
途端に、鏡に映るシャツの張り付いた自分の肌に羞恥心を覚え、頭にかけられたままのタオルを肩まで降ろした。肌が透けている。環もそうだった。張り付いたシャツが、その下に隠した体の凹凸を浮かび上がらせ、浴場を掻き立てる。透ける地肌やインナーの縫い目までもが脳裏に焼き付いて離れない。
「はい、これ着替え。制服乾燥かけるから」
視界の隅に入ったTシャツを振り返らずに受け取った。受け取ってすぐに後悔した。この場で自分も着替えなければならないのだ。好きな人の前で。男同士だから何も恥ずかしがることはない。体育の時も一緒に着替えている。何度言い聞かせても、頭の奥底までは理解が届かず、受け取った服を握りしめる。
「あざみ、どうかした? 服、別のにする?」
「い、いや、これでいい」
呼ばれた名前に、反射的に振り返ってしまった。覗き込む環の顔には当然下心なんてものはなく、罪悪感から視線を落とす。そうすれば、自然と目に入るのは環の体だ。日に焼けていない体に薄ら浮かぶ筋肉の隆起。見慣れたはずのものに、視線は釘付けとなり、じわじわと顔に熱が集まった。しかし、その熱も「着替えないの?」という環の一言で散り散りとなる。
「ぇ、あ、……着替えるよ」
受け取った服を洗濯機の上に置き、ボタンに手をかけた。環にとって、着替えるという行為に深い意味はない。そんな現実を突きつけられた俺の体の火照りはすっかりおさまり、雨に濡れた服に体温が奪われていった。環にとって、自分はそういう対象ではない。分かりきっていたことだ。俺と柳田が漫画の貸し借りをしていたことに不快感を示したあの日からずっと。
肌に張り付くシャツを無理矢理腕から引き抜いた。ふと視線を上げると、鏡に映る自分の体が目に入る。広い肩幅。厚い胸板。筋張った腕には血管が浮き出ている。男としても決して華奢ではないこの姿に、情欲が湧き上がるはずがない。思い出されるのは、いつか見た環の隣を歩く柳田の姿だ。華奢な肩も、細い手足も、柔らかそうな肌も、何もかも持ち合わせていない。
「これってあれかな、ゲリラ豪雨。にしては季節外れだけど。普通夏だよね? あぁ本当最悪。せっかくあざみとゲームするのに。ねぇー?」
自分には環の心を惹きつけるものは何もない。俺にできるのは、環の移り気な心に付き合うことだけだ。そんなことは誰にでもできる。柳田だって、きっとどこまでも付き合うのだろう。俺が守り続けていたこの席も、いつかは彼女に奪われる。
……いやだ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。先に見つけたのはこっちだ。あの日見つけた特等席を温め続けていたのも。誰にも取られたくない。この場所は、誰にも譲りたくない。
「あざみ?」
肚の底で黒い感情がとぐろを巻いた。その不快感はあっという間に膨れ上がり、隙間を埋め尽くす。行き場をなくした気持ちが溢れかえる予感に小さく嘔吐くいた。
「どうしたの? 顔色悪いよ。気分悪い?」
「な、んでもない」
「お腹痛い? 部屋で休む?」
「や、本当に、だいじょ――っ……!」
異物がせり上がる。胃から口内へ続く食道の通り道を知覚した。
――吐く。
これを見られてはだめだ。隠さなければならない。こんなものを吐くなんて誰にも、……環にだけは知られたくない。
脱いだばかりのシャツで口元を覆う。空気を喘ぐように吸い込むと、たっぷり吸い込んだ水分が鼻に入り込みごほごほと咳き込む。その勢いで、体内から出ようとする花が喉を押し広げる。
「ごめっ、……トイレ貸して」
脱衣所の向かいにあるトイレを目指して足を踏み出したが、外へ出る前に、腕を掴まれる。体を動かした反動でこみ上げる不快感に嘔吐けば、心配そうに顔を歪めて洗面台に誘導される。
「吐きそう? ここで吐いても大丈夫だよ」
「ゃ、本当、にっ、ぅえっ」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「……っぉえ、ぁ……かはっ、」
背中を摩られ、すぐそこまで迫っていた花が食道を駆け上がる。見せまいと止めることができたのは一瞬で、口内を満たした花が手とシャツの間から溢れ出し洗面台へとこぼれ落ちた。
早まる鼓動。背中を伝う汗。嘔吐感によるものか、己の体に刻まれた奇妙な秘密を見られてしまったことによるものか。ハッと顔を上げると、俺が吐き出した花を見つめる環の姿が鏡に映っていた。咄嗟にシャツを被せたけれど意味はなく、環の視線はそのシャツの下に隠した不気味なものに注がれ続けている。
「あ、待って、違くて」
口がうまく回らない。真っ白になった頭では、大した言い訳も浮かばず、意味のない否定の言葉ばかりが浮かび上がる。せめてもの抵抗をと、前傾になっていた姿勢を正し、環と花の間に体を滑り込ませた。
「……誰?」
「は?」
「相手。誰?」
環の質問の意図が読めず、瞳を小刻みに揺らした。それに構うこともなく、花を覆い隠したシャツに手を伸ばそうとする環の腕を慌てて掴む。
「おい! 触んなって!」
この気味の悪い病気は患者の花で感染する。自分とは違って、柳田と両想いである環が恋心を拗らせることはないとしても、感染を許容していい理由にはならない。そのことを何とか伝えねばと、俺が名前を呼ぶよりも早く、環が口を開いた。
「相手、誰?」
目が合った。いつも愉快に細められたタレ目には何の感情もなく、どろりとしたその真っ黒な目に貫かれた。様子の違う環に恐怖を感じた体は小刻みに震え出し、気がつけば後ずさっていた。しかし、それもすぐに、洗面台によって阻まれる。
「誰って……」
「俺には言えないような相手?」
環はこの病気を知っている。そう確信した。そうでなければ花以外に注意を向けることも、相手を聞いてくることもありえない。心臓がどくりと跳ねた。自分の気持ちがバレてしまうのかもしれない。そうなれば、1番どころか、普通の友達にすらなれない。1歩間違えれば、今の関係が壊れてしまう。
吐く息が短くなる。逃げ出したい気持ちは溢れかえっているのに、俺を見下ろす環の視線から逃れることができず、口をはくはくと動かすことしかできなかった。
「なぁ、誰? ……もしかして、柳田ゆき?」
「は……? いや、柳田さんじゃ……ってか、そもそも女子とかそういうんじゃ……」
慌てていたのだと思う。病気がバレたことも、その相手が環の想い人と同じであると勘違いされたことも。色々な焦りが積み重なり、否定のために口から出た言葉が何を指すのか気づくのが遅れた。己のミスに気付き口を抑えたがもう遅い。環の顔に表情が戻る。いつものヘラヘラとした笑顔ではない。眉根を顰め、今にも崩れ落ちそうな俺を見下ろす環は、知らない環だった。
「何それ……相手、男?」
「あ……ゃ、」
「……」
「いや、違くて、」
「はぁ……そっちかよ。まじでしくった」
環が雨に濡れたのやわかそうな髪をぐしゃりと掻き混ぜた。俯いた顔からは表情が読めず、小さく呟くように吐き出された言葉の真意を探ろうと名前を呼べば、乱れた髪の隙間から鋭い瞳に射られた。
「ご、めっ、ごめん、でも環には迷惑かけないから、だから、安心して――っ!」
震える声で絞り出した謝罪が終わる前に、体がぐるりと回る。花を覆い隠したシャツの上。そこと向き合うように俺の頭を固定した環は、あろうことか俺の口をこじ開けた。
「もう全部出した?」
唇を割いるように侵入した指は、舌根を目指し奥へと進んでいく。
「んっ、ぐぅ……、は、なにひて」
「それ、もう全部出したか聞いてんの。そんなもの残ってたってどうしようもないでしょ。どうせ叶わないよ」
そんなもの。どうしようもないもの。かなわないもの。
鈍器で頭を殴られたかのような錯覚に顔を歪めた。そんなことは自分が1番分かっている。普通ではないこの感情の異常性に1番悩まされているのは、他でもない自分自身だ。それでも、その言葉を環からだけは聞きたくなかった。本人から突きつけられた現実に、じわりと視界が歪む。
波打つ視界の向こう側。湿ったシャツと、舌の根本を押し込む環の手を掴む情けないほどに震えた自分の手。全てが惨憺で、口端から漏れる息が嗚咽なのか嘔吐なのかすら判断もできない。
「ぁ゛、……なっで、」
「ほら全部出して」
「やめ……! ぁ、は、うっ……ぉえっ」
強制的に開かされた喉を通って異物が落ちる。白い陶器の上を埋め尽くす目が覚めるような赤。上向きに反り返るように身を開いた可憐な花が1つ、また1つと零れるたび、喉が痙攣し、涙があふれ出す。それでもなお、喉奥を押し続ける環の腕を引っ張る俺の抵抗をものともせず、さらに奥へと突き進もうとする指に、とうとう花ではなく胃液が飛び出た。特有の刺激と酸っぱい香りがもたらす不快感は吐き気を誘発し、赤い花の上に降り注いでいく。
「まっ、で、ゃめろってば……! もう、でない゛! でないからっ」
涙ながらに訴えれば、漸く口内を支配していた指が出ていく。空咳を繰り返しながら顔をあげると、涙や唾液で文字通りぐちゃぐちゃの顔が鏡に映っていた。そして、その顔を掴む環の手。俺が吐き出した体液で光る環の手に、俺は顔を青くした。
環に引っ張られるがまま走った俺は、環が住むマンションのエントランスの前で水をたっぷり含んだシャツを絞った。走ったおかげで、雨に打たれた時間はわずか5分程度ではあったが、アスファルトを叩く大粒の雨は容赦がなく、頭から爪の先まで余すことなく濡れている。絞ってもキリがないことに気づいた俺たちは、仕方がないとそのままエレベーターに乗り込んだ。筐体にできた2つの大きな水たまりは見なかったことにし、部屋の前まで進む。
「タオル持ってくるから待ってて」
開かれた扉の前。ずぶ濡れの体で玄関に上がることは流石に躊躇し、通路で待つことにした。肌に張り付く服を摘んでは絞り、摘んでは絞り。気休め程度にしかならないが、何もしないよりはいいだろう。
「入って良かったのに」
頭の上にタオルを乗せられ、そのまま体が室内に招かれる。そのまま、わしゃわしゃと髪を拭かれた。
「今日雨降るっていってたっけ?」
そう尋ねられ、今朝、朝食を食べながら眺めていた情報番組を思い出した。画面上方、番組ロゴと同じ色合いの時計の隣に常時表示される簡易的な天気予報が示す都市圏の順番は思い出せても、肝心な天気は思い出せない。
「天気予報見てねぇ」
「俺も。にしたってさぁ、直前まで晴れてたじゃんね」
「な」
肩に染みを落としていた俺の髪の毛の水分を粗方取り除き、満足気に頷いた環に連れられ、脱衣所に入った。2人きりの空間で「あー、気持ち悪ぃ」と迷うことなくシャツのボタンを外した環から、慌てて目を逸らした。
上裸を見たことは何度もある。プールの授業では互いの水泳帽を奪い合ったし、真夏の暑い日には上着を脱いでアイスキャンディを頬張った。何度も目にしている。それでも、懐抱に芽吹いた気持ちに気づいた今、当時と同じようにとはいかない。意識もするし、照れもする。何てことのない些細な仕草1つをとっても、欲求を増幅させるきっかけになりえるのだ。
途端に、鏡に映るシャツの張り付いた自分の肌に羞恥心を覚え、頭にかけられたままのタオルを肩まで降ろした。肌が透けている。環もそうだった。張り付いたシャツが、その下に隠した体の凹凸を浮かび上がらせ、浴場を掻き立てる。透ける地肌やインナーの縫い目までもが脳裏に焼き付いて離れない。
「はい、これ着替え。制服乾燥かけるから」
視界の隅に入ったTシャツを振り返らずに受け取った。受け取ってすぐに後悔した。この場で自分も着替えなければならないのだ。好きな人の前で。男同士だから何も恥ずかしがることはない。体育の時も一緒に着替えている。何度言い聞かせても、頭の奥底までは理解が届かず、受け取った服を握りしめる。
「あざみ、どうかした? 服、別のにする?」
「い、いや、これでいい」
呼ばれた名前に、反射的に振り返ってしまった。覗き込む環の顔には当然下心なんてものはなく、罪悪感から視線を落とす。そうすれば、自然と目に入るのは環の体だ。日に焼けていない体に薄ら浮かぶ筋肉の隆起。見慣れたはずのものに、視線は釘付けとなり、じわじわと顔に熱が集まった。しかし、その熱も「着替えないの?」という環の一言で散り散りとなる。
「ぇ、あ、……着替えるよ」
受け取った服を洗濯機の上に置き、ボタンに手をかけた。環にとって、着替えるという行為に深い意味はない。そんな現実を突きつけられた俺の体の火照りはすっかりおさまり、雨に濡れた服に体温が奪われていった。環にとって、自分はそういう対象ではない。分かりきっていたことだ。俺と柳田が漫画の貸し借りをしていたことに不快感を示したあの日からずっと。
肌に張り付くシャツを無理矢理腕から引き抜いた。ふと視線を上げると、鏡に映る自分の体が目に入る。広い肩幅。厚い胸板。筋張った腕には血管が浮き出ている。男としても決して華奢ではないこの姿に、情欲が湧き上がるはずがない。思い出されるのは、いつか見た環の隣を歩く柳田の姿だ。華奢な肩も、細い手足も、柔らかそうな肌も、何もかも持ち合わせていない。
「これってあれかな、ゲリラ豪雨。にしては季節外れだけど。普通夏だよね? あぁ本当最悪。せっかくあざみとゲームするのに。ねぇー?」
自分には環の心を惹きつけるものは何もない。俺にできるのは、環の移り気な心に付き合うことだけだ。そんなことは誰にでもできる。柳田だって、きっとどこまでも付き合うのだろう。俺が守り続けていたこの席も、いつかは彼女に奪われる。
……いやだ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。先に見つけたのはこっちだ。あの日見つけた特等席を温め続けていたのも。誰にも取られたくない。この場所は、誰にも譲りたくない。
「あざみ?」
肚の底で黒い感情がとぐろを巻いた。その不快感はあっという間に膨れ上がり、隙間を埋め尽くす。行き場をなくした気持ちが溢れかえる予感に小さく嘔吐くいた。
「どうしたの? 顔色悪いよ。気分悪い?」
「な、んでもない」
「お腹痛い? 部屋で休む?」
「や、本当に、だいじょ――っ……!」
異物がせり上がる。胃から口内へ続く食道の通り道を知覚した。
――吐く。
これを見られてはだめだ。隠さなければならない。こんなものを吐くなんて誰にも、……環にだけは知られたくない。
脱いだばかりのシャツで口元を覆う。空気を喘ぐように吸い込むと、たっぷり吸い込んだ水分が鼻に入り込みごほごほと咳き込む。その勢いで、体内から出ようとする花が喉を押し広げる。
「ごめっ、……トイレ貸して」
脱衣所の向かいにあるトイレを目指して足を踏み出したが、外へ出る前に、腕を掴まれる。体を動かした反動でこみ上げる不快感に嘔吐けば、心配そうに顔を歪めて洗面台に誘導される。
「吐きそう? ここで吐いても大丈夫だよ」
「ゃ、本当、にっ、ぅえっ」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「……っぉえ、ぁ……かはっ、」
背中を摩られ、すぐそこまで迫っていた花が食道を駆け上がる。見せまいと止めることができたのは一瞬で、口内を満たした花が手とシャツの間から溢れ出し洗面台へとこぼれ落ちた。
早まる鼓動。背中を伝う汗。嘔吐感によるものか、己の体に刻まれた奇妙な秘密を見られてしまったことによるものか。ハッと顔を上げると、俺が吐き出した花を見つめる環の姿が鏡に映っていた。咄嗟にシャツを被せたけれど意味はなく、環の視線はそのシャツの下に隠した不気味なものに注がれ続けている。
「あ、待って、違くて」
口がうまく回らない。真っ白になった頭では、大した言い訳も浮かばず、意味のない否定の言葉ばかりが浮かび上がる。せめてもの抵抗をと、前傾になっていた姿勢を正し、環と花の間に体を滑り込ませた。
「……誰?」
「は?」
「相手。誰?」
環の質問の意図が読めず、瞳を小刻みに揺らした。それに構うこともなく、花を覆い隠したシャツに手を伸ばそうとする環の腕を慌てて掴む。
「おい! 触んなって!」
この気味の悪い病気は患者の花で感染する。自分とは違って、柳田と両想いである環が恋心を拗らせることはないとしても、感染を許容していい理由にはならない。そのことを何とか伝えねばと、俺が名前を呼ぶよりも早く、環が口を開いた。
「相手、誰?」
目が合った。いつも愉快に細められたタレ目には何の感情もなく、どろりとしたその真っ黒な目に貫かれた。様子の違う環に恐怖を感じた体は小刻みに震え出し、気がつけば後ずさっていた。しかし、それもすぐに、洗面台によって阻まれる。
「誰って……」
「俺には言えないような相手?」
環はこの病気を知っている。そう確信した。そうでなければ花以外に注意を向けることも、相手を聞いてくることもありえない。心臓がどくりと跳ねた。自分の気持ちがバレてしまうのかもしれない。そうなれば、1番どころか、普通の友達にすらなれない。1歩間違えれば、今の関係が壊れてしまう。
吐く息が短くなる。逃げ出したい気持ちは溢れかえっているのに、俺を見下ろす環の視線から逃れることができず、口をはくはくと動かすことしかできなかった。
「なぁ、誰? ……もしかして、柳田ゆき?」
「は……? いや、柳田さんじゃ……ってか、そもそも女子とかそういうんじゃ……」
慌てていたのだと思う。病気がバレたことも、その相手が環の想い人と同じであると勘違いされたことも。色々な焦りが積み重なり、否定のために口から出た言葉が何を指すのか気づくのが遅れた。己のミスに気付き口を抑えたがもう遅い。環の顔に表情が戻る。いつものヘラヘラとした笑顔ではない。眉根を顰め、今にも崩れ落ちそうな俺を見下ろす環は、知らない環だった。
「何それ……相手、男?」
「あ……ゃ、」
「……」
「いや、違くて、」
「はぁ……そっちかよ。まじでしくった」
環が雨に濡れたのやわかそうな髪をぐしゃりと掻き混ぜた。俯いた顔からは表情が読めず、小さく呟くように吐き出された言葉の真意を探ろうと名前を呼べば、乱れた髪の隙間から鋭い瞳に射られた。
「ご、めっ、ごめん、でも環には迷惑かけないから、だから、安心して――っ!」
震える声で絞り出した謝罪が終わる前に、体がぐるりと回る。花を覆い隠したシャツの上。そこと向き合うように俺の頭を固定した環は、あろうことか俺の口をこじ開けた。
「もう全部出した?」
唇を割いるように侵入した指は、舌根を目指し奥へと進んでいく。
「んっ、ぐぅ……、は、なにひて」
「それ、もう全部出したか聞いてんの。そんなもの残ってたってどうしようもないでしょ。どうせ叶わないよ」
そんなもの。どうしようもないもの。かなわないもの。
鈍器で頭を殴られたかのような錯覚に顔を歪めた。そんなことは自分が1番分かっている。普通ではないこの感情の異常性に1番悩まされているのは、他でもない自分自身だ。それでも、その言葉を環からだけは聞きたくなかった。本人から突きつけられた現実に、じわりと視界が歪む。
波打つ視界の向こう側。湿ったシャツと、舌の根本を押し込む環の手を掴む情けないほどに震えた自分の手。全てが惨憺で、口端から漏れる息が嗚咽なのか嘔吐なのかすら判断もできない。
「ぁ゛、……なっで、」
「ほら全部出して」
「やめ……! ぁ、は、うっ……ぉえっ」
強制的に開かされた喉を通って異物が落ちる。白い陶器の上を埋め尽くす目が覚めるような赤。上向きに反り返るように身を開いた可憐な花が1つ、また1つと零れるたび、喉が痙攣し、涙があふれ出す。それでもなお、喉奥を押し続ける環の腕を引っ張る俺の抵抗をものともせず、さらに奥へと突き進もうとする指に、とうとう花ではなく胃液が飛び出た。特有の刺激と酸っぱい香りがもたらす不快感は吐き気を誘発し、赤い花の上に降り注いでいく。
「まっ、で、ゃめろってば……! もう、でない゛! でないからっ」
涙ながらに訴えれば、漸く口内を支配していた指が出ていく。空咳を繰り返しながら顔をあげると、涙や唾液で文字通りぐちゃぐちゃの顔が鏡に映っていた。そして、その顔を掴む環の手。俺が吐き出した体液で光る環の手に、俺は顔を青くした。
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