【完結】白銀を捧ぐ

白井ゆき

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シクラメン

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「――ざみ。あざみ。あざみ!」

 頬をペチペチと叩く掌に意識が浮上する。乾いた皮の匂いと芳香剤の甘ったるい香り。固い質感のシートはお世辞にも寝心地がいいとは言えず、より良いポジションを探るように寝返りを打った。

「起きなさいったら!」

 バシン、と二の腕を強く叩かれ、俺は文字通り飛び起きた。瞬きを繰り返し、目を慣らすと運転席から身を乗り出す母親の姿があった。叩かれた二の腕を摩り、体を起こす。どうやら自宅の駐車場にいるらしく、フロントガラスには見慣れた風景が広がっていた。

「やぁっと起きた。起きなかったらどうしようかと思ったわよ。子供じゃないんだからもう運べないわよ」
「え、あ、うん」
「もう、あんたはまた環くんに迷惑かけて! しっかりしてよねぇ。明日お礼言いなさいよ。車に乗せてくれたの環くんなんだから」
「環が?」
「そうよ。泊まってもいいって言ってくれたけど、流石にそうするわけにはいかないでしょ? ご両親は不在みたいだし。だから迎えに行ったのよ。あんまり迷惑かけちゃダメでしょ」

 延々と続きそうな説教だったが、覚醒しきれない俺の曖昧な返事に、これ以上意味がないと悟ったのか、深いため息と共に終幕となった。後部座席を見渡すと、足元にはスクールバッグが転がっていた。運転中に転がり落ちたのだろう。取り出し口を下にして逆さまだ。シートの上には紙袋が横たわっている。中身を確認すると、制服が入っていた。そこで漸く、身につけている衣服が着替えとして渡されたTシャツとスウェットであることに気が付いた。袖口を鼻先に押し付けると、時折環から香る柔軟剤の匂いがする。
 
「ほら! 起きたなら降りなさい!」
「あぁ、うん」

 どきりと心臓を跳ねさせながら、荷物をかき集めて車を降りた。残暑が終わり秋めいた夜の気温は低く、薄手のTシャツ1枚では心もとない。鳥肌が広がる両腕を摩りながら、母親の後に続いて家に入った。

「雨に濡れたんだって? 大丈夫だった?」
「少しだったし、大丈夫」
「ならいいけど。ちゃんと天気予報見なさいよ。それか折り畳み傘持ち歩きなさい」

 持ってるでしょ、黒いやつ。そう続けた母親に、俺は曖昧に頷き返した。中学の時にコンビニで買った折り畳み傘は、1000円という手頃な値段に見合わず使い勝手が良かった。軽い割に丈夫で、大雨の中差しても水が滴り落ちることもない。片手で開けるジャンプアップ機能も気に入っていた。しかし、購入してから2年程経った頃に壊れてしまったのだ。……いや、壊してしまった。
 ルービックキューブに飽きた環が放り出したバラバラのスクエアを、俺が分解して整頓していく様子を見た環がこう言ったのだ。「俺も何か分解したい」と。シャーペンやメガネなどの手頃なものから始まった分解大会は案外楽しく、悪ノリした俺は、丁度持ち帰っていた折り畳み傘に目をつけた。骨組みと布に分けてすぐに戻す算段だったのだが、その途中で細い金属がぽっきりと折れ、あえなくお陀仏となった。電子機器に手をつける前に失敗したことは不幸中の幸いだ。見るも無惨な姿になった傘を見て、環と腹を抱えて笑ったのだ。

「……環何か言ってた?」
「何かって?」
「……や、何でもない」
「そう?」

 今日の環はほとんど笑っていなかった。怒っていたのだろう。いや、そんな軽い言葉で片付けてはいけない。1週間口をきかないほどの大喧嘩の時でさえ、もっと表情豊かだった。
 玄関の上がり框の前で立ちすくむ俺に母親が振り返った。

「あざみ、ご飯食べた? 今日はもう出前にしようかってお父さんと話してたんだけど、何か食べたいものある?」
「いや、大丈夫。2人が食べたいもの頼みなよ」
「そう? 何にしようかしら」

 上機嫌でリビングに向かう母と別れて、部屋に戻った。紙袋から綺麗に畳まれた制服を取り出し、ハンガーにかける。中身が濡れていないかと、スクールバッグを開けば、昼に食べ損ねた卵ロールが入っていた。潰れて中身が飛び出し、原型を留めていない。白く汚れた袋を破き、取り出したパンからは何の味もしなかった。
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