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チューリップ
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いつの間にか眠っていたらしい。チャイムの音で目が覚ますと4限が終わったところだった。飛び起きた俺の気配に気付いたのか、ベッドを囲うカーテンの向こうから、開けてもいいかと尋ねられた。「大丈夫です」と答えれば、そっと開けられたカーテンの隙間から看護教諭の顔が覗く。
「体調はどう?」
「大丈夫です。すみません、寝すぎて……」
蒔田に連れられてきた2限の終わりからちょうど2時間寝てしまっていたらしい。高校での規則がどうなっているのか知らないが、中学では1時間が限界だったはずだ。それ以上の滞在が許させるのは、早退が決まって親の迎えを待つ場合くらいだ。おまけに、俺は体調が悪いわけではない。他の利用者がいなかっただろうかとわずかな隙間から視線を滑らした。幸い、そういった姿はないようでホッと胸を撫で下ろす。
「どうする? 帰る?」
「え」
「先生としては、帰ってしっかり休んでほしいけど、どう?」
「あー……」
委ねるような問いに視線を惑わせた。どう、と言われても。体調だけを考えれば、教室に戻ることができる。問題は精神面だ。すぐ近くにいる環と話すことも許されない心の距離にこれ以上耐え続けることがどうしようもなくつらい。視線を床に落として、つるりとした素材についた黒い傷を辿る。「帰ろうと思います」そう伝えようと顔を上げた時だ。
保健室の扉が叩かれる。静かな空間に響いたその音に、「ちょっと待ってて」と先生が駆け寄った。
「すみません、ブランケットを返しに来ました」
「はーい。……って、あら? 蒲田くん?」
「クラスメイトの代わりです」
「そうだったのね。返却名簿に名前書いてもらえる?」
「はい」
聞き覚えのある名前に顔を上げた。挨拶でもしようかとベッドから這い出て立ち上がれば、途端に視界が回転を始める。同時にモノクロに点滅し始め、床に下ろしたはずの足から力が抜け落ちた。しまったと思ったときにはもう遅い。俺の体は咄嗟に掴んだ布の張ったパーテーションを巻き込んで倒れ込んだ。
「いってぇ……」
アルミが床に叩き付けられ大きな音が響く。打ち付けた膝頭と締め付けられるような頭痛に顔を顰めていれば、養護教諭が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「大丈夫です、すみません、本当」
倒れたパーテーションを起こそうと伸ばした手は制され、ベッドに戻るように促された。保険医の手を借りながらベッドへよじ登る途中、目隠しがなくなり開けた視界で、蒲田と目が合った。返しに来たというブランケットを抱えたまま目を丸くする蒲田に他愛なく笑い会釈をする。
「やっぱり帰りなさい。お迎え呼べる? 呼べないなら先生に送ってもらえるようにするわ」
「呼べると、思います。連絡します」
「そう? じゃあ担任の先生に早退の連絡と、あと荷物取ってくるから待ってなさい」
「すみません」
「絶対動いちゃだめよ」
「はい」
念押しする先生に頷きながら大人しく体を横にした。立ち眩みを起こし派手に倒れた手前、無理はできない。自分では気づいていないだけで随分と限界が来ていたらしい。大人の意見に従った方がいいのだろう。足元に畳んでいた毛布を肩まで持ち上げて従う意思を見せれば、もう一度動かないよう念押しをして蒲田のもとへ向かう。
貸出名簿が挟まれているであろう使い古されたバインダーを養護教諭に手渡した蒲田は、そのまま「鞄、僕が取りに行きましょうか?」と言う。
「委員会が同じなんです」
ね、と2人分の視線を投げかけられ、横になったまま頷いた。
「じゃあ、頼んでもいいかしら」
「大丈夫ですよ」
「ありがとう。よろしくね」
最後に愛想よく会釈をして出ていった。養護教諭も蒲田から受け取ったブランケットを片して出ていった。扉越しに話し声が聞こえるあたり、担任に連絡をしているのかもしれない。随分と大事になってしまったように思う。今度の図書委員の当番のときに、蒲田にも礼を言おう。体温で暖まった毛布に顔を埋めた。
しばらくすると戻ってきた養護教諭に尋ねられるまま、母親が迎えに来てくれることになったと適当な方便を言って、言及されないように顔を引っ込めた。連絡をすれば母親が迎えに来てくれるだろうが、わざわざ呼び出すほどではない。平日の昼間であれば電車も空いているだろうから、休憩を挟みながら帰ればいい。
少しして、再び引き戸が開く音がした。蒲田が鞄を持ってきてくれたのだろう。のっそりと体を起こし、慎重に立ち上がった。
「あ、水野くんのお友達?」
「先輩、ありがとうございま――」
今度は倒さないよう慎重に開けたパーテーションのその先。
「ごめんね、先輩じゃなくて」
蒲田が立っていると思っていた場所に立っていたのは、不機嫌そうな環だった。
「蒲田くんから引き継いでくれたのね。ありがとう。水野くん、お迎えどう? どのくらいに着きそうって?」
「あ、もうすぐで向いのコンビニに着くそうです」
「そうなの? 1人で大丈夫?」
「大丈夫です、近いので。ありがとうございました」
「お大事に」と見送る養護教諭にぺこぺこと頭を下げながら保健室を出れば、環の鞄が扉の前に無造作に置かれていた。環はそれを拾い上げ、心なしかいつもより、ゆったりと歩き始める。
俺と自分の分と。環の肩にかかった2つ分の鞄うち自分のものを引っ張った。
「鞄、ありがとう。自分で持つよ」
「いいよ。体調悪いんでしょ」
「……ありがと」
相変わらず素っ気ない態度だ。それでも、労わるようなこのスピードが決して拒絶しているわけではないと教えてくれる。そんな些細なことで充足感が広がった。
ふわふわとした足取りのまま、環の後ろを着いていけば、昇降口まではあっという間だった。靴箱に到着する前にもう一度自分の鞄を掴む。これを受け取ってしまえば、今日はもう話すことはできない。そう思うと、再び口に出そうとした感謝の言葉が喉につっかえた。俺が躊躇っているうちに環が振り返る。
「ちょっと、何。俺が持つって言ったじゃん」
「でも、もう靴箱だし……」
いくら何も入っていないとは言え、持ち帰らないわけにはいかないし、これ以上環を付き合わせるのもよくない。平日真昼間の運行状況は把握していないが、上手く乗り継げたとしても、午後の授業に遅れるに決まっている。分かっているのに、やはり言葉は出てこなかった。
ずっと、目も合わせてくれなかったのだ。このまま、鞄を持ってもらうことを口実に一緒に帰ることができたら、この蟠りも少しは小さくなるかもしれない。そんな浅はかな考えがぐるぐると頭を回る。こんなことばかりを考えているから罰が当たるのに、閉じたままの口も、足も縫い付けられたかのように動かない。今はただ、一緒にいられる方法だけを追い求めてしまう。そんな願いが届いたのだろうか。
「俺も帰るから問題ないよ」
上げた顔はすぐに逸らされた。鞄を掴んでいた手も振り払われる。でも、上履きのままぼうっと立っている俺を置いて行こうとはしない。スマホに指を滑らせながら待ってくれている。
「何で……?」
「何、嫌なわけ」
「そうじゃねぇけど……いいの?」
「いいでしょ。どうせ大した授業しないし」
「そうだけど」
だからといって、わざわざサボってまでついてきてくれる理由にはならない。……他の理由を当てはめてしまいそうになる。俺のことが心配だったからじゃないか、なんて。そんなはずがないのに。きっと、授業が面倒だから、とか。家に帰ってゆっくりしたい、だとか。そんなところだろう。それでも、胸の中に暖かな感情が広がってしまう。ゆるりと上がった口角を隠す様に靴箱の扉を開けた。
「体調はどう?」
「大丈夫です。すみません、寝すぎて……」
蒔田に連れられてきた2限の終わりからちょうど2時間寝てしまっていたらしい。高校での規則がどうなっているのか知らないが、中学では1時間が限界だったはずだ。それ以上の滞在が許させるのは、早退が決まって親の迎えを待つ場合くらいだ。おまけに、俺は体調が悪いわけではない。他の利用者がいなかっただろうかとわずかな隙間から視線を滑らした。幸い、そういった姿はないようでホッと胸を撫で下ろす。
「どうする? 帰る?」
「え」
「先生としては、帰ってしっかり休んでほしいけど、どう?」
「あー……」
委ねるような問いに視線を惑わせた。どう、と言われても。体調だけを考えれば、教室に戻ることができる。問題は精神面だ。すぐ近くにいる環と話すことも許されない心の距離にこれ以上耐え続けることがどうしようもなくつらい。視線を床に落として、つるりとした素材についた黒い傷を辿る。「帰ろうと思います」そう伝えようと顔を上げた時だ。
保健室の扉が叩かれる。静かな空間に響いたその音に、「ちょっと待ってて」と先生が駆け寄った。
「すみません、ブランケットを返しに来ました」
「はーい。……って、あら? 蒲田くん?」
「クラスメイトの代わりです」
「そうだったのね。返却名簿に名前書いてもらえる?」
「はい」
聞き覚えのある名前に顔を上げた。挨拶でもしようかとベッドから這い出て立ち上がれば、途端に視界が回転を始める。同時にモノクロに点滅し始め、床に下ろしたはずの足から力が抜け落ちた。しまったと思ったときにはもう遅い。俺の体は咄嗟に掴んだ布の張ったパーテーションを巻き込んで倒れ込んだ。
「いってぇ……」
アルミが床に叩き付けられ大きな音が響く。打ち付けた膝頭と締め付けられるような頭痛に顔を顰めていれば、養護教諭が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「大丈夫です、すみません、本当」
倒れたパーテーションを起こそうと伸ばした手は制され、ベッドに戻るように促された。保険医の手を借りながらベッドへよじ登る途中、目隠しがなくなり開けた視界で、蒲田と目が合った。返しに来たというブランケットを抱えたまま目を丸くする蒲田に他愛なく笑い会釈をする。
「やっぱり帰りなさい。お迎え呼べる? 呼べないなら先生に送ってもらえるようにするわ」
「呼べると、思います。連絡します」
「そう? じゃあ担任の先生に早退の連絡と、あと荷物取ってくるから待ってなさい」
「すみません」
「絶対動いちゃだめよ」
「はい」
念押しする先生に頷きながら大人しく体を横にした。立ち眩みを起こし派手に倒れた手前、無理はできない。自分では気づいていないだけで随分と限界が来ていたらしい。大人の意見に従った方がいいのだろう。足元に畳んでいた毛布を肩まで持ち上げて従う意思を見せれば、もう一度動かないよう念押しをして蒲田のもとへ向かう。
貸出名簿が挟まれているであろう使い古されたバインダーを養護教諭に手渡した蒲田は、そのまま「鞄、僕が取りに行きましょうか?」と言う。
「委員会が同じなんです」
ね、と2人分の視線を投げかけられ、横になったまま頷いた。
「じゃあ、頼んでもいいかしら」
「大丈夫ですよ」
「ありがとう。よろしくね」
最後に愛想よく会釈をして出ていった。養護教諭も蒲田から受け取ったブランケットを片して出ていった。扉越しに話し声が聞こえるあたり、担任に連絡をしているのかもしれない。随分と大事になってしまったように思う。今度の図書委員の当番のときに、蒲田にも礼を言おう。体温で暖まった毛布に顔を埋めた。
しばらくすると戻ってきた養護教諭に尋ねられるまま、母親が迎えに来てくれることになったと適当な方便を言って、言及されないように顔を引っ込めた。連絡をすれば母親が迎えに来てくれるだろうが、わざわざ呼び出すほどではない。平日の昼間であれば電車も空いているだろうから、休憩を挟みながら帰ればいい。
少しして、再び引き戸が開く音がした。蒲田が鞄を持ってきてくれたのだろう。のっそりと体を起こし、慎重に立ち上がった。
「あ、水野くんのお友達?」
「先輩、ありがとうございま――」
今度は倒さないよう慎重に開けたパーテーションのその先。
「ごめんね、先輩じゃなくて」
蒲田が立っていると思っていた場所に立っていたのは、不機嫌そうな環だった。
「蒲田くんから引き継いでくれたのね。ありがとう。水野くん、お迎えどう? どのくらいに着きそうって?」
「あ、もうすぐで向いのコンビニに着くそうです」
「そうなの? 1人で大丈夫?」
「大丈夫です、近いので。ありがとうございました」
「お大事に」と見送る養護教諭にぺこぺこと頭を下げながら保健室を出れば、環の鞄が扉の前に無造作に置かれていた。環はそれを拾い上げ、心なしかいつもより、ゆったりと歩き始める。
俺と自分の分と。環の肩にかかった2つ分の鞄うち自分のものを引っ張った。
「鞄、ありがとう。自分で持つよ」
「いいよ。体調悪いんでしょ」
「……ありがと」
相変わらず素っ気ない態度だ。それでも、労わるようなこのスピードが決して拒絶しているわけではないと教えてくれる。そんな些細なことで充足感が広がった。
ふわふわとした足取りのまま、環の後ろを着いていけば、昇降口まではあっという間だった。靴箱に到着する前にもう一度自分の鞄を掴む。これを受け取ってしまえば、今日はもう話すことはできない。そう思うと、再び口に出そうとした感謝の言葉が喉につっかえた。俺が躊躇っているうちに環が振り返る。
「ちょっと、何。俺が持つって言ったじゃん」
「でも、もう靴箱だし……」
いくら何も入っていないとは言え、持ち帰らないわけにはいかないし、これ以上環を付き合わせるのもよくない。平日真昼間の運行状況は把握していないが、上手く乗り継げたとしても、午後の授業に遅れるに決まっている。分かっているのに、やはり言葉は出てこなかった。
ずっと、目も合わせてくれなかったのだ。このまま、鞄を持ってもらうことを口実に一緒に帰ることができたら、この蟠りも少しは小さくなるかもしれない。そんな浅はかな考えがぐるぐると頭を回る。こんなことばかりを考えているから罰が当たるのに、閉じたままの口も、足も縫い付けられたかのように動かない。今はただ、一緒にいられる方法だけを追い求めてしまう。そんな願いが届いたのだろうか。
「俺も帰るから問題ないよ」
上げた顔はすぐに逸らされた。鞄を掴んでいた手も振り払われる。でも、上履きのままぼうっと立っている俺を置いて行こうとはしない。スマホに指を滑らせながら待ってくれている。
「何で……?」
「何、嫌なわけ」
「そうじゃねぇけど……いいの?」
「いいでしょ。どうせ大した授業しないし」
「そうだけど」
だからといって、わざわざサボってまでついてきてくれる理由にはならない。……他の理由を当てはめてしまいそうになる。俺のことが心配だったからじゃないか、なんて。そんなはずがないのに。きっと、授業が面倒だから、とか。家に帰ってゆっくりしたい、だとか。そんなところだろう。それでも、胸の中に暖かな感情が広がってしまう。ゆるりと上がった口角を隠す様に靴箱の扉を開けた。
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