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残響
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髪切りの辻斬り騒動も落ち着き、江戸の町にはまた平穏が訪れていた。
吉原のあたりはいまだ慌ただしく、しばらくのあいだ営業はできないようであった。
与四郎夫妻の亡骸は、俺が手厚く葬った。
妹、お京を殺害したのは与四郎だと確信していたが、実際に与四郎の口から真実を聞くことはできないまま。
最後にあの長屋を訪ねたときに、もうすこし違う言葉をかけてやれば夫妻の命を救えたかもしれないが、いまとなってはもはやなんの意味も成さない。
追悼の意よりも義務的に足が赴き、毎日のようにお京と与四郎夫妻の墓参りをしていた。
彼らの墓前に実際に立たないと、なにか胸騒ぎがして落ち着かない。
辻斬り騒ぎがあったときは髪結い床も閑古鳥が鳴いていたが、最近は馴染みの客も戻ってきている。
お京が居ないという以外は、なんら変化のない平凡な日常だ。
ある日、客の髷を結っていてふいに思うことがあった。
お京の髪でつくられた筆はどこへ行ったのだろう。
あいつが女の髪を集めたいと言っていたときからなにかおかしいと思っていたが、こんな事態にまで発展するとは思っていなかった。
与四郎は数多の女を殺し、その髪で筆をつくっていた。それが評判となって夫妻の悪事が白日のもとに晒されることになったのだが、お京の筆については行方が判っていない。
夫婦の最期、寄り添うように事切れたふたりが握りしめていたのは妻お沙の髪でつくった筆だろう。そのほかの筆らしいものはあの長屋からは見つからなかった。
「筆なあ」
俺の考え事が外に漏れたのかと思ったが、客の初老の男が発した声だった。
「どうしました」
「良吉っつあん、知ってるかい。ちょいとこないだまで髪切りの妖異で騒ぎだったろ?」
「ええ」
「それがようやく落ち着いたかと思ったら、最近またおかしなことが起きてるらしいのさ」
「はあ」
この男は話し出すと長いためあまり会話を続けたくないが、いまはほかに客が居ないため相手をするしかない。
「ちょっと前に綺麗な筆が流行ったろう。黒い穂先の珍しいやつ。あれにまつわる話なのさ」
「――」
黒い筆。
「軸に見事な絵が入っている筆でな、御公家さんとか金持ちが買ってたみたいなんだがね。その筆がどうもおかしいっていうんだよ」
男の話に飛びついて聞きたいが、あえて興味ないふうを装って髷を結ってゆく。
「その筆がね、夜な夜な血が滴ってるっていうんだよ。夜半に目覚めたとある呉服問屋の主人がね、部屋のなかがどうも妙な臭いがするっていうんで、家の者を起こして行灯を持って家中を歩きまわってみたんだと。
そうしたらどうだい、客間からその臭いがする。入ってみると、床の間に飾ってあった見事な筆からなにか水が垂れてるじゃないか。最初は暗闇だったからよく見えなくてね、雨漏りでもしてるかと天井を仰いでみるがなにもない。
じゃあそうだ、家の子どもが悪さをして字でも書いたのかと、墨が垂れてると思ったがどうやらその水たまりは黒くない。明け方になって見に行ってみると、墨汁どころか濡れてたような跡すらないっていうんだよ」
「‥‥変ですね」
早く続きが聞きたい。この男の話はあまりうまいほうではないから普段だったら適当に相槌を打ってやりすごすが、今回ばかりは聞き入ってしまう。
「そんな出来事が幾晩も続くもんだから、呉服問屋の主人は家の者に寝ずの番をさせたのさ。
はじめのうちはがんばって起きてるんだけど、どうにも眠くなって船を漕いじまう。そのうちにあの妙な臭いが漂ってくる。慌てて筆を見ると、ぽたぽたと筆の先から黒い粒が垂れている。
ああなんだ、やはり墨汁じゃないかって指で拭ってみると驚いた。黒くないんだよその粒が。やっぱり違った墨汁じゃない。赤いってんだ。それで臭いがする。血だ。夜な夜な血が滴って血溜まりをつくっていたんだ、って合点がいったというわけさ」
「夜半だけなんですね」
「そうそう。朝になると血溜まりなんて無いし、筆は濡れてもいない。以前のように美しいままだ。ただ、赤い水を拭った指はそのまま赤黒く汚れてたのさ」
‥‥軸に絵が入った見事な筆というのは、おそらく与四郎の筆で間違いない。
「これがね、筆から血が滴ってるってのがひとりやふたりじゃないってんだよ。江戸のあちこちで起きてるってんで、いま新しい怪異が横行してるって騒いでるのさ」
「ちなみに、その血の筆たちはどうなりました」
「うーん。朝や昼間は見事なままだからそのままにしてる奴もいれば、気味悪がって捨てたり、ただ捨てるのも怖いから寺に預けて焼いてもらったりしてるみたいでな。おれだったら何刻になったら滴ってくるのか気になるから家へ置いといて眺めるけどね」
男の髷を結い終え、次に予定があるからと早々に店を閉めた。本当は予定なぞ無いが、その血の筆のことが気になる。
捨てたり寺に預けたり、と言っていたがそうなってしまってはもはや筆を手に取ることはできまい。
その怪異のうちどれかがお京の筆だとしたら、この目で見たい。すでに焼かれてしまっていては、それも叶わないが。
さきほどの男に、どの寺でお焚きあげをしたのかを聞いておいたので、すぐにでも訪ねなければと仕度をした。
吉原のあたりはいまだ慌ただしく、しばらくのあいだ営業はできないようであった。
与四郎夫妻の亡骸は、俺が手厚く葬った。
妹、お京を殺害したのは与四郎だと確信していたが、実際に与四郎の口から真実を聞くことはできないまま。
最後にあの長屋を訪ねたときに、もうすこし違う言葉をかけてやれば夫妻の命を救えたかもしれないが、いまとなってはもはやなんの意味も成さない。
追悼の意よりも義務的に足が赴き、毎日のようにお京と与四郎夫妻の墓参りをしていた。
彼らの墓前に実際に立たないと、なにか胸騒ぎがして落ち着かない。
辻斬り騒ぎがあったときは髪結い床も閑古鳥が鳴いていたが、最近は馴染みの客も戻ってきている。
お京が居ないという以外は、なんら変化のない平凡な日常だ。
ある日、客の髷を結っていてふいに思うことがあった。
お京の髪でつくられた筆はどこへ行ったのだろう。
あいつが女の髪を集めたいと言っていたときからなにかおかしいと思っていたが、こんな事態にまで発展するとは思っていなかった。
与四郎は数多の女を殺し、その髪で筆をつくっていた。それが評判となって夫妻の悪事が白日のもとに晒されることになったのだが、お京の筆については行方が判っていない。
夫婦の最期、寄り添うように事切れたふたりが握りしめていたのは妻お沙の髪でつくった筆だろう。そのほかの筆らしいものはあの長屋からは見つからなかった。
「筆なあ」
俺の考え事が外に漏れたのかと思ったが、客の初老の男が発した声だった。
「どうしました」
「良吉っつあん、知ってるかい。ちょいとこないだまで髪切りの妖異で騒ぎだったろ?」
「ええ」
「それがようやく落ち着いたかと思ったら、最近またおかしなことが起きてるらしいのさ」
「はあ」
この男は話し出すと長いためあまり会話を続けたくないが、いまはほかに客が居ないため相手をするしかない。
「ちょっと前に綺麗な筆が流行ったろう。黒い穂先の珍しいやつ。あれにまつわる話なのさ」
「――」
黒い筆。
「軸に見事な絵が入っている筆でな、御公家さんとか金持ちが買ってたみたいなんだがね。その筆がどうもおかしいっていうんだよ」
男の話に飛びついて聞きたいが、あえて興味ないふうを装って髷を結ってゆく。
「その筆がね、夜な夜な血が滴ってるっていうんだよ。夜半に目覚めたとある呉服問屋の主人がね、部屋のなかがどうも妙な臭いがするっていうんで、家の者を起こして行灯を持って家中を歩きまわってみたんだと。
そうしたらどうだい、客間からその臭いがする。入ってみると、床の間に飾ってあった見事な筆からなにか水が垂れてるじゃないか。最初は暗闇だったからよく見えなくてね、雨漏りでもしてるかと天井を仰いでみるがなにもない。
じゃあそうだ、家の子どもが悪さをして字でも書いたのかと、墨が垂れてると思ったがどうやらその水たまりは黒くない。明け方になって見に行ってみると、墨汁どころか濡れてたような跡すらないっていうんだよ」
「‥‥変ですね」
早く続きが聞きたい。この男の話はあまりうまいほうではないから普段だったら適当に相槌を打ってやりすごすが、今回ばかりは聞き入ってしまう。
「そんな出来事が幾晩も続くもんだから、呉服問屋の主人は家の者に寝ずの番をさせたのさ。
はじめのうちはがんばって起きてるんだけど、どうにも眠くなって船を漕いじまう。そのうちにあの妙な臭いが漂ってくる。慌てて筆を見ると、ぽたぽたと筆の先から黒い粒が垂れている。
ああなんだ、やはり墨汁じゃないかって指で拭ってみると驚いた。黒くないんだよその粒が。やっぱり違った墨汁じゃない。赤いってんだ。それで臭いがする。血だ。夜な夜な血が滴って血溜まりをつくっていたんだ、って合点がいったというわけさ」
「夜半だけなんですね」
「そうそう。朝になると血溜まりなんて無いし、筆は濡れてもいない。以前のように美しいままだ。ただ、赤い水を拭った指はそのまま赤黒く汚れてたのさ」
‥‥軸に絵が入った見事な筆というのは、おそらく与四郎の筆で間違いない。
「これがね、筆から血が滴ってるってのがひとりやふたりじゃないってんだよ。江戸のあちこちで起きてるってんで、いま新しい怪異が横行してるって騒いでるのさ」
「ちなみに、その血の筆たちはどうなりました」
「うーん。朝や昼間は見事なままだからそのままにしてる奴もいれば、気味悪がって捨てたり、ただ捨てるのも怖いから寺に預けて焼いてもらったりしてるみたいでな。おれだったら何刻になったら滴ってくるのか気になるから家へ置いといて眺めるけどね」
男の髷を結い終え、次に予定があるからと早々に店を閉めた。本当は予定なぞ無いが、その血の筆のことが気になる。
捨てたり寺に預けたり、と言っていたがそうなってしまってはもはや筆を手に取ることはできまい。
その怪異のうちどれかがお京の筆だとしたら、この目で見たい。すでに焼かれてしまっていては、それも叶わないが。
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