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第一章
15 焦がれる
しおりを挟む『まぁまぁどうしました?そんなに泣いてはお顔が溶けてしまいますわ。』
そう言って僕の顔を優しく拭いてくれた。綺麗なハンカチが汚れる事も厭わずに。
広い皇宮の庭園で迷子になった僕を見つけてくれた年上のお姉さんは小鳥のように可愛らしい人だった。透き通るつぶらな瞳の中に僕の顔が映っているのを見た瞬間、涙が止まった。
『偉いですね。では一緒に戻りましょう?』
差し出してくれた手は白く滑らかで少し冷たかった。
『ふふ、あったかい…。』
手を繋いだ瞬間、温かい僕の手を握り嬉しそうに微笑んだ彼女に恋をしてしまった。
それからは苦手だった皇宮に何かと理由をつけては顔を出した。彼女にまた会えるかもしれない。ただその一心で。
会うたびに美しくなる彼女。白く美しい胸元の膨らみにどうしようもない劣情を感じる自分を何度嫌悪した事か。この想いは不毛すぎる。だって僕は彼女にとって弟以上の存在にはなれないのだから。
彼女を愛していた。弟でもいい。それでも誰より君の近くにいられるのなら構わなかった。
「僕には一生心に想う人がいる。それでもいいと言うのなら結婚しよう。」
僕の言葉にシャロンは頷いた。顔は悔しさと嫉妬で歪み、ボロボロと涙を溢していた。
別に君じゃなくたって誰でもいいんだ。一生アマリールの可愛い弟のままでいるための隠れ蓑が欲しいだけなんだ。
けれど彼女を選んだのは間違いだった。まさか僕の居ぬ間にアマリールを公爵邸から叩き出すほど僕に惚れていたとは思いもしなかったからだ。
「言ったはずだ!僕と結婚したいのなら余計な干渉をするなと!!」
「でも…でも!!」
「でもじゃない!!どうしてくれるんだ!アマリールがあんな目に遭ったのは君のせいだぞ!!…もういい、君との結婚は白紙にさせて貰う。早く出て行け!」
「そんな!!ハニエル様!!」
邪魔さえしなければ公爵夫人にしてやったというのに。…完璧に見誤った。
『幸せになってハニエル様』
アマリールにあんな言葉を言わせてしまったのは僕の責任だ。きっとシャロンとの事を知って誤解したのだ。
だってアマリールは僕を好きだと言ってくれた。
その女神のような美しい身体に触れる事を許してくれた。そして抱かれる度に甘えて何度も僕の名を呼んで…。
もう僕は弟なんかじゃない。彼女の男だ。
「絶対に君を救い出して見せる…ルーベルなんかに渡すものか!」
そして今度こそ二度と離れない。
二人の命が終わるその時までずっと…。
*****
「何て事をしてくれたんだお前は!!せっかくのアルザス公爵家とのご縁を!!」
マデラン侯爵は大層立腹していた。
アルザス公爵家と娘シャロンの縁談は、財政の逼迫するマデラン領にとって天から降って湧いたような話だった。
「だ、だってお父様!!あの女が私のハニエル様を誑かしたのよ!?」
「この大馬鹿者が!!」
聞いたことのないような父親の大声にシャロンは身を震わせた。
「ハニエル様がお前を気に入ったと本気で思っていたのか!?」
「……え……?」
「ハニエル様のクローネ侯爵令嬢への執心は貴族の間では昔から有名な話だ!お前だって一度は聞いた事があるだろう!?」
確かに聞いた事はある。でもそれは違うのだと教えて貰った。
「お父様それは大嘘よ!だってローザ様が教えてくれたもの!“アマリールという女は人のものが大好きな泥棒猫”だって!!」
そうだ。私はハニエル様の目を醒ましてあげたかっただけなの。私は何も悪くないのよ。
「ローザ様だと?何の力もない名ばかりの皇女の口車なんぞに乗せられおって…!お前はハニエル様に逆らわずただ言う通りにしていれば良かったのだ!!わかったならさっさとハニエル様に土下座でもなんでもして、結婚を白紙に戻すという話を取り下げて貰ってこい!わかったな!!」
「お父様!!」
マデラン侯爵は乱暴に扉を閉めてシャロンの部屋から出て行った。残されたシャロンはあまりの悔しさに唇を噛んで涙した。
なんでこんな惨めな思いをしなきゃならないんだろう。ずっと前から憧れていた。天使のようなふわふわの金の髪。美しい海の色のようなエメラルドグリーンの瞳に初めて自分を映して貰えた時は喜びで胸が震えた。
あの人に抱いて貰える日が待ち遠しくて待ち遠しくて、婚約までの日を何度数えたかわからない。それなのに…それなのにあの人は突然姿を消してしまった。よりにもよって陛下へ婚約内定のご報告をする日に。
息子の不在を謝罪するアルザス公爵閣下の言葉に目の前が真っ暗になった。この日のために新調したエメラルドグリーンのドレスは、彼に見て貰う事のないままクローゼットへ戻った。
彼が姿を消した理由がクローネ侯爵令嬢のせいだったと知った時はあまりの怒りに血が逆流した。
悪いのは私じゃない。あの女だ。
「あの泥棒猫…絶対に許さない…!」
ハニエル様は私のもの。
あんな女、いっそ血の皇太子に殺されてしまえばいいのに。
「それならいい方法を教えてあげてもいいわよ?」
「本当ですかローザ様!?」
ハニエルとアマリールの密会を目撃した数日後、ローザは自室にお茶会と称してシャロンを呼んだ。
「…そんな…まさか婚約式の夜にハニエル様が殿下の宮に忍び込んだなんて…!!」
「まぁ…あなたにはショックな話だろうけどこれを知ればお義兄様もアマリールをただで済ますはずはないと思うわ。」
「でもそれじゃハニエル様も罰を……!!」
「ハニエル様は陛下の実弟ミカエル様の長男よ?さすがにお義兄様だって命を取るような真似はしないわよ。まぁ…少しお灸を据えるくらいの事はするだろうけど。でもかえってその方がハニエル様の目も醒めるってものよ。その時はシャロン、あなたが優しくハニエル様を包んであげるだけ。」
“ね!”とローザはシャロンにウィンクをする。
私がハニエル様を……?ううん。ローザ様の言う通りだわ。私だけがハニエル様を救ってあげられるのよ。
「でもローザ様?具体的にはどうすれば…私が殿下に告げ口をすればいいのですか?」
「実際に現場を見ていないあなたが何か言ったところでお義兄様も信じないわ。逆に深夜の皇太子宮で起こったという話を何故お前が知ってるんだって追及されて投獄されちゃう。」
「それならどうすればいいのですか!?」
「…これを誰にも知られぬようハニエル様に届けてくれるかしら?」
ローザが差し出したのは一通の白い封筒。
「……これは……?」
「差出人はアマリール。そう中に書いてあるわ。それを見れば指定した場所に必ずハニエル様はやって来る。アマリールにはハニエル様の名前で同じものを渡しておくわ。二人の密会をその目で見ればさすがにお義兄様の目も醒める。お互い良いことずくめだわ。そう思わないシャロン?」
そうなればきっとアマリールは皇太子を謀った罪に問われ、よくて婚約破棄の上投獄。悪ければ死罪だろう。
「やります!ローザ様、私絶対にハニエル様をあの泥棒猫から取り戻して見せます…!!」
(…でもハニエル様もそんなところをお義兄様に見られちゃったら殺されてしまうだろうけどね。そんな事もわからないなんて、本当に扱いやすい馬鹿な子……。)
そんな思惑など知りもせず礼を言うシャロンに、ローザはいやらしく嗤う口元を扇で隠しながら言った。
「いいのよシャロン。あなたの役に立てて私も嬉しいわ…うふふ。」
そして翌日、ハニエルの元に一通の手紙が届けられたのだった。
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