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第十九話 戦闘 -2
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「あ……」
人は本当に恐怖したとき、身体が固まって動かなくなるものらしい。
軍属となってから八年。ずっと前線にいながらも、敵兵と対峙したことのなかったルインは、そのことを初めて知った。
呆然と見上げた騎竜は当然のことながら、その背中に騎士を乗せていた。
連邦の飛行服を着て、顔をゴーグルとマスクで覆った竜騎士の年のころは分からない。けれども何となく、自分と同じくらいかそれよりも若いのだろうと思った。
騎士は躊躇うことなく持っていた小銃を構えた。照準はもちろん目の前にいる敵兵――ルインだ。
逃げなければ、と思う。せめて、眉間にぴたりと合わせてあるであろう照準を、少しでもずらさなければ。
そう思うのに、どうしても身体は動かなかった。ただ目を見開いて、ルインはその竜騎士を見つめた。手袋をした騎士の指が、ゆっくりと引き金を引く。
そのまま、ルインは騎士に撃ち殺されるはずだった。小銃から放たれた銃弾が命中して、ただの肉塊になるはずだったのだ。けれども、そうはならなかった。
騎士が引き金を引ききる前に、騎士とその騎竜に襲い掛かったものがいたからだ。
鳴り響く爆音をかき消すように、辺りに響き渡る雄叫び。
己の縄張りを荒らされ、己のお気に入りを傷つけられそうになった空の王者が、怒りに狂ってそこにいた。
ルインを撃ち殺そうとした竜騎士とその騎竜を、自らの逞しい後ろ足で蹴り倒すようにして降りてきたのは、四枚羽根のカタストローフェ種――アーベントだった。
漆黒の身体を持つアーベントは、連邦のフリューゲル種よりも一回りは大きかった。その大きな体躯と鋭い爪で押さえつければ、小柄なフリューゲル種などひとたまりもない。
藻掻くように暴れるフリューゲル種の抵抗などものともせず、アーベントがその首元に噛みついた。竜種にしては細い首が、苦しげに仰け反った。
フリューゲル種はアーベントの太い牙から何とかして逃れようと身体を捩った。しかし、その必死の抵抗を何でもないことのように抑え込んで、アーベントはその顎に力を籠める。
その瞬間、何かを砕くような鈍い音がした。土を舞い上げ、鞭のように振り回されていた長い尾がぱたりと地面に落ちる。
それは間違いなく命を刈り取る残酷な音だった。
同時に、アーベントに乗るシグルドも連邦の騎士に容赦なく小銃を突きつけていた。突然の乱入者に驚いたであろう騎士は、満足な抵抗する暇もなかった。一切の迷いなく引かれた引き金と耳を刺すような銃声。飛び散る血しぶきは赤く、フリューゲル種の深緑の背中を真紅に染め上げた。
ルインはただ目を見開いて、その光景を見ていた。
吐息ひとつ、瞬きひとつしてはいけないと思わせるほどの、恐ろしい沈黙。周囲には爆音や銃声がうるさいほど響いているはずなのに、ルインの耳には何の音も聞こえてこなかった。
先ほどまで動いて、ルイン自身を殺そうとしていた騎士の身体がゆっくりと傾いていく。おそらくあの騎士は先に逝った己の騎竜を気に掛ける余裕もなかっただろう。
動かなくなった竜の上に、音を立てて崩れ落ちた竜騎士の身体は、もう二度と銃を構えることはなかった。
それはルインの目の前で行われた、呆気ないほどの命のやり取りだった。
「シグルド――」
ルインは口の中だけで、その名前を呟いた。
その声はきっとシグルドには届かなかっただろう。けれど、確かにシグルドはルインの方を見た。ゴーグルと深く被った帽子でその表情は分からない。
それなのに、どうしようもない痛みを感じたのはきっと気のせいではない。
「シグルド!」
逃げるように逸らされた視線に、ルインは思わず叫んでいた。
倒れたフリューゲル種を避けるようにして、アーベントが足を振り上げた。転がったフリューゲル種とその下敷きになった先ほどまで騎士だったもの。
それらを気に留めた様子もなく、アーベントは拡げた四枚の羽根を動かして風を掴もうとする。
どれほど大きな声で呼びかけても、シグルドはもうルインの方を振り向かなかった。アーベントの背に跨り、手綱を握る。
あっと言う間に見えなくなった見慣れた背中を、ルインはただ茫然と見送るしかなかった。
人は本当に恐怖したとき、身体が固まって動かなくなるものらしい。
軍属となってから八年。ずっと前線にいながらも、敵兵と対峙したことのなかったルインは、そのことを初めて知った。
呆然と見上げた騎竜は当然のことながら、その背中に騎士を乗せていた。
連邦の飛行服を着て、顔をゴーグルとマスクで覆った竜騎士の年のころは分からない。けれども何となく、自分と同じくらいかそれよりも若いのだろうと思った。
騎士は躊躇うことなく持っていた小銃を構えた。照準はもちろん目の前にいる敵兵――ルインだ。
逃げなければ、と思う。せめて、眉間にぴたりと合わせてあるであろう照準を、少しでもずらさなければ。
そう思うのに、どうしても身体は動かなかった。ただ目を見開いて、ルインはその竜騎士を見つめた。手袋をした騎士の指が、ゆっくりと引き金を引く。
そのまま、ルインは騎士に撃ち殺されるはずだった。小銃から放たれた銃弾が命中して、ただの肉塊になるはずだったのだ。けれども、そうはならなかった。
騎士が引き金を引ききる前に、騎士とその騎竜に襲い掛かったものがいたからだ。
鳴り響く爆音をかき消すように、辺りに響き渡る雄叫び。
己の縄張りを荒らされ、己のお気に入りを傷つけられそうになった空の王者が、怒りに狂ってそこにいた。
ルインを撃ち殺そうとした竜騎士とその騎竜を、自らの逞しい後ろ足で蹴り倒すようにして降りてきたのは、四枚羽根のカタストローフェ種――アーベントだった。
漆黒の身体を持つアーベントは、連邦のフリューゲル種よりも一回りは大きかった。その大きな体躯と鋭い爪で押さえつければ、小柄なフリューゲル種などひとたまりもない。
藻掻くように暴れるフリューゲル種の抵抗などものともせず、アーベントがその首元に噛みついた。竜種にしては細い首が、苦しげに仰け反った。
フリューゲル種はアーベントの太い牙から何とかして逃れようと身体を捩った。しかし、その必死の抵抗を何でもないことのように抑え込んで、アーベントはその顎に力を籠める。
その瞬間、何かを砕くような鈍い音がした。土を舞い上げ、鞭のように振り回されていた長い尾がぱたりと地面に落ちる。
それは間違いなく命を刈り取る残酷な音だった。
同時に、アーベントに乗るシグルドも連邦の騎士に容赦なく小銃を突きつけていた。突然の乱入者に驚いたであろう騎士は、満足な抵抗する暇もなかった。一切の迷いなく引かれた引き金と耳を刺すような銃声。飛び散る血しぶきは赤く、フリューゲル種の深緑の背中を真紅に染め上げた。
ルインはただ目を見開いて、その光景を見ていた。
吐息ひとつ、瞬きひとつしてはいけないと思わせるほどの、恐ろしい沈黙。周囲には爆音や銃声がうるさいほど響いているはずなのに、ルインの耳には何の音も聞こえてこなかった。
先ほどまで動いて、ルイン自身を殺そうとしていた騎士の身体がゆっくりと傾いていく。おそらくあの騎士は先に逝った己の騎竜を気に掛ける余裕もなかっただろう。
動かなくなった竜の上に、音を立てて崩れ落ちた竜騎士の身体は、もう二度と銃を構えることはなかった。
それはルインの目の前で行われた、呆気ないほどの命のやり取りだった。
「シグルド――」
ルインは口の中だけで、その名前を呟いた。
その声はきっとシグルドには届かなかっただろう。けれど、確かにシグルドはルインの方を見た。ゴーグルと深く被った帽子でその表情は分からない。
それなのに、どうしようもない痛みを感じたのはきっと気のせいではない。
「シグルド!」
逃げるように逸らされた視線に、ルインは思わず叫んでいた。
倒れたフリューゲル種を避けるようにして、アーベントが足を振り上げた。転がったフリューゲル種とその下敷きになった先ほどまで騎士だったもの。
それらを気に留めた様子もなく、アーベントは拡げた四枚の羽根を動かして風を掴もうとする。
どれほど大きな声で呼びかけても、シグルドはもうルインの方を振り向かなかった。アーベントの背に跨り、手綱を握る。
あっと言う間に見えなくなった見慣れた背中を、ルインはただ茫然と見送るしかなかった。
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