あなたの糧になりたい

仁茂田もに

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 暁斗に激しく抱かれた日から、暁斗は少しだけ変わったように思う。

 それまでの彼は律になど微塵も興味がなく、律がどこで何をしていようと気にするそぶりは見せなかった。しかし、ここ最近の暁斗は様子がおかしい。

 律が出勤するときは絶対に見送りに来る上に、出際に抱き着いてくるのだ。それもしっかり一分以上。

 理由はよく分からない。聞いてもはっきりと答えてくれないから、もしかしたらあの抱擁に意味なんてないのかもしれない。

 とはいえ、暁斗に抱きしめられると単純に嬉しい。帰宅の際も玄関まで出迎えてくれて、そのまま抱きしめられるので一日の労働の疲れがずいぶんと癒されるのだ。

「りっちゃん、見て見て」

 最近の暁斗の奇行について、あれこれと考えながらグラスを拭いていると声をかけられた。

 顔を上げるといつの間にかカウンターの正面に「奥さん」が立っていて、彼女はそのふくよかな両腕に一枚の絵を抱えている。

 さっきまで買い出しに行っていたはずなのに、と店長をちらりと見るとマスターは無言で頷いた。話を聞いてやれ、ということらしい。

 五十をいくつかすぎた頃の奥さんは、その呼び名のとおり律がアルバイトをしている喫茶店の店長の奥さんだ。路地裏にひっそりと佇む喫茶ハイドランジアは、店長と奥さんがふたりで切り盛りしている。

 オメガの律を雇ってくれる奇特で優しい奥さんは、にこにこと笑いながら抱えた絵を律に向けた。

「あ」
「気づいた? これ、素敵な紫陽花でしょう?」

 それは暁斗の絵だった。奥さんと店長は、律が「売れない画家鴻上暁斗」と一緒に暮らしていることを知っているのだ。そして、たまに暁斗の絵が置いてある画廊へ行って、暁斗の絵を買ってくれる。

「店に飾るのにぴったりだと思って買っちゃった」
「わぁ、お買い上げありがとうございます」
「やだ~、りっちゃんのためじゃなくて気に入ったから買ったのよ」

 うふふ、と笑う奥さんにお礼を言えば、やだやだと手を振られた。

 喫茶ハイドランジアの店内にはその名前の通り、紫陽花をモチーフにした洋燈ランプや絵が飾ってあった。明るすぎない落ち着きのある店内にいくつも咲く、控えめではあるが美しい紫陽花たち。その絵の中には数枚の暁斗の絵があった。

 まだまだ駆け出しの画家である暁斗の絵は、画廊に並ぶ絵の中では安価な方で、こうやって店に飾るのにちょうどいい。その上、紫陽花は夏になると暁斗が好んで描くモチーフだから、奥さんやマスターもうちの店にぴったりだと喜んでくれるのだ。

「相変わらず綺麗な色よね」

 うっとりしながら、奥さんは踵を返して店の奥の壁に向き直る。そこにあった紫陽花の写真を外して暁斗の絵をかけた。それだけで店の中が一気に華やかになる。

「いつか有名になったら、庶民の私たちじゃ買えなくなっちゃうから、今のうちにたくさん買っておかないと」
「うちの店は『鴻上暁斗』の絵だらけだから、そうなったら防犯対策をしないとな」

 店長夫婦はよくそう言っては笑ってくれる。お金のためにハイドランジアで働き始めた律だったけれど、本当にいい人たちに雇ってもらえたと思っていた。

 喫茶店での律の仕事はお客の注文を取って、配膳することだ。コーヒーは店長が入れるし、軽食は奥さんが用意する。小さな喫茶店は店長こだわりのコーヒーがうけて、毎日それなりの客入りがあった。

 閉店の夜十時まで、忙しく立ち回るときだってよくある。今日は平日で客足はまばらだけれど、それでも店内には疲れた様子のサラリーマンや友人同士でやってきたOLが座っていた。

 カラン、と軽い音をたててドアベルが鳴る。
 飴色に磨かれた入り口扉には、紫陽花のステンドグラスがはめ込まれている。そのステンドグラスが外の街灯の灯りを反射してきらりと光った。

「いらっしゃいませ……」

 客の来店だと思った律が、拭いていたグラスを置いた。そしていつものように声をかけながらカウンターから出ようとして、足を止める。

 入り口のところに立っている相手を見て、足が床に縫い付けられたかのように動かなくなってしまったからだ。

「篠田さん」
「く、りはらさん……」

 橙色の照明が色素の薄い髪を照らす。上品なスーツを着こなしたその男は、誰が見ても上等なアルファだった。甘いフェロモンの匂いが漂って、律はさらに身体を固くした。

 ハイドランジアに来店したのは栗原だった。

 律の会社は副業を禁止している。それはいくらオメガ枠という特別待遇の律でも例外ではなくて、会社に副業がばれれば律は問答無用で解雇されるだろう。

 栗原は会社の同僚で、当然そのことを知っているはずだ。最悪の可能性に思い至って、律はただ栗原を見つめることしか出来なかった。

「りっちゃん?」
「あ、はい」

 いつもとは違う様子の律を見て、奥さんが訝しげに律の名を呼ぶ。その声に律は我に返った。

「いらっしゃいませ。こちらのお席にどうぞ」

 栗原を店の一番奥、カウンターや入り口から死角になる席に案内する。大人しくついてくる栗原は何も言わない。その沈黙が怖くて後ろを振り返ることは出来なかった。

 結局、栗原は店内では無言でコーヒーを飲んだだけだった。律の方も何も言わず、栗原の様子を見ていた。注文を取る際に、おすすめはと訊ねられたから、店長こだわりのブレンドコーヒーを勧めた。

 けれども、栗原がただ喫茶店にコーヒーを飲みに来ただけではないことは分かっていた。だって彼は、店員として出迎えた律を見て一切驚かなかった。それはつまり、彼は律がここで働いていることを知っていたということだ。

 律は、以前栗原の好意をはっきりと断ってから、意識して栗原を避けていた。
 昼休憩時には彼から逃げ回るように移動して、居場所を特定できないようにしていたし、営業部には別の社員に配達に行ってもらっていた。だからこそ、栗原はこんな強硬手段に出たのだろう。

 その日のアルバイトが終わって、律はハイドランジアを出た。レジ締めと最後の戸締りは店長と奥さんがやるから、店内の清掃が終わるまでが律の仕事だ。

 ハイドランジアの従業員出入口は、店の裏手にあった。路地裏のさらに裏側にある従業員出入口は、昼間だってひと気がなく静まり返っている。平日の夜であれば、なおさらだ。

「篠田さん」

 店を出たところで声をかけられた。案の定、そこには閉店の少し前に店を出た栗原がいて、律のアルバイトが終わるのを待っていたようだった。

「……栗原さん」

 路地裏から出て駅に向かう。そのままここで話し込んでいたら店長たちが出てきてしまう。駅まで一緒に歩こうと申し出たのは律の方からだった。

 喫茶ハイドランジアは駅から徒歩十五分ほどの位置にある。そこから律と暁斗が暮らすアパートまでは三駅分ほどで、歩くと三十分程度だ。会社まではさらに電車で二十分はかかる。本当だったら、こんな時間に会社の同僚が訪れるような場所ではない。

 何か言いたいことがあるだろうに、栗原は一向に口を開かなかった。この期に及んで迷うような素振りを見せて、律の顔色を窺っている。

 そのアルファらしくない態度に、律は小さく息を吐いた。そんな顔をするくらいなら、こんなことをしなければいいのに、と思う。

「俺のこと、調べたんですか」

 すぐ先の角を曲がればすぐに駅、という場所まで来て、とうとう律は口を開いた。自分からは何も言い出さない栗原に焦れたのだ。

 耳に届いた声は我ながら硬く、その問いただすような口調に思わず苦笑する。立場が弱いのは副業がばれた律の方ではあるが、ばれてしまったものは仕方がない。

 淡々と話す律に栗原はひどく複雑そうな顔をしていた。そしてゆっくりと頷く。

「はい」
「何故?」
「あなたのことが、知りたくて」

 栗原の答えは、実にアルファらしいものだった。

 律のことが知りたかった。だから、調べた。

 優秀なアルファである栗原にはそれを実行する金も伝手もある。それをされて律自身がどう思うかは、たぶんあまり問題ではないのだ。だって栗原はアルファで、律はオメガだから。

 多くのアルファは、気に入ったオメガは無条件で自分のものに出来ると思っている。
 それが当たり前だから、自分たちの独善的で傲慢なところに気づきもしない。その上、独占欲が強くて嫉妬深い。

 かつて、アルファ向けのオメガヘルスのボーイをしていた律は、そのことをよく知っていた。そういうアルファの客の執着が嫌で、まっとうに生きたくて精神を削りながら就職活動をしたというのに、就職した先の会社で最も面倒くさいアルファと出会ってしまった。

 会社で律に話しかけてくる朗らかな栗原の様子から、エリートのアルファにしては物腰が柔らかいと思ってはいたが、それでも「運命の番」への執着は凄まじいらしい。

 ――運命の番。

 そう運命の番だ。

 現実主義のオメガたちは、まるっきり信じていないその存在をもちろん律は信じていなかった。運命に決められた番。出会ってすぐ恋に落ちるだなんて、なんて馬鹿げた妄想だろうかと思っていた。

 けれど、実際に出会ってしまえば、そういう存在が確かにこの世にいることを理解してしまった。初めて会ったときの予感にも似た恐怖。顔をあわせるたびに感じる多幸感。――それから、素直に栗原のフェロモンに反応する身体。

 それらが意味しているのは、おそらく自分と栗原が正真正銘の「運命の番」であるということだろう。しかし、律はそんな運命なんて求めていない。

「会社ではっきり言いましたよね。迷惑なので止めてくださいって。それはあなたが俺に対して行う、全てのことを指していたんですが理解してもらえませんでしたか」
「それは。……でも、君だって分かっているでしょう。俺たちが――」
「運命の番ってやつですか? 栗原さん、アルファなのに案外ロマンチストなんですね」

 鼻で笑うように言えば、栗原がひどく悲しそうに顔を歪めた。その表情を見て、律の中のオメガ性が律を責めるように大騒ぎする。

 ――どうしてようやく会えた番に向かって、そんなひどいことを言うのか。酷い。悲しい。

 胸が痛い。番が悲しんでいると、律も悲しい。

 そんな本能だけに引きずられた感情がひどく煩わしかった。それなのに気を抜くと律自身の意思を無視して、その長い腕に縋ってしまいそうで、それが何よりも腹立たしい。

「……もし、仮にあなたが俺の運命の番だったとして、俺はそんなものはいらない。本能だけじゃなくて、ちゃんと理性で恋をしている。好きな人がいるんです。もう、俺のことは放っておいてください。アルバイトのこと、ばらしたいならばらしてもいいですよ」

 副業のことを会社に報告するのであれば、すればいいと思う。

 律にとってはようやく見つけた職ではあるが、それは「真っ当な」という意味だ。

 内容を選ばなければオメガの需要は高い。特にセックスワーカーとしてはひどく優秀で、それこそ高校を卒業したばかりの田舎者のオメガが、上京してすぐにひとりで暮らしていけるくらいには稼げるのだ。

 そうはっきりと言えば、栗原は面白いくらい真っ青になった。

 彼のその絶望的な表情は、自分が「運命の番」にはっきりと拒絶されたからだろうか。それとも、その番が不特定多数に抱かれるような職を選択する話を聞かされたからだろうか。

 どちらにしろ、律にはあまり興味のないことだった。

「お話がそれだけなら、もう失礼します。時間も遅いですし」
「待ってください」

 栗原も律も明日は普通に仕事だ。ふたつの労働をこなした後の律は当然疲れている。

 一刻も早く帰りたくて踵を返そうとすると、焦った栗原に腕を掴まれた。大きな手が枯れ枝のような律の腕に触れて、力強く握りしめる。

 その瞬間、一気に律の体温が上がる。全身の血液が沸騰したかと思うほどに、身体の芯が熱くなった。


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