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喫茶ハイドランジアは水曜日が定休日だ。平日の営業時間は朝九時から夜の十時までだが、休日は八時から開店する。休日だけ朝食のメニューを扱っているからだ。
休日の律のシフトはいつも朝の開店準備から入って、夕方の五時に上がるというもので、だから平日よりもずっと帰宅時間が早い。
その日も夕方のまだ日が高い時間に帰ることが出来た。
「ただいま」
「律、おかえり」
玄関を開けるとすぐに暁斗がやって来て律を抱きしめた。
暁斗の好きにさせつつも、律はその腕の中で困ったように身を捩った。
広い胸に抱かれるのは好きだけれど、髪に鼻を埋めるようにして匂いを嗅がれるのはあまり好きではない。抱きしめられるのはいつも労働の後で、たぶん汗臭い。
しかし、暁斗はそんな律をいつもいい匂いだと言う。
「汗臭くない?」
「臭くない。律の匂いとコーヒーの匂いがする」
「まあ、職場が喫茶店だからね」
律が笑ってそう言えば、暁斗は微かに眦を緩めた。
これは最近、暁斗がよくする表情で、その意味を律は測りかねていた。一見、安堵するような表情に見えるけれど、暁斗が何を考えているのはよく分からない。
抱きしめられたまま、律はじっと暁斗を見上げた。彼のすっきりとした美貌は下から見ても完璧と言っていいほど整っている。そして、今日は暁斗がいつもの部屋着ではないことに気づいた。
以前、律が買ってあげた白いシャツに黒いスキニージーンズを着ている。数少ない余所行きであるそれを暁斗は気に入って、よく出かけるときに着ているのだ。
「あれ、暁斗。どこか出かけるの?」
「うん。この前描いた絵を何枚か、マレに持っていこうと思って」
マレというのは、暁斗が絵を置いてもらっている画廊のことだ。
正式名称をギャラリー・マレといって、規模は小さいがこの近辺では一番有名な画廊で、オーナーのお眼鏡にかなえば無名の若手でも取り扱ってもらえる。
暁斗が絵を置き始めたのは、一年ほど前に取った小さな賞の展示会の際に声をかけてもらえたのがきっかけだった。絵の営業なんて暁斗も律も分からないから、あのとき暁斗の絵がオーナーの目に留まったのは僥倖だったといえる。暁斗はそれ以来、完成した絵を定期的に持ち込んでいた。
絵はごくたまに売れて、それが暁斗の少ない収入になる。
絵をギャラリー・マレに持っていくのは、大切な暁斗の仕事だ。
けれども、せっかく早く帰って来られたのに、暁斗が出かけてしまうのは寂しかった。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか。律を見つめたまま数度瞬きをした暁斗は、少しだけ首を傾げた。そして薄くて形のいい唇を微かに笑みの形にする。
「律も一緒に行く?」
「えっ」
思わぬ誘いを受けて、律は驚いた。
暁斗は基本的にあまり家から出ないし、出たとしてもそのほとんどが単独行動だ。自由な気質のある暁斗は、集団行動が苦手の様だった。だから、あまり二人そろって出かけたことはない。
あまり、どころかほとんどないかもしれない。直近でふたりで並んで歩いたのは、帰宅途中の律が近所のコンビニ帰りの暁斗と外で鉢合わせたときだった。
「行ってもいいの?」
「いいよ。帰りに飯でも食べて帰ろう」
「うん! 行く!」
勢いよく頷くと、暁斗の腕の力がさらに強まった。ちょっと苦しいくらい抱きしめられたまま、律はさらに衝撃的な言葉を聞く。
「この前のバイト代あるから、今日は俺が奢るよ」
「えっ!?」
「なんで? ダメだった?」
「だ、だ、だめじゃないよ! 嬉しい、ありがとう」
珍しいどころではない。と律は大きな目をさらにまん丸に見開いて暁斗を凝視する。暁斗のあまり表情の変わらない顔が、不思議そうに律を見返してきた。
暁斗と一緒に出かけたことがないということは、外で食事をしたこともないし、当然おごってもらったこともないということだ。初めてのことがあまりにも多すぎて、混乱してしまったのは仕方のないことだと思う。
何故かいやに優しい暁斗の態度がくすぐったくて、律は暁斗の胸に額を擦りつけた。すると今度は暁斗が俯いた律の後頭部に頬ずりをする。猫が飼い主に甘えるような仕草に思わず笑いが零れた。
外出の準備を済ませていた暁斗と帰ったばかりだった律はそのまま家を出た。
ギャラリー・マレまでは電車を乗り継いで二十分ほど。
小さなその画廊は大きな駅から少し離れた雑居ビルの一階に店を構えている。一見、お洒落なカフェのような硝子の入り口は間口が狭く、中を覗き見ることは出来ない。知らなければ、ここが画廊だとは思わないだろうと思わせるモダンな外観だった。
店内は所狭しと絵が並んでいて、当然その中には暁斗のものもあった。綺麗な画廊の壁にお行儀よく飾られていると、狭くて古い六畳一間で見ていたものとは違う絵の様だった。
「これ、前描いていたやつだ」
白い花の絵を指して言うと、暁斗が頷いた。
「うん。その辺が俺の絵。律、俺ちょっとオーナーにあいさつしてくる」
「いってらっしゃい」
律にそう断ってから、暁斗は店の奥へ向かった。
その背中を見送って、律はのんびりと絵を見て回った。忙しくて最近は行けていないが、元々律は絵を見るのが好きなのだ。
画廊は絵を売る場所だから、飾ってある絵にはそれぞれ値札が付いている。
入り口に近い場所から、奥に進むにつれて絵の値段は上がっていくようだった。奥にある絵の方が高価で、有名な画家の作品なのだろう。暁斗の絵は入ってすぐの右手の壁に掛けられている。
当たり前であるが、画廊にはたくさんの絵がある。
多いのは風景や植物、動物を描いたものだが、中には人を描いたものや大きくデフォルメされた「何か」を描いた絵もあった。油絵、日本画、それから暁斗の絵の隣にかけられていた絵は、たぶんパステル絵の具を使ったものだ。
「色んな絵があるんだなぁ」
もちろん一番律の目を惹くのは暁斗の絵だ。
けれども、隣のパステル画も小さくて淡い色使いが可愛らしい。
「そうでしょう。ここはオーナーが気に入れば、どんな作家のどんな種類の絵でも置きますからね」
律が絵に見入っていると突然声をかけられた。
「絵がお好きですか?」
驚いて振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。ジャケットを着た背の高い男だ。
きっちりと上げられた前髪と黒縁メガネのせいでずいぶんと堅い印象を受けたが、向けられる声は柔らかい。
どうしていいか分からずに、律が無言のまま会釈すると彼は笑みを返してくれた。
「ずいぶん熱心に見ていらしたので。購入希望の方ですか?」
「ええと、そういうわけじゃないんですけど。絵を見るのは好きですね」
ちらりと見た男の首にはネームプレートがかけられていた。どうやら、この画廊のスタッフらしい。そのことに気づいて、律は焦る。律には絵を買う予定も金もないからだ。
何も考えず暁斗についてきてしまったけれど、店内で絵を見ていれば買うつもりなのかと聞かれても仕方がない。
「おすすめはこのあたりですかね。あまり有名ではない作家の作品なので、値段も手頃ですよ。でも、きっとこれから評価されていく素晴らしい絵です」
そう言って、男が指したのは暁斗の絵だ。隣のパステル画も男のおすすめのようで、小さいサイズがご希望でしたらこちらも、と律に笑いかけてくる。
その笑顔は純粋に暁斗の絵を評価してくれているようで、お客向けのセールストークとは少し違うような気がした。
――この人は、暁斗の絵を評価してくれているんだ。
そう思うと胸の中から喜びが沸き上がってくる。
大学を卒業してからも、暁斗はずっと絵を描いている。あまり他人からの評価を気にしない暁斗であったが、それでも絵を描いて生活をしたいとは思っているようで、いくつか賞に応募していたことを律は知っている。そして、そこであまりいい結果を残せていないことも。
休日の律のシフトはいつも朝の開店準備から入って、夕方の五時に上がるというもので、だから平日よりもずっと帰宅時間が早い。
その日も夕方のまだ日が高い時間に帰ることが出来た。
「ただいま」
「律、おかえり」
玄関を開けるとすぐに暁斗がやって来て律を抱きしめた。
暁斗の好きにさせつつも、律はその腕の中で困ったように身を捩った。
広い胸に抱かれるのは好きだけれど、髪に鼻を埋めるようにして匂いを嗅がれるのはあまり好きではない。抱きしめられるのはいつも労働の後で、たぶん汗臭い。
しかし、暁斗はそんな律をいつもいい匂いだと言う。
「汗臭くない?」
「臭くない。律の匂いとコーヒーの匂いがする」
「まあ、職場が喫茶店だからね」
律が笑ってそう言えば、暁斗は微かに眦を緩めた。
これは最近、暁斗がよくする表情で、その意味を律は測りかねていた。一見、安堵するような表情に見えるけれど、暁斗が何を考えているのはよく分からない。
抱きしめられたまま、律はじっと暁斗を見上げた。彼のすっきりとした美貌は下から見ても完璧と言っていいほど整っている。そして、今日は暁斗がいつもの部屋着ではないことに気づいた。
以前、律が買ってあげた白いシャツに黒いスキニージーンズを着ている。数少ない余所行きであるそれを暁斗は気に入って、よく出かけるときに着ているのだ。
「あれ、暁斗。どこか出かけるの?」
「うん。この前描いた絵を何枚か、マレに持っていこうと思って」
マレというのは、暁斗が絵を置いてもらっている画廊のことだ。
正式名称をギャラリー・マレといって、規模は小さいがこの近辺では一番有名な画廊で、オーナーのお眼鏡にかなえば無名の若手でも取り扱ってもらえる。
暁斗が絵を置き始めたのは、一年ほど前に取った小さな賞の展示会の際に声をかけてもらえたのがきっかけだった。絵の営業なんて暁斗も律も分からないから、あのとき暁斗の絵がオーナーの目に留まったのは僥倖だったといえる。暁斗はそれ以来、完成した絵を定期的に持ち込んでいた。
絵はごくたまに売れて、それが暁斗の少ない収入になる。
絵をギャラリー・マレに持っていくのは、大切な暁斗の仕事だ。
けれども、せっかく早く帰って来られたのに、暁斗が出かけてしまうのは寂しかった。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか。律を見つめたまま数度瞬きをした暁斗は、少しだけ首を傾げた。そして薄くて形のいい唇を微かに笑みの形にする。
「律も一緒に行く?」
「えっ」
思わぬ誘いを受けて、律は驚いた。
暁斗は基本的にあまり家から出ないし、出たとしてもそのほとんどが単独行動だ。自由な気質のある暁斗は、集団行動が苦手の様だった。だから、あまり二人そろって出かけたことはない。
あまり、どころかほとんどないかもしれない。直近でふたりで並んで歩いたのは、帰宅途中の律が近所のコンビニ帰りの暁斗と外で鉢合わせたときだった。
「行ってもいいの?」
「いいよ。帰りに飯でも食べて帰ろう」
「うん! 行く!」
勢いよく頷くと、暁斗の腕の力がさらに強まった。ちょっと苦しいくらい抱きしめられたまま、律はさらに衝撃的な言葉を聞く。
「この前のバイト代あるから、今日は俺が奢るよ」
「えっ!?」
「なんで? ダメだった?」
「だ、だ、だめじゃないよ! 嬉しい、ありがとう」
珍しいどころではない。と律は大きな目をさらにまん丸に見開いて暁斗を凝視する。暁斗のあまり表情の変わらない顔が、不思議そうに律を見返してきた。
暁斗と一緒に出かけたことがないということは、外で食事をしたこともないし、当然おごってもらったこともないということだ。初めてのことがあまりにも多すぎて、混乱してしまったのは仕方のないことだと思う。
何故かいやに優しい暁斗の態度がくすぐったくて、律は暁斗の胸に額を擦りつけた。すると今度は暁斗が俯いた律の後頭部に頬ずりをする。猫が飼い主に甘えるような仕草に思わず笑いが零れた。
外出の準備を済ませていた暁斗と帰ったばかりだった律はそのまま家を出た。
ギャラリー・マレまでは電車を乗り継いで二十分ほど。
小さなその画廊は大きな駅から少し離れた雑居ビルの一階に店を構えている。一見、お洒落なカフェのような硝子の入り口は間口が狭く、中を覗き見ることは出来ない。知らなければ、ここが画廊だとは思わないだろうと思わせるモダンな外観だった。
店内は所狭しと絵が並んでいて、当然その中には暁斗のものもあった。綺麗な画廊の壁にお行儀よく飾られていると、狭くて古い六畳一間で見ていたものとは違う絵の様だった。
「これ、前描いていたやつだ」
白い花の絵を指して言うと、暁斗が頷いた。
「うん。その辺が俺の絵。律、俺ちょっとオーナーにあいさつしてくる」
「いってらっしゃい」
律にそう断ってから、暁斗は店の奥へ向かった。
その背中を見送って、律はのんびりと絵を見て回った。忙しくて最近は行けていないが、元々律は絵を見るのが好きなのだ。
画廊は絵を売る場所だから、飾ってある絵にはそれぞれ値札が付いている。
入り口に近い場所から、奥に進むにつれて絵の値段は上がっていくようだった。奥にある絵の方が高価で、有名な画家の作品なのだろう。暁斗の絵は入ってすぐの右手の壁に掛けられている。
当たり前であるが、画廊にはたくさんの絵がある。
多いのは風景や植物、動物を描いたものだが、中には人を描いたものや大きくデフォルメされた「何か」を描いた絵もあった。油絵、日本画、それから暁斗の絵の隣にかけられていた絵は、たぶんパステル絵の具を使ったものだ。
「色んな絵があるんだなぁ」
もちろん一番律の目を惹くのは暁斗の絵だ。
けれども、隣のパステル画も小さくて淡い色使いが可愛らしい。
「そうでしょう。ここはオーナーが気に入れば、どんな作家のどんな種類の絵でも置きますからね」
律が絵に見入っていると突然声をかけられた。
「絵がお好きですか?」
驚いて振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。ジャケットを着た背の高い男だ。
きっちりと上げられた前髪と黒縁メガネのせいでずいぶんと堅い印象を受けたが、向けられる声は柔らかい。
どうしていいか分からずに、律が無言のまま会釈すると彼は笑みを返してくれた。
「ずいぶん熱心に見ていらしたので。購入希望の方ですか?」
「ええと、そういうわけじゃないんですけど。絵を見るのは好きですね」
ちらりと見た男の首にはネームプレートがかけられていた。どうやら、この画廊のスタッフらしい。そのことに気づいて、律は焦る。律には絵を買う予定も金もないからだ。
何も考えず暁斗についてきてしまったけれど、店内で絵を見ていれば買うつもりなのかと聞かれても仕方がない。
「おすすめはこのあたりですかね。あまり有名ではない作家の作品なので、値段も手頃ですよ。でも、きっとこれから評価されていく素晴らしい絵です」
そう言って、男が指したのは暁斗の絵だ。隣のパステル画も男のおすすめのようで、小さいサイズがご希望でしたらこちらも、と律に笑いかけてくる。
その笑顔は純粋に暁斗の絵を評価してくれているようで、お客向けのセールストークとは少し違うような気がした。
――この人は、暁斗の絵を評価してくれているんだ。
そう思うと胸の中から喜びが沸き上がってくる。
大学を卒業してからも、暁斗はずっと絵を描いている。あまり他人からの評価を気にしない暁斗であったが、それでも絵を描いて生活をしたいとは思っているようで、いくつか賞に応募していたことを律は知っている。そして、そこであまりいい結果を残せていないことも。
応援ありがとうございます!
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