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水曜日は喫茶ハイドランジアの定休日だ。律の会社の業務は基本的に定時に上がれるから、ハイドランジアでのアルバイトがなければ六時前には帰宅することが出来る。
律がたまに早く帰ってくる曜日を、暁斗が覚えているかどうかは分からない。出来れば、気づかないで欲しいと思う。
「篠田さん。行きましょうか」
「はい」
水曜日の仕事終わり。律は栗原と待ち合わせていた。
もちろん、会社から一緒に目的地に向かう、なんて危険なことはしない。
ただでさえ、栗原が総務部に顔を出すようになってから、周囲のあたりが強くて肩身が狭いのだ。地味で冴えない律が栗原と一緒に歩いているところを会社の人にでも見られたら、とんでもないことになってしまうだろう。だから、目的地の最寄り駅で待ち合わせた。
初夏の夕方はまだ明るく、西のビルの影には茜色の空が広がっている。東の空には薄紫の雲がたなびいていて、微かに一番星が輝いていた。
お互いにいつものスーツのまま、律は栗原と並んで歩く。アルファの栗原も暁斗と同じくらいの身長で、つまり律よりもずっと背が高くて足が長い。それでも律がのんびりと歩けるのは、彼もまた律に歩調を合わせてくれているからだ。こちらのアルファもなかなか気遣いが上手かった。
「篠田さんは絵がお好きだと伺ったので、美術館に行こうと思うんですが」
「あ、これ」
見たかったやつです、と律は栗原が差し出したチケットを見て言った。
栗原が用意してくれたのは、今開催されている近代美術の展示だった。
展示テーマは近代美術ということで、展示されている画家はひとりではない。けれどメインを飾っているのが律の好きな画家で、海外から運ばれて来たその画家の代表作を律は一度生で見たいと思っていたのだ。
「もう行きましたか?」
「いえ、まだです」
不安そうにこちらを見た栗原に、律は答えた。
見たかった、けれども見る予定はなかった、とはさすがに言えなかった。美術館の入場料はだいたい二千円程度だが、その二千円が律にはひどく高額なのだ。
「行きたかったから、嬉しいです」
「それはよかったです」
律の言葉に、栗原がふわりと微笑んだ。その破壊力たるや絶大で、すれ違った女の子が小さな悲鳴を上げていた。
美形は笑うと素晴らしいほどに美しい。美麗な栗原の笑顔を見て、律は相変わらず花が咲いたみたいな笑顔だな、と他人ごとのように思った。
「栗原さんは、絵はお詳しいんですか?」
「俺ですか? 絵はあんまり。というか、素人ですね。今日、よければ詳しく教えていただけると助かります」
「ええ、そうなんですか。なんか意外」
「意外ですか?」
「はい。栗原さん、そういう教養全般はまかせろ、みたいな感じかと」
「なんですか、それ」
律の言葉を受けて、栗原はあはは、と声を上げて笑った。
美術館までの道すがら、ふたりで当たり障りのない言葉を交わす。
律が話しかけると栗原は分かりやすいくらい嬉しそうな顔をするので、何やらむず痒くなってしまう。
「教えるって言っても、俺も見るのが好きなだけの素人ですから」
「篠田さんは、どんな絵がお好きですか? 好きな画家とか」
「この画家は好きです」
改めてしっかりと会話してみれば、栗原は実に話しやすい人物だった。
律への好意を隠しもしないところはいただけないが、話す内容は多種多様で話題に尽きないし、相手への気遣いも上手い。律が困らないように適度に質問を交えて話してくれるため、会話に詰まることもなかった。これはモテるはずである。
話しながら歩けば、目的地にはすぐに到着した。
美術館といっても、パリのルーブル美術館や大英博物館のような古めかしい建物ではない。近代を代表する建築家による実にモダンな建物で、硝子張りのエントランスは眩しいほどの照明で煌めていた。
硝子に張り付くように飾ってあるのは、律たちが行く特別展示の宣伝の垂れ幕だった。そこに描かれた絵画や画家の名前に、律は思わず感嘆の息を漏らす。ずっと見たかった絵がすぐそこにあるのだ。多少、気分が高揚するのは仕方がないことだった。
垂れ幕に気を取られて、上ばかりを見ていたからだろう。入り口の前にある小さな段差に律は気が付かなかった。
タイル張りのアプローチから入口へと続く、たった二段の低い階段。軽く足を上げれば難なく上がれるそれに、律は見事に躓いた。
「わっ!?」
「篠田さん!?」
驚いたのは、たぶん栗原も同じだった。転ぶ瞬間、咄嗟に伸ばした手を力強く引き上げられる。栗原が寸でのところで律を支えてくれたのだ。おかげで転倒せずに済んだけれども。
抱き留められたわけではない。二人の距離はそのままに、腕を強く掴まれている。
驚いた顔で栗原を見ると、栗原も目を丸くして律を見ていた。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です」
「よかった」
隣で安堵するように言われて、顔が熱くなる。はしゃぎすぎて足元が疎かになるなんて、まるで子どものようでひどく恥ずかしかった。
「すみません。……ありがとうございます」
「いえ、あの」
「はい?」
律はお礼を言って当たり前のように手を引こうとした。しかし、離してはもらえず逆に握り込まれてしまう。握りしめられた手のひらは熱く、栗原の大きな手はじんわりと汗をかいているような気がした。
「あの栗原さん……?」
「抑制剤を飲んできました」
手を離してください、と言おうとした言葉は栗原に遮られた。そして、その内容にああ、なるほどと冷静に納得する。
――だから、素肌で接触しても何も感じないのか。
律自身、常用の抑制剤に加えて、予防的に発情期用のものも飲んで来た。相手が栗原であれば、律は容易く発情してしまうのだ。用心はするに越したことはない。
そんなことを考えて、律はじっと繋がれた手を見た。故に、気づいてしまったのだ。
触れている栗原の手が、微かに震えていることを。
「だから、今日は手を繋いでいてもらえませんか。美術館にいる間だけでいいんです」
緊張して汗をかいた手のひらと逸らされた視線。震えながら運命の番にそんなことを言われて、断れるオメガがいたならお目にかかってみたい。
いくら律でも、そんな願うように言われては断れなかった。
小さく頷いた律に、栗原はひどく嬉しそうな顔をした。
美術館の展示は素晴らしいものだった。
元々、見たいと思っていたものだ。楽しくないわけがない。
律が好きな画家の絵をモチーフに、会場にはさまざまな工夫が凝らされていて見ごたえがあったし、照明やプロジェクションマッピングを使った絵の再現は新しい感覚の芸術だと思った。
始終楽しくてはしゃぐ律を、栗原は楽しげに眺めていた。
たぶん、栗原は展示をほとんど見ていない。彼がずっと見ていたのは律で、瞬きする暇さえ惜しいとばかりに律だけを見つめていた。
そのことには気づいていたけれど、律は知らないふりをした。展示に夢中になっているふりをして、栗原には背中を向けるしかなかった。
だって、これ以上どうしたらいいのか分からなかったのだ。
律は栗原の気持ちを受け入れることは出来ない。
そんな、まるでこの世界で一番大切な宝物に触れるように手を握られても握り返すことは出来ないし、この世界で一番愛しいものを見るような目で見られても見つめ返すことは出来ない。
栗原は律にそれらを求めない。彼自身が諦めると言ったからだ。
けれど、彼に気持ちを返せないことがひどく苦しいと思ってしまうのは、おそらく律自身が栗原のことを知ってしまったからだ。
運命の番を手放せるアルファはきっとそうそういない。栗原にとって、その選択はどれほどの苦痛を伴うのだろうか。それはきっと身を切られるような苦しさだろうに、栗原は律の意思を尊重してくれようとしている。
彼の選択に秘められた想いの大きさに気づかないほど、律は愚かではなかった。
どんなにゆっくり見て回っても、展示は二時間もすれば見終わってしまう。
特別展示ブースの終わり。白い入り口から外に出たとき、短い夢は覚めたのだと律は思った。
美術館を出ると、辺りはすっかり日が暮れて真っ暗になっていた。頬を撫でる風は生ぬるく、身体を包む空気にはたっぷりと湿度が含まれている。もうすぐ、雨の季節がやって来る。
「栗原さん、今日はありがとうございました」
別れを切り出したのは律の方からだった。
握られた手はそのままに、美術館の街灯の中でそっと微笑んだ。
「展示、見たかったやつだったのですごく楽しかったです」
「俺もすごく楽しかった」
「はい……」
淋しそうに微笑む栗原に、律の胸が痛んだ。
そんな顔をしないで欲しい。彼には笑っていて欲しいのだと、律の本能が叫んでいた。
栗原はとてもいい人だ。穏やかで優しく、仕事も出来る社会的地位の高いアルファ。
非の打ち所がないとはまさに彼のことで、アルファ特有の少々独善的な部分すら多くのオメガたちは魅力的だと感じるだろう。
暁斗より栗原に先に出会っていれば、律はきっと栗原を愛したに違いない。
照れた顔も嬉しそうな顔も、彼を形作る全てが律にとって好ましい。律の運命のアルファ。
栗原にはずっと笑っていて欲しい。彼が幸せなら、律も嬉しくなる。――そう思うのに。
心は、理性はとても冷静で彼を「違う」と判断するのだ。
だって、律は暁斗に出会ってしまった。
辛くて苦しくて心が折れそうなとき、律を救ってくれたのは目の前のアルファではなかった。運命が本当にあるのであれば、あのときの暁斗との出会いの方が律にとっては運命だった。
だから、この手は握り返せない。
決別の意思を持って、律は栗原を見た。栗原の端正な顔が苦しげに歪む。
――悲しい。苦しい。目の前にいるのは、自分の運命なのに。
そんな心の声が聞こえてきそうで、律は唇を噛んだ。そうしないと泣いてしまいそうだったからだ。
本当は視線を逸らしたかった。けれど、それはしてはいけないと思った。
「篠田さん」
「……っ!?」
すみません、と小さく耳元で聞こえた気がしたのは、たぶん気のせいではない。けれど、その言葉の意味を理解出来なかったのは、そのときの状況がそれどころではなかったからだ。
栗原に強く腕を引かれて、気づいたときには律は彼の腕の中にいた。
「く、栗原さん!?」
「すみません、少しだけだから」
大きな身体と長い腕。アルファとして恵まれたその体躯は、いつも律を抱きしめている暁斗より、少しだけ筋肉質で硬いような気がした。鼻腔に広がる栗原の香りは甘く、官能的でしっとりと律を追い詰める。
「好きです。俺の運命」
「俺は――」
「分かっています。でも、知っていて欲しくて」
逞しいアルファの身体は、律が抵抗してもびくともしなかった。濃厚なフェロモンの香りに窒息しそうで、涙が溢れてくる。
「俺は毎日、仕事を頑張っているあなたを見るのが好きだった。誰にも気づかれないように事務の女の子の仕事を手伝ったり、総務部の雑用をひとりでこなしたり。そういう、真面目で誠実なところがとても好きで、運命の番とか関係なくあなたに惹かれてしまった」
震える声が耳に届いて、律の胸がぎゅっと苦しくなる。
苦しくて、悲しい。どうして自分は彼を愛してあげられないのだろうか。
そう思いつつも、律は栗原の誠実な言葉を聞いて、そっとその胸を押した。
柔らかい、けれど明確な拒絶に栗原は息を飲む。腕の力が抜けて、彼は律の身体を離した。
「栗原さんは、とてもいい人だと思います。アルファとしてもたぶん、魅力的で、誰がどう見たって暁斗よりあなたの方を選んだ方が幸せになれる。でも――」
瞬きをした瞬間、堪えていた涙が零れていく。律はその涙を拭わなかった。溢れるままに流れていくそれは、律がたった一度、栗原のために流す涙だ。
「俺があなたより暁斗と先に出会ったのが、俺の『運命』なんです」
――さようなら。
それだけを言って、律は駆けだしていた。栗原はそこに立ち竦むばかりで追いかけては来ない。
さようなら。俺の運命の番。
あの人は確かに誠実な人だったと律は思う。
律のために抑制剤を飲んでくれて、律に触れるだけで真っ赤になってしまうような人だった。
律に――オメガにふられて蹲って泣いたことにも驚いた。アルファなんてみんな、オメガを無理やり好き勝手出来ると思っているようなやつらばかりだと思っていたから。
初めて暁斗以外のアルファを好ましいと思ったし、好きになれる要素はたくさんあった。もっと早く出会っていたら運命の番じゃなくても、その為人で好きになっていたかもしれない。
けれど、律が求めるのは暁斗だった。
抱かれたいと思うのも、手を繋ぎたいと思うのも、触れて欲しいと思うのも。
全部、全部。律にとっての運命はこの世界で暁斗ただひとりだ。
息が上がる。同時に身体の奥が甘く疼いていく。
抑制剤を複数飲んでいても、抱きしめられたらもう駄目だった。
運命の番の体温はまるで毒のようだと思う。溢れるアルファのフェロモンに律のオメガ性は呆気なく陥落して、同じようにアルファを誘うフェロモンを出す。どろりと後孔から溶け出す愛液が下肢に纏わりつき、ひどく気持ちが悪かった。
律はほとんど発情期に入ってしまっていた。
律がたまに早く帰ってくる曜日を、暁斗が覚えているかどうかは分からない。出来れば、気づかないで欲しいと思う。
「篠田さん。行きましょうか」
「はい」
水曜日の仕事終わり。律は栗原と待ち合わせていた。
もちろん、会社から一緒に目的地に向かう、なんて危険なことはしない。
ただでさえ、栗原が総務部に顔を出すようになってから、周囲のあたりが強くて肩身が狭いのだ。地味で冴えない律が栗原と一緒に歩いているところを会社の人にでも見られたら、とんでもないことになってしまうだろう。だから、目的地の最寄り駅で待ち合わせた。
初夏の夕方はまだ明るく、西のビルの影には茜色の空が広がっている。東の空には薄紫の雲がたなびいていて、微かに一番星が輝いていた。
お互いにいつものスーツのまま、律は栗原と並んで歩く。アルファの栗原も暁斗と同じくらいの身長で、つまり律よりもずっと背が高くて足が長い。それでも律がのんびりと歩けるのは、彼もまた律に歩調を合わせてくれているからだ。こちらのアルファもなかなか気遣いが上手かった。
「篠田さんは絵がお好きだと伺ったので、美術館に行こうと思うんですが」
「あ、これ」
見たかったやつです、と律は栗原が差し出したチケットを見て言った。
栗原が用意してくれたのは、今開催されている近代美術の展示だった。
展示テーマは近代美術ということで、展示されている画家はひとりではない。けれどメインを飾っているのが律の好きな画家で、海外から運ばれて来たその画家の代表作を律は一度生で見たいと思っていたのだ。
「もう行きましたか?」
「いえ、まだです」
不安そうにこちらを見た栗原に、律は答えた。
見たかった、けれども見る予定はなかった、とはさすがに言えなかった。美術館の入場料はだいたい二千円程度だが、その二千円が律にはひどく高額なのだ。
「行きたかったから、嬉しいです」
「それはよかったです」
律の言葉に、栗原がふわりと微笑んだ。その破壊力たるや絶大で、すれ違った女の子が小さな悲鳴を上げていた。
美形は笑うと素晴らしいほどに美しい。美麗な栗原の笑顔を見て、律は相変わらず花が咲いたみたいな笑顔だな、と他人ごとのように思った。
「栗原さんは、絵はお詳しいんですか?」
「俺ですか? 絵はあんまり。というか、素人ですね。今日、よければ詳しく教えていただけると助かります」
「ええ、そうなんですか。なんか意外」
「意外ですか?」
「はい。栗原さん、そういう教養全般はまかせろ、みたいな感じかと」
「なんですか、それ」
律の言葉を受けて、栗原はあはは、と声を上げて笑った。
美術館までの道すがら、ふたりで当たり障りのない言葉を交わす。
律が話しかけると栗原は分かりやすいくらい嬉しそうな顔をするので、何やらむず痒くなってしまう。
「教えるって言っても、俺も見るのが好きなだけの素人ですから」
「篠田さんは、どんな絵がお好きですか? 好きな画家とか」
「この画家は好きです」
改めてしっかりと会話してみれば、栗原は実に話しやすい人物だった。
律への好意を隠しもしないところはいただけないが、話す内容は多種多様で話題に尽きないし、相手への気遣いも上手い。律が困らないように適度に質問を交えて話してくれるため、会話に詰まることもなかった。これはモテるはずである。
話しながら歩けば、目的地にはすぐに到着した。
美術館といっても、パリのルーブル美術館や大英博物館のような古めかしい建物ではない。近代を代表する建築家による実にモダンな建物で、硝子張りのエントランスは眩しいほどの照明で煌めていた。
硝子に張り付くように飾ってあるのは、律たちが行く特別展示の宣伝の垂れ幕だった。そこに描かれた絵画や画家の名前に、律は思わず感嘆の息を漏らす。ずっと見たかった絵がすぐそこにあるのだ。多少、気分が高揚するのは仕方がないことだった。
垂れ幕に気を取られて、上ばかりを見ていたからだろう。入り口の前にある小さな段差に律は気が付かなかった。
タイル張りのアプローチから入口へと続く、たった二段の低い階段。軽く足を上げれば難なく上がれるそれに、律は見事に躓いた。
「わっ!?」
「篠田さん!?」
驚いたのは、たぶん栗原も同じだった。転ぶ瞬間、咄嗟に伸ばした手を力強く引き上げられる。栗原が寸でのところで律を支えてくれたのだ。おかげで転倒せずに済んだけれども。
抱き留められたわけではない。二人の距離はそのままに、腕を強く掴まれている。
驚いた顔で栗原を見ると、栗原も目を丸くして律を見ていた。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です」
「よかった」
隣で安堵するように言われて、顔が熱くなる。はしゃぎすぎて足元が疎かになるなんて、まるで子どものようでひどく恥ずかしかった。
「すみません。……ありがとうございます」
「いえ、あの」
「はい?」
律はお礼を言って当たり前のように手を引こうとした。しかし、離してはもらえず逆に握り込まれてしまう。握りしめられた手のひらは熱く、栗原の大きな手はじんわりと汗をかいているような気がした。
「あの栗原さん……?」
「抑制剤を飲んできました」
手を離してください、と言おうとした言葉は栗原に遮られた。そして、その内容にああ、なるほどと冷静に納得する。
――だから、素肌で接触しても何も感じないのか。
律自身、常用の抑制剤に加えて、予防的に発情期用のものも飲んで来た。相手が栗原であれば、律は容易く発情してしまうのだ。用心はするに越したことはない。
そんなことを考えて、律はじっと繋がれた手を見た。故に、気づいてしまったのだ。
触れている栗原の手が、微かに震えていることを。
「だから、今日は手を繋いでいてもらえませんか。美術館にいる間だけでいいんです」
緊張して汗をかいた手のひらと逸らされた視線。震えながら運命の番にそんなことを言われて、断れるオメガがいたならお目にかかってみたい。
いくら律でも、そんな願うように言われては断れなかった。
小さく頷いた律に、栗原はひどく嬉しそうな顔をした。
美術館の展示は素晴らしいものだった。
元々、見たいと思っていたものだ。楽しくないわけがない。
律が好きな画家の絵をモチーフに、会場にはさまざまな工夫が凝らされていて見ごたえがあったし、照明やプロジェクションマッピングを使った絵の再現は新しい感覚の芸術だと思った。
始終楽しくてはしゃぐ律を、栗原は楽しげに眺めていた。
たぶん、栗原は展示をほとんど見ていない。彼がずっと見ていたのは律で、瞬きする暇さえ惜しいとばかりに律だけを見つめていた。
そのことには気づいていたけれど、律は知らないふりをした。展示に夢中になっているふりをして、栗原には背中を向けるしかなかった。
だって、これ以上どうしたらいいのか分からなかったのだ。
律は栗原の気持ちを受け入れることは出来ない。
そんな、まるでこの世界で一番大切な宝物に触れるように手を握られても握り返すことは出来ないし、この世界で一番愛しいものを見るような目で見られても見つめ返すことは出来ない。
栗原は律にそれらを求めない。彼自身が諦めると言ったからだ。
けれど、彼に気持ちを返せないことがひどく苦しいと思ってしまうのは、おそらく律自身が栗原のことを知ってしまったからだ。
運命の番を手放せるアルファはきっとそうそういない。栗原にとって、その選択はどれほどの苦痛を伴うのだろうか。それはきっと身を切られるような苦しさだろうに、栗原は律の意思を尊重してくれようとしている。
彼の選択に秘められた想いの大きさに気づかないほど、律は愚かではなかった。
どんなにゆっくり見て回っても、展示は二時間もすれば見終わってしまう。
特別展示ブースの終わり。白い入り口から外に出たとき、短い夢は覚めたのだと律は思った。
美術館を出ると、辺りはすっかり日が暮れて真っ暗になっていた。頬を撫でる風は生ぬるく、身体を包む空気にはたっぷりと湿度が含まれている。もうすぐ、雨の季節がやって来る。
「栗原さん、今日はありがとうございました」
別れを切り出したのは律の方からだった。
握られた手はそのままに、美術館の街灯の中でそっと微笑んだ。
「展示、見たかったやつだったのですごく楽しかったです」
「俺もすごく楽しかった」
「はい……」
淋しそうに微笑む栗原に、律の胸が痛んだ。
そんな顔をしないで欲しい。彼には笑っていて欲しいのだと、律の本能が叫んでいた。
栗原はとてもいい人だ。穏やかで優しく、仕事も出来る社会的地位の高いアルファ。
非の打ち所がないとはまさに彼のことで、アルファ特有の少々独善的な部分すら多くのオメガたちは魅力的だと感じるだろう。
暁斗より栗原に先に出会っていれば、律はきっと栗原を愛したに違いない。
照れた顔も嬉しそうな顔も、彼を形作る全てが律にとって好ましい。律の運命のアルファ。
栗原にはずっと笑っていて欲しい。彼が幸せなら、律も嬉しくなる。――そう思うのに。
心は、理性はとても冷静で彼を「違う」と判断するのだ。
だって、律は暁斗に出会ってしまった。
辛くて苦しくて心が折れそうなとき、律を救ってくれたのは目の前のアルファではなかった。運命が本当にあるのであれば、あのときの暁斗との出会いの方が律にとっては運命だった。
だから、この手は握り返せない。
決別の意思を持って、律は栗原を見た。栗原の端正な顔が苦しげに歪む。
――悲しい。苦しい。目の前にいるのは、自分の運命なのに。
そんな心の声が聞こえてきそうで、律は唇を噛んだ。そうしないと泣いてしまいそうだったからだ。
本当は視線を逸らしたかった。けれど、それはしてはいけないと思った。
「篠田さん」
「……っ!?」
すみません、と小さく耳元で聞こえた気がしたのは、たぶん気のせいではない。けれど、その言葉の意味を理解出来なかったのは、そのときの状況がそれどころではなかったからだ。
栗原に強く腕を引かれて、気づいたときには律は彼の腕の中にいた。
「く、栗原さん!?」
「すみません、少しだけだから」
大きな身体と長い腕。アルファとして恵まれたその体躯は、いつも律を抱きしめている暁斗より、少しだけ筋肉質で硬いような気がした。鼻腔に広がる栗原の香りは甘く、官能的でしっとりと律を追い詰める。
「好きです。俺の運命」
「俺は――」
「分かっています。でも、知っていて欲しくて」
逞しいアルファの身体は、律が抵抗してもびくともしなかった。濃厚なフェロモンの香りに窒息しそうで、涙が溢れてくる。
「俺は毎日、仕事を頑張っているあなたを見るのが好きだった。誰にも気づかれないように事務の女の子の仕事を手伝ったり、総務部の雑用をひとりでこなしたり。そういう、真面目で誠実なところがとても好きで、運命の番とか関係なくあなたに惹かれてしまった」
震える声が耳に届いて、律の胸がぎゅっと苦しくなる。
苦しくて、悲しい。どうして自分は彼を愛してあげられないのだろうか。
そう思いつつも、律は栗原の誠実な言葉を聞いて、そっとその胸を押した。
柔らかい、けれど明確な拒絶に栗原は息を飲む。腕の力が抜けて、彼は律の身体を離した。
「栗原さんは、とてもいい人だと思います。アルファとしてもたぶん、魅力的で、誰がどう見たって暁斗よりあなたの方を選んだ方が幸せになれる。でも――」
瞬きをした瞬間、堪えていた涙が零れていく。律はその涙を拭わなかった。溢れるままに流れていくそれは、律がたった一度、栗原のために流す涙だ。
「俺があなたより暁斗と先に出会ったのが、俺の『運命』なんです」
――さようなら。
それだけを言って、律は駆けだしていた。栗原はそこに立ち竦むばかりで追いかけては来ない。
さようなら。俺の運命の番。
あの人は確かに誠実な人だったと律は思う。
律のために抑制剤を飲んでくれて、律に触れるだけで真っ赤になってしまうような人だった。
律に――オメガにふられて蹲って泣いたことにも驚いた。アルファなんてみんな、オメガを無理やり好き勝手出来ると思っているようなやつらばかりだと思っていたから。
初めて暁斗以外のアルファを好ましいと思ったし、好きになれる要素はたくさんあった。もっと早く出会っていたら運命の番じゃなくても、その為人で好きになっていたかもしれない。
けれど、律が求めるのは暁斗だった。
抱かれたいと思うのも、手を繋ぎたいと思うのも、触れて欲しいと思うのも。
全部、全部。律にとっての運命はこの世界で暁斗ただひとりだ。
息が上がる。同時に身体の奥が甘く疼いていく。
抑制剤を複数飲んでいても、抱きしめられたらもう駄目だった。
運命の番の体温はまるで毒のようだと思う。溢れるアルファのフェロモンに律のオメガ性は呆気なく陥落して、同じようにアルファを誘うフェロモンを出す。どろりと後孔から溶け出す愛液が下肢に纏わりつき、ひどく気持ちが悪かった。
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