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第一章 マッチングアプリ

第一話

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 駅から徒歩十数分。
 寂れた地方の繁華街のすぐ近くに、その探偵事務所はあった。
 大通りから外れた路地裏を曲がった奥。古い雑居ビルの二階を見上げれば、大きく「神楽宮陰陽探偵事務所」と書かれた窓を見つけることが出来る。
 曇ったガラス窓とひび割れの目立つ壁。そこに書かれたその文字だけがいやに真新しくて、しかしやはり全体の雰囲気はどこか薄暗い。

 夕日に照らされるその窓を道から見上げて、千堂多季は小さくため息をついた。
 このオンボロ雑居ビルの一階にも、某国民的アニメの探偵事務所のように美味しい喫茶店が入っていればいいのに。そうすれば、少しでも人通りが増えて、二階の事務所にも興味を持ってくれる人も増えるかもしれない。
 そんなことをつい考えてしまうけれども、現実はそう上手くは行かないものだ。多季が何度見ても一階のテナントはいつ開いているのか分からない占いの館と、客が入っているところを見たことがないスナックで、ビル全体の怪しさを満点にしてくれていた。

 ビルのエントランスから入ってすぐにあるコンクリートの階段を上がりながら、多季はジーンズのポケットから鍵を取り出す。
 この時間、多季の上司兼同居人は事務所にいるはずだった。しかし、だからといって入り口を開けているかは分からない。
 この商売を始めたのは多季の上司兼同居人の意向だが、彼にはまったく「商才」というものがなかった。むしろ、儲けるつもりどころか仕事をする意欲すらないので、毎月の売り上げはいつだってカツカツだ。
 今日だって朝から授業がある多季の代わりに、午前中から事務所を開けておくように何度も言ったというのに。

「あいつ……、入口くらい開けとけよ」

 案の定、薄いアルミで出来た業務用の扉には鍵がかかっていて、曇りガラス越しに覗く室内には明かりが点いていなかった。これは十中八九寝ているな、と当たりをつけて、多季は安っぽいシリンダーキーを差し込んだ。

「嵐丸!」

 扉を開けると同時に、声をかける。しかし、それに返ってくる言葉はない。
 は~、と一度大きくため息をついて、多季はどかどかとわざと足音を立てて室内に入った。
 毎日掃除をしているはずなのに、多季の動きに合わせて埃が舞う。

「おい!」

 大きな声をもう一度上げると、もそり、と応接セットのソファーの上で何かが動いた。

「うっさいわ、聞こえとる」
「聞こえてんなら返事しろよ!」
「お前の声で今起きたんや」

 そう言って起き上がったのは、金髪の男だった。
 薄暗い室内でも分かる人形のように整った容姿に、気だるげな雰囲気。どこか排他的な空気のあるその男こそが、多季の上司であり同居人――神楽宮かぐらのみや嵐丸らんまるだ。

「俺の声でって、もう夕方だぞ?」
「昨日の夜遅かったやろ。むしろ朝から動けるお前の方がおかしいわ」
「俺はお前と違って帰ってきたらすぐ寝ましたからね。起きられないのはお前が夜更かしするからだよ」

 呆れたように言った多季に、嵐丸はひどく嫌そうに顔を顰めた。
 確かに昨夜は探偵事務所の仕事とは別件が入っていて夜が遅かった。しかし、それでも日付が変わってすぐには帰って来られたのだ。早く寝ないからこうなる、と呆れながらも多季は嵐丸に近寄った。

「なんか食べた?」
「食べてへん。コーヒー飲みたい」

 入れて、と寝ぼけた声で言われて、多季は呆れたように息を吐いた。
 それくらい自分でやれよ、と思わなくもないが、嵐丸は多季に世話を焼かれるのが当たり前だと思っている節がある。ここで断っても面倒くさいので、座ったまままた目を瞑りそうな金髪の髪をくしゃりと乱すことで留飲を下げることにした。
 寝ぐせのついた柔らかい髪に触れても、嵐丸は何の抵抗もせずされるがままになっている。

「ミルク多めに入れて、砂糖も」
「それ、カフェオレって違う名前あるんだけど、知ってる?」
「知らん。コーヒーはコーヒーやろ」

 多季に髪を乱されながらも、呑気にそんなことを言う嵐丸に多季は苦笑しつつ、踵を返した。
 神楽宮陰陽探偵事務所は十畳ほどの小さなオフィスだが、給湯室が備え付けられていた。
 とはいっても温水器と流し台、それから一口コンロがついているだけの簡素なものだ。そこに小さな冷蔵庫と食器棚を置けば、もう給湯室はいっぱいで多喜ひとりが立つのが精いっぱいの広さしかない。
 多季は慣れた手つきで薬缶でお湯を沸かし、インスタントコーヒーを準備する。
 ご所望のカフェオレに使える牛乳があったかな、と思ったところで、かたん、と背後で人の気配がした。

「らん――」
「多季、客」

 狭い給湯室に、大きな影が落ちる。
 多季より十センチ以上背の高い嵐丸が圧し掛かるように多季の肩に顎を置いて、自らの背後を指さした。多季はその言葉に目を見開く。

「え!? お客さん!?」

 思わず声を上げた多季に、嵐丸がうるさい、と顔を顰める。けれども仕方がないことだと思う。なにせ、前回偽物心霊写真を燃やした客以来、実に一週間ぶりの客だったのだ。



 神楽宮陰陽探偵事務所に来る客は二種類ある。
 ひとつはホームページや窓に書かれた文字を見て、興味本位で来る大して困っていない客。これはもう冷やかしのようなもので、適当にあしらって帰ってもらうしかない。もちろん、金にはならない。
 そしてもうひとつが、今目の前にいる客のように何か困ったことがあって訪れる客だ。
 それが先日のように偽物の心霊現象に悩まされているとしても、客は客。彼ら――もしくは彼女らは、事務所の胡散臭い文言にすら縋りたくなるような「何か」を抱えてこの神楽宮探偵事務所にやって来るのだ。
 ここは「探偵事務所」と銘打っていても、ただの探偵事務所ではない。
 陰陽にまつわる相談事――つまり、心霊現象など警察や普通の探偵では解決できない出来事に特化した探偵事務所だった。

 事務所に置かれた応接セットに、落ち着かない様子で腰かける女性を多季はちらりと見た。
 年のころは二十代前半だろうか。黒く艶やかな髪は素朴であるが丁寧に手入れをされていて、女性の瑞々しい美しさに花を添えていた。紺色の上品なワンピースに映える白い肌。伏し目がちな表情は、おそらく自らの身の上に降りかかった事態に怯えているからだろう。

「どうぞ」
「……ありがとうございます」

 女性は多季が出したコーヒーを見つめたまま動かない。
 彼女の向かいに足を組んで座っている嵐丸の隣に多季が腰を下ろしても、彼女は口を噤んだまま何も言わなかった。
 多季はじっと女性を見つめてごくり、とつばを飲み込む。たぶん、彼女自身は何も気づいていない。否、何かを薄っすらを感じているから、ここに来たのだろうか。

「――で? どうしたん」

 沈黙を破ったのは嵐丸だった。
 何があったんや、と訊ねる嵐丸の態度はひどく横柄で、傍若無人なものだった。
 おまけに彼とて多季と同じものが見えているはずなのに、平然とした様子でひじ掛けに置いた腕に頭を持たれている。その「お前は接客とは何かを知っているのか?」と思わず問いただしたくなる態度に、多季は頭を抱えたくなった。
 しかし、女性は気にした様子はなく瞬きするのも惜しいと言わんばかりに嵐丸の整った顔を凝視している。それも多季と嵐丸にとっては慣れた反応である。

「まずはお名前を聞かせてください。私の名前は千堂多季。こっちの金髪が神楽宮嵐丸」

 どうぞよろしく、と笑えば、女性は神楽宮……、と嵐丸の名前を呟いた。

「そうです。こっちが所長。僕は助手です」

 嵐丸は何も言わない。それどころか興味もなさそうにそっぽを向いている。彼女の強い視線が煩わしいのだろう。

「あ、私は相田沙也加あいださやかといいます」

 慌てて名乗った沙也加は、自らのことをこの近くに通う大学生だと紹介した。
 何でも、相談した友人がこの探偵事務所を勧めてくれたという。聞けば、一週間前に心霊写真をした「大川さん」の大学のご友人だったのだから、仕事は丁寧確実にやっておくに限るな、と多季は思った。


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