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第一章 マッチングアプリ

第四話

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 ――神楽宮本家に行く週末まで、封印が持ちますように。

 なんて。そんな多季の願いは呆気なく叶わなくなってしまった。

「うわぁ……」
「こりゃ、派手にやられたな」

 呆然と呟いた多季の隣で、嵐丸が感心したように目の前の惨状を眺めていた。
 目の前には大きく曲がり、外れた事務所の扉。奥に続く探偵事務所の中は様々な物が散乱して、足の踏み場もなかった。壊された書類棚に割られたローテーブル。客の相談を聞くためのソファーはひっくり返っており、リノリウムの床には何かを引きずった黒い痕が残っている。

 時刻は午前三時を少し過ぎた時間。草木も眠る丑三つ時に、多季は何かが爆発するような、激しい物音を聞いて飛び起きた。
 多季と嵐丸は、探偵事務所のある雑居ビルの三階に部屋を借りて住んでいる。借家は事務所と同じように古びた部屋ではあるが、家賃が安い上にふたりで暮らしても困らないくらいの広さがあるので多季は嵐丸とふたり、それなりに仲良く暮らしていた。

 惜しむらくは、立地が繁華街に近いため、便利ではあるが決して静かではないというところくらいだろうか。
 今日だって平日の夜だというのに一時過ぎまで酔っぱらいが外で騒いでいた。その喧騒がようやく収まって、寝入ったところに階下から響いた大きな破壊音。驚き、何事かと事務所を見に来れば、オンボロの事務所がさらにぼろぼろの有り様になっていたというわけだった。

「ないな、封印ごと持ってかれとるわ」
「まじか」

 恐る恐る現状の確認をしていると、同じように事務所内を見て回っていた嵐丸が呆れたように言った。
 彼がしゃがみ込んで確認しているのは、天板や引き出しが大きくひしゃげ、見る影もなくなった彼のデスクだった。デスクは特に引き出しのあたりの損傷が激しかった。
 このデスクは一応、重要書類や封印した呪物を保管するために使っているので、通常の鍵とは別に追加の鍵も取り付けてある。
 犯人はそこを何度も殴りつけ、引き出し事体を変形させて中の物を取り出したようだった。
 無くなっていたのは二日前に預かった例のネックレスだ。嵐丸に封印はそう長く持たないと言わしめた、第一級の曰くつきの品である。

「封印しとったから、場所が分からへんかったんやろな」

 デスク周囲の物を見渡しながら、多季は嵐丸の言葉に頷いた。
 通常、呪物はそこに存在するだけで呪詛をまき散らしている。あのネックレスも澱んだ黒い靄を沙也加やその周辺に纏わりつかせていた。あれほどまでに濃い呪詛を、嵐丸の術はぴたりと封じてしまう。犯人は呪詛を目印にネックレスを探すつもりだったのだろうが、それが出来ずに闇雲に事務所内を破壊したらしかった。
 それにしても、と多季は事務所の中を見渡した。
 破壊された備品類は、その全てが大きく変形しておりもう二度と使えそうにない。その中にはスチール製のデスクや書類棚もあり、どう見ても人間技ではなかった。明らかにそれらは人知を超える力で力任せに殴った痕だ。

「嵐丸、お前。何回でかい音聞いた?」
「三、四回やろか」
「俺も」

 何度も言うが、多季と嵐丸は事務所のすぐ上で寝泊まりしている。
 ビル自体は鉄筋コンクリートで出来ているとはいえ、音と振動はよく響く。
 階下から聞こえた破壊音は多くて四回ほど。扉を壊し、机や書類棚を殴り、それからデスクを壊してそれで合計四回だ。つまり、一度ずつ殴るだけで扉やデスクをここまで変形させたということだ。
 しかも、音を聞いて飛び起きた嵐丸や多季が駆けつける前に逃げおおせている。その怪力と脚力は並み大抵のものではない。

「相田さんかな」
「まぁ、十中八九そうやろな。そんだけ人間じゃなくなっとるちゅうことやろ」

 人間じゃなくなっている、という嵐丸の言葉に多季は盛大に顔を顰めた。
 呪物にはそういう類のものがある。人を殺すだけでは飽き足らず、持ち主を化け物に変えてしまう呪いだ。
 先日、顔を合わせたときの沙也加はごく普通の女性に見えた。しかし、同時に「ごく普通の女性」があれほどの呪物を身に着けて平然としていることに違和感を覚えもしたのだ。

「どうする?」
「どうするもなんも、どうも出来んやろ」

 多季の問いに嵐丸が答える。寝巻き代わりのスウェット姿で、彼は眠そうに欠伸をした。

「あれはあの女からの依頼で祓う予定やったんや。依頼人がやっぱ止めたって取り戻しに来たんやから仕方ない。現物もないしな」

 それに、と嵐丸は続ける。

「相手はバケモンになっとるはずなのに、理性は残っとる。封印を解かないで持ち去ったのがその証拠や。呪詛が封じられとるから、追うことも出来ん」
「そうなんだよなぁ……」

 ため息を吐きながら、多季はもう一度目を凝らして事務所の中を見回した。しかし、やはりそこには呪詛の気配はなかった。これでは多季と嵐丸にはネックレスと、その持ち主を追うことは不可能だ。
 呪いは確かに呪詛を振りまくけれど、遠く離れたそれを探知できるほど気配があるわけではない。嵐丸の探知能力は術師として超一級だけれども、それでも感じることが出来るのは半径一キロ程度だろう。つまり、どこかで呪いの封印を解かれても、距離が離れてしまえば呪詛の存在は曖昧になってしまう。
 特に人口の多い場所では様々な怪異や呪詛が入り乱れている。関東という大都会でいくら強力とはいえ、ひとつの呪詛を――それもこちらに向けられたわけでもないものを探し出すのは、砂漠の中で砂粒を探すようなものだ。

「通報する?」
「せんよ。意味あらへんやろ」

 一応、と多季が訊ねると探偵事務所の所長である嵐丸はあっさりとそう答えた。
 それもそうだろうな、と多季は目の前の惨状を見て思う。台風や地震の後のように激しく損傷した室内は、明らかに泥棒などの仕業ではない。警察に通報したところで、これをどう説明したらいいのか多季には分からなかった。

 ――呪いのネックレスで頭と身体がおかしくなった女の子にやられました?

 呪詛や怪異の話をしたところで、警察には理解してもらえないものだ。

「警察には連絡せんけど、東雲には連絡せんとな」
「東雲さんに?」
「この後始末頼まんといかんやろ。また小言言われるな」

 はは、と嵐丸が他人ごとのように笑ってスマートフォンを取り出した。
 東雲というのは、嵐丸の実家である神楽宮家に代々仕える陰陽師の青年だ。
 大学生である嵐丸よりも少し年上で、幼い頃はそれこそ四六時中嵐丸と一緒にいて世話を焼いていたらしい。今では関東に家出同然に出てきた嵐丸のお目付け役として、彼の私生活を監視――もとい、支援している。

 故に、こんな風に仕事絡みで困ったことがあれば、嵐丸はすぐに東雲に連絡するのだ。関東での仕事の斡旋もそうであるが、事態の後始末も東雲の仕事のひとつだ。
 明け方に近い今の時間でも、きっと東雲は電話に出るだろう。
 しかし、嵐丸にとっては気易い相手でも多季には違う。むしろ、会うたびに小言を言われるので、むしろ出来るだけ顔を合わせなくない人物であった。

 数コールの後、無事に電話は東雲に繋がったようだった。嵐丸が事務所の惨状を見ながら、軽く事情を説明している。そしてすぐに電話を切って、「明日、もう今日か。昼すぎには何とかしてくれるて」と多季に告げた。
 その一言で明日の多季の予定が決まる。
 夕方まで家に帰らない。これは嵐丸が何と言っても決定事項である。



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