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1巻
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しおりを挟む「…………ああ、でも、ようやく会えたご主人様は、俺のこといらないんだったね…………寂しいけど、ご主人の希望が一番だから…………俺、妥協する。俺が傍にいなくても、ご主人の安全が守られればそれで…………ううん、それが、いい、んだよね…………」
寂しげに微笑む姿に罪悪感がこみ上げて、視界の数字がぐんと減る。
さっきから〝犬〟発言を聞いていたせいか、しょんぼりするその様子が捨てられた犬のようにも見え…………いや、それは気のせいだよね。グランシオは立派な成人男性なんだし!
少しは冷静になったつもりだけど、かなり動揺しているのかも………………
必死に気を落ち着かせようとしていると、グランシオがパッと顔を輝かせた。
「そうだ! とりあえずご主人様に害を為しそうな奴を一人ずつ闇討ちして、足の腱を切っていくのなんてどう?」
何が『どう?』!? どういう経緯を辿って出したのその結論!?
あわあわと頬をひくつかせながら言葉を探す間に、相手は指折り理由を挙げ始める。
「それならそうそう店まで来れないしぃ、いざというとき、ご主人の足でも逃げられるでしょ? ほら、ご主人可愛いからさぁ、不埒な輩に狙われちゃうんじゃないかって心配なの。気遣いできる犬だからね、俺!」
『褒めて!』と言わんばかりだけど、気遣いの方向性に問題がっ…………!!
「そ、そんなこと、されたらっ、きゃ、客足途切れちゃう…………!」
ベイラーパン屋に行くと足を切られるぞ、とか噂になるよね? なんの都市伝説を生み出そうとしているの!?
「客足……ふふっ。ご主人様ってば、うまいこと言うんだね」
…………違います。足繋がりでブラックなジョーク言いたかったんじゃないんです。
真っ青になってぶんぶん頭を横に振る私を見て、グランシオはクスクス笑った。
「ねぇご主人? 元がどんなに凶暴な犬でも、飼い主が手綱を握って可愛がってくれるなら、なぁーんの危険もないんじゃないかなぁ?」
頬を引きつらせる私の顔を覗き込むようにして、グランシオが目を細めた。
「忠実な犬は、主の望み通りに動いて、主だけを見つめて、主だけに尻尾を振る。何者からも主を守り、決して裏切ることはない。この世の何より安全で頼りになるよ。――――――――――ご主人様さえ傍にいれば、ね?」
囁かれた内容に、全身に冷や汗をかきながら必死に頭を回転させた。
グランシオという男は、私にとっての暗黒歴史――――――――であると同時に、どうしようもないほど罪悪感を刺激される存在でもある。
私は、彼の意思を無視して隷属の力で縛り上げた。自分が助かりたい一心で彼を支配し続けて、彼はその手を血に染めることになった。
間接的ではあっても、それは私自身が望んだこと。私が彼に人を殺させたのだ。それは消しようもない私の罪。たとえ、彼が元々人を害することを躊躇うような人ではなかったとしても。
胸に去来するのは悔恨に似た申し訳なさ。彼は出会ってから今この瞬間においても、魔女の力に翻弄され続けている。それはすべて、私のせい。
彼は私の、紛れもない被害者なのだ。
被害者の希望を拒絶できるほどの図太さなんて私は持ち合わせていない。でも、人間を犬として受け入れろと言われることには、ものすごく抵抗がある。
ごくりと喉を鳴らして、私はグランシオを見上げた。
「わ、わかり、ました………………」
グッと身体に力を入れて、乾いた唇を舐める。
「あなたを、うちで、その……………………雇います」
語尾は小さくなってしまったが、ちゃんと聞こえたらしい。少し間をおいて、グランシオが笑顔のままカクンと首を傾けた。
「うーんと? 従業員とかそういうのじゃなくってぇ、俺はただあんたの犬になり下がりたいっていうかぁ――――――――」
「パン屋に番犬は置けませんよねっ! ほら、食べ物扱う場所ですしっ!」
犬云々は比喩で、相手は人間だって理解しているけど、とにかく犬とか下僕とか、そういうのから離れてほしい。じゃないと耐えられないっ………………!
私の内心など知らないグランシオは、顎に手を当てたまま天井を仰ぎ見て、何やら考え込む。
「…………俺以外の犬は過去現在未来のすべてにおいて、この店には置かないってことか…………それはそれでいい案だけど」
誰もそんな話はしてないけど、この際それは聞かなかったことにした。
固唾を呑んで見守っていれば、グランシオの目がこちらに向く。
「でも、やっぱり俺としては、さっきみたいに『駄犬』って呼――――――――」
「犬ならば、お店には置けませんっ!」
悲鳴みたいに叫んだら、不穏な言葉を吐いていた口がぴたりと閉ざされた。
が、頑張れ、私…………! ここはたぶん譲っちゃダメなところじゃないかと思うんだ。
震える自分を叱咤して、更に付け加える。
「い、今、このお店で迎えられるのは、お客様か、従業員だけですっ!!」
ババンと二択を突き付けてやれば、グランシオはあっさり従業員になることを選んだ。
どうにか普通の関係に持ち込めた。そのことに安堵してもいいはずなのに、どこか余裕な態度を崩さないグランシオが気になる。『仕方ないから、ひとまず譲ってやったんだぜ』と思っていそうな気がしてしまうのは、私の被害妄想…………なのかな。
男の人とお付き合いもしたことがないのに同居することになるなんて…………と一瞬思ったけれど、これは客足を切られないためなのだから仕方ないんだと自分に言い聞かせる。
グランシオは私が嫌がることはしない。その点は間違いない。
それもこれも魔女の力のせいだけど…………と考えるだけで数字が減る。…………ホントにもうヤダこの仕様…………
なし崩し的に従業員の雇用と同居が決まってしまったけれど、今まで人を雇ったことなどないので、賃金の相場がどれくらいなのかもわからない。
「後で、友だちのヤミンかサンジャに聞いてみよう…………」
とりあえず、安くても一応賃金は払うこと、問題を起こしたら解雇することなど、いくつかの約束事を決めて、グランシオが寝泊まりするための部屋を準備する。
「お金なんていらないのにー」
背後からそんな言葉が聞こえるけど、それじゃあ雇用したことにならない。「あんた専用の奴隷でいいよ」って爽やかに言わないで! 聞こえない。私は何も聞いてませんっ…………!
無視をするにも精神力が削られるということを初めて知った。疲れて遠い目をしていると、グランシオがうっとりした表情を浮かべた。
「ああ、ご主人の足元に這いつくばることを許されるなんて、今日という日を俺は決して忘れない」
………………這いつくばっていいなんて誰も言ってません………………
「俺の可愛いご主人様。どうぞこれからはグランって気軽に呼んでね」
にっこり満面の笑みを浮かべる彼に、弱々しく笑みを返すことしかできない。
こうしてその日、ベイラーパン屋は、番犬ではなく新たな従業員を迎えたのでした。
この世界には、前世の世界で言う酵母菌みたいな役割をする粉がある。普通のパン屋はそれに水と卵、バターを混ぜて焼くだけだ。でも、ベイラーパン屋は違う。
何を隠そう、私は前世で料理教室に通っていたことがある。嫁に行く予定などまったくと言っていいほどなかったけれど、職場の同僚たちの盛り上がり具合に引っ張られて通うことになった。いわゆる人間関係を円滑にするためのお付き合いというやつだ。
最初はしぶしぶ通っていたのに、レパートリーが増えて(自分以外食べる人いなかったけど)、後片付けも面倒くさがらなくなり(一人暮らしになってからそれが面倒でほとんど料理してなかった)、何より料理教室で女の子たちとキャッキャウフフする時間が、それはそれは楽しかった。仕事で疲れた心が女の子成分でかなり癒されていた。女の子って偉大。
その料理教室ではパン作りも行っていたため、何度か参加して作ったのだけれど、まさか転生後に役立つとは。前世は自宅では一切作らなかったのに、何が幸いするかわからない。
ベイラーさんにパンを焼きたいと言ったときは驚かれたものだけれど、彼らは色々と試す私の姿にも驚いていた。
試行錯誤の結果、材料の配分や、温度の微妙な変化で、味がかなり変わることを発見した。ついでにパン生地を寝かせるという、前世では常識だったひと手間を加えることで、成形しやすくなる上に、きめ細かくしっとりふんわりしたパンに仕上がった。この世界のパンが硬くてちょっぴり酸っぱいのは、発酵不足もあるんだと思う。
ベイラーパン屋でしか手に入らないパンは結構人気だ。そのせいで、トルノーさんに目をつけられてしまったのだけれど。
数日前に雇ったグランシオも、思いがけずよく働いてくれている。料理も掃除もあまりしたことがないそうだけれど、すぐに慣れて手際がよくなった。…………たまにいるよね、なんでもそつなくこなす人。羨ましい………………
そして今日は、忙しい時間帯を過ぎてから、近所に住む幼馴染たちが遊びに来た。名前はサンジャとヤミンだ。この前またトルノーさんが来たことを話すと、二人とも微妙な表情をした。
「しつこいわねぇ。なんでそんなにこのお店にこだわるのかしら」
「パンのレシピを知りたがっているのよ。美味しいし、珍しいもの。うまくやればアーヤなら貴族のパン職人にだってなれるかも」
そんなの無理だとぷるぷる頭を横に振れば、「それはわかってる」と二人揃って頷かれた。実は以前にもお金持ちの家で働かないかと誘われたり、レシピを買い取りたいと言われたりしたことがあるのだけれど、その場でお断りしたのだ。不慣れな場所で、知らない人たちに交じってパンを焼くなんて私には無理だと思うし、ベイラー夫妻と一緒に研究を重ねた、思い出の詰まったレシピをお金に換えたいとは思えない。
「アーヤしかいないときを狙って来るわよね。現場を押さえたら、とっちめてやるのに!」
年上のサンジャはおっとりしているように見えて、実はかなり気が強い。彼女にはもう旦那様がいるけれど、ヤミンはまだ独身だ。
そんなヤミンには想い人がいる。
噂をすればなんとやら。ドアについている鐘が鳴り、そこから入ってきたのは――――――――
「お前ら、また集まっているのか」
「レリックこそまた来たの? サボってばかりじゃない」
「俺はちゃんと見回りしてるんだよ」
レリックはヤミンと同じ十八歳。この国の成人年齢は十六だから、二人とも立派な大人である。
私は一応、二十歳ということになっている。拾われた当時、正確な年齢はわからなかったので、同年代の子供と見比べて年齢を仮定したらしい。そこから年を重ねても、私の成長は芳しくなく…………童顔と低身長のせいで、未だに子供と間違われることがある。
レリックも幼馴染の一人だ。前はこの辺に住んでいたけれど、父親の出世に伴い、もう少しいい家に引っ越した。成人と同時に兵士になったレリックは、たまに街を見回るのが仕事。でもうちの店の中まで入ってくるのはヤミンがいるときだけだったりする。
お互い憎からず思っている様子の二人がうまくいくといいなぁと思うのだけれど、ちょっと裕福な家の娘であるマイラがレリックを狙っているらしい。この辺では、結婚相手は親が決めるものなので、ただ見守ることしかできない。
ちなみに、私にはそんな話は影も形も見当たらない。一応、理由はいくつかある。
第一に、この国の美人の定義は、すらりと背の高い女性。低身長で童顔な私は純粋にモテないのだ。見た目でまず恋愛対象外らしい。
グランシオは時々『可愛いご主人様』とか言うけれど、あれは隷属の力のせいでフィルターがかかっているか、自称忠犬としての義務か何かだと思う。
第二に、結婚相手には親族がいることが望ましいとされる。親族同士の付き合いが新たな富を生む、という考えがこの国の根底にあるのだ。つまり、頼るべき親族もない私は結婚相手としては不適格ということになる。
ただでさえ美人の定義から外れている上に、相手にとって旨味もない。そんな私に結婚は無理だろう。でも、前世からの人見知りで男性とお付き合いしたこともない身としては、それでもいいかなと考えている。
「そういえば、人を雇ったって聞いたんだけど」
サンジャの言葉に、私はぎくりと身体を強張らせた。
「う、うん。そうなの。その、ベイラーさんの、遠縁の人で………………」
ベイラー夫妻の遠い親戚であるグランシオという男性が、昔世話になった夫妻が亡くなったと風の噂で聞き、ここまでやってきた。そこで夫妻の跡を継ぎ、一人でパン屋を営む小さな娘に出会う。ある人物から店を買い取りたいと強引に迫られ、困っていることを知った彼は、娘の身を案じて保護者役を引き受けることにしたのだった――――――――という設定になっている。
「突然人を雇うって聞いて、うちの父も最初は驚いていたけど………………」
そうヤミンが口にしたとき、厨房からひょいとグランシオが顔を出した。
「初めまして。遠縁のグランシオといいます。どうぞよろしく」
突然割って入ってきた長身の男に、ヤミンもサンジャもレリックも目を丸くした。
グランシオの鋭い目は、笑えば意外なほど柔らかくなる。パン屋のエプロンを身に着けてにっこり微笑む姿は、爽やかと言っても過言ではない。〝下僕〟発言のときとのギャップが激しすぎて最初は混乱したくらいだ。
「グランシオさんっておいくつなの? ご結婚は?」
「以前はどちらに?」
「はは、もう三十は過ぎていますね。お恥ずかしながら独り身で…………気の向くままに色々な国をフラフラしていたのですが、たまたまフュレインの近くまで来たら、若いとき親切にしてくれた遠縁の夫妻が亡くなったと耳にしましてね………………」
グランシオが神妙な表情で、設定に沿った答えをうまく話していく。
…………犬になりたいって駄々こねていた人と同一人物だとは思えない………………
遠い目をしているうちに、質問攻めが一段落していた。「ごゆっくり」と言い置いて厨房へ戻っていくグランシオ。その背中を見送ったサンジャは、満足げに頷いた。
「父から聞いていた通り、なかなかしっかりした人みたいね。安心したわ」
「そうね。いい人そう!」
あの男を放っておくと店に来るお客さんの足が切られるかもしれないんです、なんて言えるわけがない。
「ところで、あの髪型って何か理由があるの?」
ヤミンがそう言ったのは、グランシオの髪が一房編み込まれているためだ。初めて会ったときはそうじゃなかった。うちに住むことになった翌朝からだ。
曰く、『ご主人様とお揃い♥』だそうで………………いえ、似合っているけどね!?
私の髪型は、ベイラー夫妻の奥さんが考えてくれたもの。パンを作るのに邪魔にならないように、でも年頃なんだから少しでも可愛らしくしましょうねと、いつも優しく櫛で梳いてから丁寧に編み込んでくれた。奥さんが亡くなってから、一人でちゃんと結えるようになるまで少し大変だったけれど、これも大切な思い出の一つ。
それを友人たちも知っているので、私はしどろもどろになりつつ「あれはベイラーさんたちを偲んで……」「子供の頃に結ってもらった思い出があるとか……」などと、適当な言い訳をした。
追及される前に話題を変えよう!
「そ、そういえば、ご近所に挨拶に行ったんだけど!」
グランシオと一緒に暮らすにあたり、いつもお世話になっている近所の人々へ挨拶して回った。用意した設定のおかげか、グランシオの話術のおかげか、訝しがられることもなく、みんな『そりゃよかった』『アーヤちゃんだけじゃ心配だったんだ』と納得してくれたのだが。
「私、これでも一応、成人しているのに、すごく心配されてるんだなぁって思ったんだよね」
やっぱり頼りないかなぁと苦笑すれば、三人が顔を見合わせる。
「…………お前、見た目ちんまいからなぁ。とっくに成人してるようには見えねえし」
正直すぎるレリックのせいで、視界の数字がちょっと減る。サンジャが頬に手を当てて苦笑した。
「そうなのよね。この辺の人はアーヤが成人してるってわかっているけど、知らない人からすれば保護者のいない子供が勝手にパンを売っているようにしか見えないもの」
親が亡くなったり親族がいなかったりする一人暮らしの女性は、〝保護者役〟になってくれるよう誰かに頼むのが普通なのだそうだ。独り身の女性で保護者役すらいないのは、運か素行か、とにかく何かが悪いという判断になるらしい。
「信用がないから家も借りられないし、仕事にも支障が出るだろ? いざってときに金も貸してもらえないし………………」
レリックが不都合になりそうな例を指折り挙げていくのを聞いて、保護者役=保証人なのだと思い至った。
テレビもネットもなく、情報の真偽を確かめる術がない世界。親や親族、保護者役というものが、信用に値する人間かどうかの一つの判断基準になっているということか。それならば、ちゃんと親族がいる人が結婚相手として望まれるのもわからないでもない。
「そういう人は、住んでいる地域の長とか、ある程度地位のある人物に後ろ盾になってもらうよう頼むのよ。問題を起こしたら放り出されるし、まとまったお金を払わないといけないとか、結婚などの自由まで奪われちゃうとか、色々あるみたいだけど」
ベイラー夫妻が亡くなった後、近所の人たちは私をどうするか話し合っていたらしい。
ところが私は、さっさとパン屋を開けて一人で生活し始めてしまったのだ。
周囲の大人たちは驚いた。あれ? この子、保護者役いなくても全然困ってないよ、と。
……………………すみませんね。こちらの常識知らなくて。
「だけど、やっぱり保護者役をしてくれる人がいるのといないとのじゃ、全然違うわよね」
よくわからない感覚だけれど、慣習ってやつなんだろうか。
昔からこうあるべきとされているから、そこから外れているのを見るとなんとなく居心地がよくない、あるいは端から見ていて眉を顰めてしまう、みたいな………………?
今になってこうして教えてくれるのは、私の保護者役が決まったことで安堵したからかもしれない。慣習というのは馬鹿にできないと思う。それなのに、友人たちも近所の人たちも、何も言わずにじっと見守ってくれていたのだ。
確かに、一人でパン屋をやらなきゃと必死になっていたときに、こうあるべきだと言われても、きっと受け入れる余裕なんてなかっただろう。
周囲の人たちの優しさに今更ながら気づいて、じんわりと胸が温かくなった。
グランシオが周囲に受け入れられたことでホッとしたのも束の間、新たな問題が起きた。
大きな通りに面した場所に、新しいパン屋ができたのだ。値段を聞いてびっくり。明らかに原価割れしている。
「…………あ、あれ、もしかしてうちへの嫌がらせ…………?」
「そう考えてもいいかもね。あんな大安売りする理由が他になさそうだし、ご主人が許してって泣きつくのを待っているんじゃない?」
グランシオの言葉を聞いて、すぐにトルノーさんの顔が頭に浮かんだ。だけど証拠も何もない。
材料の買い占めとかされたわけじゃないからパンは焼けるけど、お客さんが来なければ売れない。うーんと唸って考えていると、グランシオが長剣を持って出ていこうとしていた。
「どこ行くの?」
「ちょっと仕留めに」
いったい何を仕留めるつもり!? …………いえ、具体的に人物名とか聞きたいわけじゃないです。結構です。
どうしよう…………グランシオの下僕スイッチがいつ入るのか本当に予測がつかない。
――――――下僕スイッチ(私命名)。
それは隷属の力で支配されている男が『ご主人様のために!』という考えで、具体的な命令がなくとも勝手に行動しようとする恐ろしいスイッチである。グランシオの場合、相手を排除しようとする傾向にある。この世から。
………………危険すぎるぅ!!
「し、新作でも作ってみようかなぁ。グランが手伝ってくれたら、その、嬉しいな!」
「もっちろん手伝いますとも! この犬めにお任せくださいご主人様!」
元気のいい返事とともに、すぐさま必要な道具を台の上に並べ始めるグランシオ。上機嫌なその様子に、こっそり息を吐いた。
…………ああ、今日も数字が減ってくなぁ…………
「ご主人、用意できたよ」
にこにこしているグランシオにお礼を言うと、私も台の近くに立つ。材料や器具の前で深呼吸して気持ちを切り替えた。そう、今こそ新作パンを生み出すとき!
目標はカツサンド。
前世でいうところの豚は、角とか生えていてどう見ても地球の豚とは異なるけれど、〝豚〟として私の頭は認識するし、〝豚〟と口にすればきちんと周囲に伝わる。こういうの、異世界もののラノベとかだと翻訳機能っていうんだっけ。不思議だけど実に助かる。
買ってきた豚肉を適当な厚さで切り、筋切りして叩いて塩を振っておく。小麦粉と卵とパン粉をつけて熱した油に入れると、じゅわっといい音がした。
前々から作ってみたかったのだけれど、油自体が少し高価なので、これまで手を出さなかった。でも目新しい物がないと、お客さんを呼ぶことはできない。ちょっと割高でも食べたいと思わせればいけるんじゃないかなと考えたんだけど、どうだろう。
揚がったトンカツを冷ましておく間に、切ったお芋を揚げてみる。ポテトフライって受け入れられるのかな。わからないけれど、せっかくだし私も食べたい。
トンカツが冷めたら野菜と一緒にパンの上に並べて特製のソースをかける。上にもう一枚パンをのせ、きれいな濡れ布巾を被せて馴染ませる。
ソースと肉汁がパンに染み込むと、しっとりしてずっと美味しくなるのだ。
振り向けばグランシオの目がカツサンドに釘付けになっていた。
「グラン、試食してくれる?」
「いいの?」
琥珀色の目を戸惑い気味に瞬かせるグランシオに、もちろんと頷く。
私だって、こっちの食べ物でどうしても受け付けないものとかあるし、自分では美味しいと思っても、こっちの人に受け入れられるかどうか判断がつかないのだ。
カツサンドを受け取ったグランシオは、大きな口を開け、はぐっと噛みついた。目を大きく見開くと、もぐもぐと咀嚼を繰り返し、次はさっきよりも大きく口を開けて食べた。
…………たった二口でカツサンドがなくなった…………
「えと…………男の人には小さかった…………?」
いつもお店に並べているものと同じ大きさに作ったんだけど、実は男の人には物足りない大きさだったとか? 不安を込めて見つめていると、ぺろりと唇を舐めたグランシオが目を細めて言った。
「すっごく美味しいし、食べ応えあるね、これ」
「ほ、ほんとう?」
嬉しくて頬が緩んだ。そんな私から視線を逸らしたグランシオが「だけど」と続ける。
「ちょっと目立つかな」
目立つ?
首を傾げる私に、グランシオは眉根を寄せた。
「あんたを欲しがる奴が出てくるってこと」
つまり引き抜き的な感じかな?
「他の店になんて行かないよ」
おかしな表情で黙るグランシオを他所に、頭の中で計算する。どれくらいの数なら提供できそうか。値段はいくらにするか。とりあえず、定番のサンドイッチと一緒に店頭に並べてみよう。
結論から言うと、カツサンドはお店には出さないことになった。店頭に並べていたらレリックがやってきて、そのお連れ様がカツサンドを気に入ってくれ、それが定期的な注文に繋がったのだ。
レリックと一緒に来店したのは、第二騎士団の団長補佐アルベルトさん。
ざっくり言うと、第一騎士団は高位貴族の子息ばかりで、王宮などの主要な場所に配属される。それに対し、第二騎士団は下位貴族で編成されていて、王都の街や砦などを守っているのだ。レリックたち普通の兵士は平民出身だけれど、騎士団とは同じような立場で詰め所も隣接しているから、たまに一緒に見回りに出る程度には交流があるという。
正直、とても助かった。店頭で販売するのと違い、毎回決められた数を作ればいい。必ず売れるとわかっているから安心感もひとしおだ。
ヤミンにもレリックのおかげで助かったことを伝えた。『レリックもたまには役に立つのね』なんて口では言っていたけど、嬉しそうにそわそわしていた。
そして今日も第二騎士団から注文のあったサンドイッチを作る。
普通は二切れを一人分として販売しているのだけれど、肉体労働の騎士がそれで足りるわけがない。交渉の結果、第二騎士団には料金上乗せで特別製のサンドイッチを作ることになった。
騎士用のサンドイッチは一人四切れ。カツサンドは毎日だけれど、卵やハムなどを挟んだ定番のものも日替わりで作る。それとは別に、鶏肉を煮込んだものや、芋を油で揚げたものを付け合わせとして用意した。
特別料金なので庶民にはちょっと高いけど、貴族である騎士団の面々は特に問題ないらしい。普段は自宅の料理人が作った弁当を食べたり、貴族街にあるレストランに行ったりするんだとか。毎回それだと飽きてしまい、庶民派パン屋が作るサンドイッチに目新しさを求めたみたい。
お給料日には、兵士さんたちも買ってくれることがある。たまの贅沢にって。
平民が買えるような値段に設定した場合、かなりの数を売らないと元がとれないかもしれないと不安だったから、今回の件は本当に幸運だった。
カツサンドを馴染ませている間に、もう一種類のサンドイッチを作る。具はハムと卵だ。こちらはこの世界の定番メニュー。ベイラー夫妻がいたときから変わらぬ味である。
今日の付け合わせは鶏肉のオーブン焼きとフライドポテト。鶏肉は昨日から少し蜂蜜を塗っておいたものに、細かく叩いた木の実と香草をまぶして、こんがり焼いた。フライドポテトはこちらの世界のお芋を素揚げして塩を振っただけだけど、騎士団に人気で毎回入れるようにと頼まれている。安価だし、毎日他の付け合わせを考えるよりは、ずっと楽で助かる。
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