森の精霊 翼の天使

蜜柑桜

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第五章 精霊

(一)

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 その夜、雲は東に動き、月が姿を現して地上を照らした。
 道には一人の人間が歩いていた。腕に大きな光を抱えて。まっすぐに森の方へと向かって。
 人の足音に気付いた鳥がその姿を見つめた。鳥は眩い光に目をしばたたき、常ならぬものを感じて飛び立った。餌を探して歩いていた猫が、歩く人間の腕の中のものを見て激しく鳴いた。本来、人が抱えるはずのないものを見て。
 その人物は夜気に包まれて歩いている。周囲には風が吹いていた。夏の夜の、湿気を含んだ風。涼しくて、濃い空気の流れ。
 その流れの先には森の入り口がある。
 森の入り口で足は止まった。ざわめいていた木々の動きも止まる。揺れているのは訪問者の周りの背丈の低い草花のみ。同族と呼び交わす小動物の声もない。
 全ての機能を失ったかのように、一瞬にして森は静寂で満ちた。
 木々を見上げた者は、一歩足を出した。踏みならされていつの間にか出来た道。それをしっかりと踏みしめて、奥へ、奥へと進んでいく。顔を上げて、森の奥を見つめて。
 その者が森の中深くへ見えなくなると、辺りはまた闇に閉ざされた。
 木々が揺れ、烏が低く鳴く。
 もう、先ほどと同じ森の夜だった。
 風が凍るような冷たさから、一瞬で生ぬるく変わったことを除いて。

 

 家々から明かりが漏れている。開け放たれた窓からは楽しそうな笑いが聞こえてくる。真夜中にはまだ遠い。街路樹にかけられた祭りの飾りが街灯の灯りの中にぼんやりと浮き上がる。
 あのあと、外に出ようとしたディレスがめまいを起こしてしまったので、ララナと二人で日が落ちるのを待った。気持ちばかり焦っていたが、森が安息の静けさを深めるのはどのみち夜なのだ。
 森だけでなく空気もどこか穏やかで、ララナの歩調に合わせて自然と呼吸も整う。
「ねえ、本当にもう大丈夫ね?」
 ララナはディレスの顔を覗き込んだ。また蒼白だったら、ピリトだってきっと心配する。
「平気になったよ。ララナのお母さんのご飯、美味しいのな。ご飯食べるって元気になるんだ」
 ディレスは「満足した」と気持ちよさげに笑う。嘘ではなさそうだった。天使は嘘がつけないって言うし。
 二人で外が夕闇に変わるのを待っていたら、母に夕食を食べてから行けと引き留められてしまったのである。「腹が減っては戦はできぬ、脳の栄養不足じゃ喧嘩も起きる」とか何とか言って、ララナの母が食卓を大ご馳走でいっぱいにしたので、いつもの夕飯より長く座っていた気がした。おかげでもう外はすっかり夜気に包まれてしまっている。
「なら良かったけど、天使は食べなくても平気なんでしょ。もう、時間ロスしちゃったじゃない。まったくお母さんてば」
「平気だと思っていたけど、食べたら落ち着いたし美味しくて嬉しくなったよ」
 ディレスはララナたちが食べ過ぎた時にするのと同じように、さすさすとお腹を撫でた。
「人間って生きるためだけに食べるんじゃないのな。気持ちの栄養みたいだ」
「あ、それは分かる」
 頭にトゥレットが料理の皿を差し出す姿が浮かぶ。楽しくて嬉しそうで、だから食べる方もあったかい気分になる。
 作る方にも食べる方にも栄養——きっとそういうことだ。
「お母さん、ディレスとさよならするのが寂しかったのかな」
「なんかこそばゆいな」
「天使も人間と一緒だね」
「かも。わかんない。神様に聞いてくれ」
 聞けるのかな、とララナは空を見上げた。月は白く大きく、とても近くに感じる。
 満月に近い膨らんだ月の光のおかげで、街路が真っ暗ということはなかった。しかし森へ続く街灯の少ない道を一人で歩くのを想像すると、身の縮まる思いがする。正直、隣にディレスがいることにララナは安堵していた。
 一本、二本と道路を通り過ぎ、森へ近付いていくにつれて民家も減ってくる。人のいない街路で、空を浮くディレスは音もなく進んだ。地面を急ぎ足で行くララナの足音が異様に響いて聞こえる。
 いつもと同じはずなのに、いつもと違う夜だ。
「静かだわ」
「うん」
 言葉が途切れてしまう。
 無音が不気味で、何か話していたい。
「ララナは祭りに参加するのか?」
 話しかけたのはディレスが先だった。
「わっかんない」
 投げやりな返事に、ディレスは驚いた顔をララナに向ける。
「楽しいんだろ? 祭り、参加しないの?」
「いや、お祭りには参加するけど、でも、さあ」
「でも?」
 先を促されて、ララナはちょっと考えて話し出す。
「私、店の手伝いやらなくちゃいけないのよね、毎年。だーから、楽しみなもの……今年は男の子とのダンスなんだけどね、それに、たぶん参加できなくてさ」
「お父さんやお母さん、許してくれないの?」
「もちろん許してくれるよ。そのくらい。でもなんか嫌」
「いや?」
 疑問符が打たれた声音に、言葉を一つずつ選んで答える。心の中を探りながら。
「悪いじゃない? お父さんも、お母さんも、自分たちは仕事でさ、祭りはほんの少ししか見られないんだ。なのに、ね。私がさ、長時間、ずーっと抜けたら……大変でしょう」
 口から出た説明に、胸の奥の隅がうずく。
 自分の言っていることは、世間で言う良い子の姿だろう。でもそんな「善い行い」が理由ではないと否定する想いも、ちらちら影を見せるのだ。
 視界の端でディレスが口を開きかけたのがわかって、どきりとする。
しかしそれとほぼ同時に、ララナは正面に木々の門をみとめて足を止めた。
「着いた」
 森は普段と変わらない。しかし、周囲を取り巻く空気が前と違った。凍てつくような冷気は感じられない。あるのは柔らかな、夏の夜独特の熱気をはらんだ風。激しく吹き荒れていたあの風は嘘だったかのようだ。
「風が、いつもと同じだ」
 ディレスの呟きを耳にして、ララナはその意味を思い出す。
 今は、ピリトの拒絶はない。
「ディレス、行こう?」
 ララナはディレスの手を取って森へ入ろうとする。だがその手は逆に、後ろに引かれた。ディレスがその場で止まったのだ。
「まだ、約束の日になっていない」
 闇の中にいるディレスから光が放たれている。翼が振りまく銀の粒子と頭に光る金の糸。清らかで、美しくて、そして悲しみと不安をも秘めた聖気の輝き。でも今は、泣き出しそうな色ではない。強くはないけれど、夜闇の中でしっかりと澄んだ光を瞬かせる星と同じ。
「ピリトは俺を迎えてくれたのかもしれない。だったら、だからこそ、俺は約束を守らなくてはいけない」
 一年に一度、友達に会える日。相手を信じて、いつものように。今はまだ、完全に不安が消えたわけではないけれど。
「約束は、守らなくてはいけない」
 ディレスはまだ、怯えて頼りなげだ。でも瞳には、その弱さに打ち勝とうとする意思がある。この世の汚れを寄せ付けないような、暖かく柔らかな、ララナが頭に描いていた天使の微笑みを浮かべる。
 真紅の瞳の色は深くて、その奥の奥には確かに、強い光があった。
「待とう」
 日付が変わるときまで。
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