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第五章 精霊
(二)
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精霊は森の中心にいる。
聖域である広場を取り巻く草木の中に、花はない。
精霊の力は萎え、いまとなってはほとんど無に等しい。今、精霊の精神体は消え入る一歩手前までになっていた。森の全ての命は、精霊の力と同調し、息をひそめ、鎮まる。
しかし、ひとつだけ例外があった。風の精は、精霊の心を察する。余力で、自ら働く。精霊を助けんがために。
彼らは精霊の守護に努めた。
彼らの主の力が、これ以上弱くならないように。森は清らかな光を抱えた訪問者を迎え入れ、広場まで連れていく。
森の中心で、光がはじけた。
ララナとディレスがいたのは森の入り口だ。突然、闇を裂く閃光が森の深部から瞬きの速さで空間を突き抜け、刹那、二人の視力を奪った。
「ララナ、中心からだ!」
ディレスが立ち上がり、翼を広げる。
「日付が変わった!」
「掴まって!」
ララナがディレスの背に掴まる。それを確認してすぐさま、ディレスの身体は斜めに宙に浮く。気づけば、さっきまで座っていた道に沿ってディレスはものすごい速さで飛んでいた。
木々が顔の横を通り過ぎていく。夏であるのに、青々とした草の間には今の季節に咲くはずの花がひとつもない。祭りの飾りと同じ、祭りに彩りを添える花々が。
——どういうこと?
ディレスに聞きたかったが、あまりの速度で向かい風が強くて、ララナは口を開けなかった。
もはや風のうねりしか聞こえない。ディレスの翼が起こす風。しっかり掴まっていないといまにも振り落とされそうだ。
目の前にはもう、枝がしなってできた樹木の門。
「ピリト!」
ララナの足は地面に着いていた。がくんと崩れた姿勢を立て直すと、ディレスがもう駆け出している。
その向こうに見えるのは、髪の長い痩身の女性。真昼の空のように明るい水色の髪を風に靡かせ、広場の中央に立っている。衣は純白。闇の中で輝き、あたりは光に満ちていた。遠くからでも分かる瞳の色は緑。森の息吹。朝露に光る草の色。
ララナは息を呑んだ。
その風貌は、トゥレットにそっくりだった。ララナと同じくらいの背丈で、見るからに女の子である。しかし、その顔の作りはララナの良く知る顔にそっくりだった。
その少女の横にもう一つ人影があった。少女が放つ光に照らされて、濃紺の瞳が光る。
「あ……」
他の誰でもない。トゥレットだった。
「どうして、いるのよ……」
ララナの舌はうまくまわってくれない。
「ララナ?」
トゥレットの方もまた、驚きが顔に表れる。
「ごめんなさい、ララナさん。私から説明するわ」
掛けられた声は少女の——ピリトのもの。心の中に直接語りかけてくる澄んだ響きだ。強くて凛とした音が、ララナの胸の内でこだまするように。
ピリトに手招かれ、ララナは三人の元へ歩み寄る。最初にピリトが大樹の幹の元に腰を下ろし、他の三人もそれにならって座った。
「まず、ディレスに謝らなくちゃいけないわね。ごめんなさい」
ピリトは頭を下げる。ディレスはわけが分からないといった風情で彼女を見つめた。
「ララナさんにもご迷惑をおかけしたみたい。ごめんなさいね」
はあ、とララナの口から間の抜けた返事が出た。
「ことの始まり、馬鹿な私の恥さらしから始めるわね」
ピリトはディレスとララナの困惑とは正反対の落ち着きを見せて、微笑みながら一同を見回し、話し出した。
「私の仕事は草木として生きる生き物全ての統率。彼らに指示を出し、彼らを育む。とはいえ、育つのは彼ら自身で、私はそれを少し手助けするだけなのだけれどね」
苦笑するピリトの声は軽い鈴みたいだ。
「昨年の祭りが終わってから、私、妙に張り切ってしまって。みんなに力をあげすぎてしまったのよ。自分の力のほどをちゃんと分かっていなかったから、後のことを考えられていなかったの。だから森の中も外も、果実や葉っぱたちはよく育ってくれて、みんなで大喜びしたの」
「あ、みんな言ってました。今年は作物も森の果物もよく獲れて、町の人たちはすごく喜んではしゃいでるって」
そう、とピリトは頷く。
「私、力を使い過ぎちゃって、一年の最後の方——私たちの一年なので、祭りの前ね——生き物たちの統率が大変で。それに人々の活気がすごく強くて。人々の気持ちは精に伝わるのよ。私も本来なら、少しくらい力が足りなくても大丈夫なのだけれど、今年は人間たちの活気が色んな精に伝わってしまってね」
ララナは直感した。
「陽の精にも?」
「そう。暑かったでしょう。それでね、私を助けてくれる子たちまでまいっちゃって」
ピリトは肩をすくめた。
「聖花が枯れたのか? なるほどね。だからここに一つも咲いていないのか」
「聖花?」
「町で飾りに使う花だよ。本来なら森の中にも咲いている」
ララナの問いに答えたのはトゥレットだった。
「事は二段階だったわ」
続きをピリトが話す前に、トゥレットが先を継いだ。
「いつになく多く咲き誇った聖花だったから、大喜びした人間たちが森の入り口近くに咲いているのを飾りのために全部取っていってしまったんだ」
少し怒ったような、苛立ったような声だ。やっぱり変だとララナは思ったが、ピリトはただ笑って説明を続けた。
「みんなが喜んでくれたことそれ自体は嬉しかったのだけれど……活発になった陽の精の力によって、この広場の聖花も全部枯れてしまったの。それだけではなくて、人間たちの気持ちが精に伝わるのと同じで、力を増した色んな精たちの想いが人にも伝染してしまったのよね。明るい星の精や前向きな朝露の精だけならいいのだけれど、ちょっと落ち込み気味な土の精も、心配性な雨の精も、たまに癇癪起こしちゃう嵐の精も」
自然の精たちの昂った気持ちは、人間たちの心に影響する。人々は喜び、積極的になるだけではなく、ちょっとしたことで不安になったり、泣きそうになったりしてしまう。
言葉を切ってから、ピリトは折った膝を軽く抱えた。きらめく布がふわりと揺れて、微風がピリトの髪を撫でる。
「人も自然もお互いの様子に敏感に反応してしまうの。それくらい、人と自然は近いのよ」
「なるほど、です」
そういえばここのところ、わけもわからず腹が立ってくることが多かったかも、とララナは思い返す——怒ってしまうのを自然のせいにしてはいけない気がするけど、と反省もしながら。
しかし力が過剰になってしまった状態では、トティーナの町の均衡がどんどん崩れてきてしまう。普通ならば精霊が自然に呼びかけて均衡を取り戻すのだが、その力もピリトには残っていなかった。
「本来、私は力が足りなくなったら、聖花から力を分けてもらうのだけれど、それもできなくて」
森の精霊は森から出ることはできない。ピリトは意識を自分の分裂体として森の外へ飛ばした。聖花が残っているところを探したが、全て町中の飾りに使われてしまっている。そのために枝から離されてしまって、花の力は半減していた。
「ララナさんのお店の前も通ったのよ。びっくりしたわ。ディレスと、私にそっくりな人間がいて」
人間の中には天使や精霊と魂を分かち持って生まれてくる者がいる。魂に共通項が少しでもあれば、精霊や天使と引き合うはずだ。意識体だけでは声をかけることができないが、運良く森まで来てくれれば、と希望を持った。
「結局、森まで戻ってきたら意識体を飛ばす力も回復しなくてね。魂の引力も足りなかったかもって、ほぼ絶望的だったところにトゥレットが来たの」
ララナは驚いてトゥレットの方へ首をぐるんと回した。まんまるの目で凝視されて、トゥレットはためらいがちながらも口を開く。
「市場に食材を取りに行くところだったんだ。肉が手に入らなくなってたから、森のことちょっと気になって。森の入り口まで近づいてみたんだ。そしたら、ピリトに呼ばれた。で、俺は風の精に押されて、この広場に辿り着けた」
「トゥレットに助力を頼んだの。そして、私に人間の汚れを与えないように、彼に呪を施したわ。でも、その呪はすごく強いから、施すのに制約が必要だったのだけれどね」
ララナとディレスは、揃って首を傾げた。ピリトは真剣な面持ちで、両手の人差し指をそっと交差する。
「天使と会ってはならない」
聖域である広場を取り巻く草木の中に、花はない。
精霊の力は萎え、いまとなってはほとんど無に等しい。今、精霊の精神体は消え入る一歩手前までになっていた。森の全ての命は、精霊の力と同調し、息をひそめ、鎮まる。
しかし、ひとつだけ例外があった。風の精は、精霊の心を察する。余力で、自ら働く。精霊を助けんがために。
彼らは精霊の守護に努めた。
彼らの主の力が、これ以上弱くならないように。森は清らかな光を抱えた訪問者を迎え入れ、広場まで連れていく。
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ララナとディレスがいたのは森の入り口だ。突然、闇を裂く閃光が森の深部から瞬きの速さで空間を突き抜け、刹那、二人の視力を奪った。
「ララナ、中心からだ!」
ディレスが立ち上がり、翼を広げる。
「日付が変わった!」
「掴まって!」
ララナがディレスの背に掴まる。それを確認してすぐさま、ディレスの身体は斜めに宙に浮く。気づけば、さっきまで座っていた道に沿ってディレスはものすごい速さで飛んでいた。
木々が顔の横を通り過ぎていく。夏であるのに、青々とした草の間には今の季節に咲くはずの花がひとつもない。祭りの飾りと同じ、祭りに彩りを添える花々が。
——どういうこと?
ディレスに聞きたかったが、あまりの速度で向かい風が強くて、ララナは口を開けなかった。
もはや風のうねりしか聞こえない。ディレスの翼が起こす風。しっかり掴まっていないといまにも振り落とされそうだ。
目の前にはもう、枝がしなってできた樹木の門。
「ピリト!」
ララナの足は地面に着いていた。がくんと崩れた姿勢を立て直すと、ディレスがもう駆け出している。
その向こうに見えるのは、髪の長い痩身の女性。真昼の空のように明るい水色の髪を風に靡かせ、広場の中央に立っている。衣は純白。闇の中で輝き、あたりは光に満ちていた。遠くからでも分かる瞳の色は緑。森の息吹。朝露に光る草の色。
ララナは息を呑んだ。
その風貌は、トゥレットにそっくりだった。ララナと同じくらいの背丈で、見るからに女の子である。しかし、その顔の作りはララナの良く知る顔にそっくりだった。
その少女の横にもう一つ人影があった。少女が放つ光に照らされて、濃紺の瞳が光る。
「あ……」
他の誰でもない。トゥレットだった。
「どうして、いるのよ……」
ララナの舌はうまくまわってくれない。
「ララナ?」
トゥレットの方もまた、驚きが顔に表れる。
「ごめんなさい、ララナさん。私から説明するわ」
掛けられた声は少女の——ピリトのもの。心の中に直接語りかけてくる澄んだ響きだ。強くて凛とした音が、ララナの胸の内でこだまするように。
ピリトに手招かれ、ララナは三人の元へ歩み寄る。最初にピリトが大樹の幹の元に腰を下ろし、他の三人もそれにならって座った。
「まず、ディレスに謝らなくちゃいけないわね。ごめんなさい」
ピリトは頭を下げる。ディレスはわけが分からないといった風情で彼女を見つめた。
「ララナさんにもご迷惑をおかけしたみたい。ごめんなさいね」
はあ、とララナの口から間の抜けた返事が出た。
「ことの始まり、馬鹿な私の恥さらしから始めるわね」
ピリトはディレスとララナの困惑とは正反対の落ち着きを見せて、微笑みながら一同を見回し、話し出した。
「私の仕事は草木として生きる生き物全ての統率。彼らに指示を出し、彼らを育む。とはいえ、育つのは彼ら自身で、私はそれを少し手助けするだけなのだけれどね」
苦笑するピリトの声は軽い鈴みたいだ。
「昨年の祭りが終わってから、私、妙に張り切ってしまって。みんなに力をあげすぎてしまったのよ。自分の力のほどをちゃんと分かっていなかったから、後のことを考えられていなかったの。だから森の中も外も、果実や葉っぱたちはよく育ってくれて、みんなで大喜びしたの」
「あ、みんな言ってました。今年は作物も森の果物もよく獲れて、町の人たちはすごく喜んではしゃいでるって」
そう、とピリトは頷く。
「私、力を使い過ぎちゃって、一年の最後の方——私たちの一年なので、祭りの前ね——生き物たちの統率が大変で。それに人々の活気がすごく強くて。人々の気持ちは精に伝わるのよ。私も本来なら、少しくらい力が足りなくても大丈夫なのだけれど、今年は人間たちの活気が色んな精に伝わってしまってね」
ララナは直感した。
「陽の精にも?」
「そう。暑かったでしょう。それでね、私を助けてくれる子たちまでまいっちゃって」
ピリトは肩をすくめた。
「聖花が枯れたのか? なるほどね。だからここに一つも咲いていないのか」
「聖花?」
「町で飾りに使う花だよ。本来なら森の中にも咲いている」
ララナの問いに答えたのはトゥレットだった。
「事は二段階だったわ」
続きをピリトが話す前に、トゥレットが先を継いだ。
「いつになく多く咲き誇った聖花だったから、大喜びした人間たちが森の入り口近くに咲いているのを飾りのために全部取っていってしまったんだ」
少し怒ったような、苛立ったような声だ。やっぱり変だとララナは思ったが、ピリトはただ笑って説明を続けた。
「みんなが喜んでくれたことそれ自体は嬉しかったのだけれど……活発になった陽の精の力によって、この広場の聖花も全部枯れてしまったの。それだけではなくて、人間たちの気持ちが精に伝わるのと同じで、力を増した色んな精たちの想いが人にも伝染してしまったのよね。明るい星の精や前向きな朝露の精だけならいいのだけれど、ちょっと落ち込み気味な土の精も、心配性な雨の精も、たまに癇癪起こしちゃう嵐の精も」
自然の精たちの昂った気持ちは、人間たちの心に影響する。人々は喜び、積極的になるだけではなく、ちょっとしたことで不安になったり、泣きそうになったりしてしまう。
言葉を切ってから、ピリトは折った膝を軽く抱えた。きらめく布がふわりと揺れて、微風がピリトの髪を撫でる。
「人も自然もお互いの様子に敏感に反応してしまうの。それくらい、人と自然は近いのよ」
「なるほど、です」
そういえばここのところ、わけもわからず腹が立ってくることが多かったかも、とララナは思い返す——怒ってしまうのを自然のせいにしてはいけない気がするけど、と反省もしながら。
しかし力が過剰になってしまった状態では、トティーナの町の均衡がどんどん崩れてきてしまう。普通ならば精霊が自然に呼びかけて均衡を取り戻すのだが、その力もピリトには残っていなかった。
「本来、私は力が足りなくなったら、聖花から力を分けてもらうのだけれど、それもできなくて」
森の精霊は森から出ることはできない。ピリトは意識を自分の分裂体として森の外へ飛ばした。聖花が残っているところを探したが、全て町中の飾りに使われてしまっている。そのために枝から離されてしまって、花の力は半減していた。
「ララナさんのお店の前も通ったのよ。びっくりしたわ。ディレスと、私にそっくりな人間がいて」
人間の中には天使や精霊と魂を分かち持って生まれてくる者がいる。魂に共通項が少しでもあれば、精霊や天使と引き合うはずだ。意識体だけでは声をかけることができないが、運良く森まで来てくれれば、と希望を持った。
「結局、森まで戻ってきたら意識体を飛ばす力も回復しなくてね。魂の引力も足りなかったかもって、ほぼ絶望的だったところにトゥレットが来たの」
ララナは驚いてトゥレットの方へ首をぐるんと回した。まんまるの目で凝視されて、トゥレットはためらいがちながらも口を開く。
「市場に食材を取りに行くところだったんだ。肉が手に入らなくなってたから、森のことちょっと気になって。森の入り口まで近づいてみたんだ。そしたら、ピリトに呼ばれた。で、俺は風の精に押されて、この広場に辿り着けた」
「トゥレットに助力を頼んだの。そして、私に人間の汚れを与えないように、彼に呪を施したわ。でも、その呪はすごく強いから、施すのに制約が必要だったのだけれどね」
ララナとディレスは、揃って首を傾げた。ピリトは真剣な面持ちで、両手の人差し指をそっと交差する。
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