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第1章 男子校は妄想の宝庫
第2話 姉の本棚から、世界が変わった
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帯の煽り文って、だいたい強い。
『絶対に逃がさない――この腕の中から』
いや、逃がす逃がさない以前に、まず状況説明をしろ。とツッコミたいのに、ページを開いた瞬間、そんな理性は簡単に溶ける。
目が合う。息が止まる。距離が詰まる。言葉が落ちる。
(……あ、これ……脳が焼けるやつだ)
たった数行で心拍が上がる。
自分が読者として一番ダメなタイプだと分かっている。分かっているのに、指が止まらない。
――いや、違う。違う違う。
これは現実じゃない。趣味だ。安全地帯だ。
俺は本を閉じて、机の上に伏せた。息を吐く。
それだけで落ち着くはずだったのに、今日に限って妙に胸がざわついているのは、たぶん入学初日の情報量が多すぎたせいだ。
男子校。尊い素材。脳内カップリング。
そして姉からの「貸したいものがある」というメッセージ。
「伊織ー。いる?」
ノックもそこそこに、ドアが開いた。
朝倉朱里。俺の姉。大学生。筋金入りの腐女子。俺の平穏を、割と軽率に揺らす人。
「はいはい。入学おめでとうございます、弟」
朱里は紙袋を抱えて、俺の部屋に入ってきた。
勝手知ったる他人の領域みたいな顔で椅子を引き、座る。
「ねえ。新学期祝い、っていう名目、便利だよね」
「やめろ。名目とか言うな」
「褒めてるの。で、貸したいもの」
紙袋から、丁寧に包装された一冊が出てくる。
見慣れたサイズ、見慣れた背表紙の厚み。嫌な意味で。
「……ねえ。これ、何」
俺が警戒した声を出すと、朱里はにっこり笑った。
「安心して。表紙は控えめ。帯もね、過激じゃないやつ選んだ」
「控えめって何の安心なんだよ」
「入門にも優しいし、情緒もある。今の伊織にちょうどいい」
「俺、別に今、何にも求めてないけど」
「求めてなくても、物語は君を求める」
朱里は真顔で言い切った。言い切るな。
俺はその本を受け取って、裏表紙を見る。帯の文言が目に入る。
『触れた瞬間、世界が変わる――』
うるさい。世界は変わらなくていい。
でも、たぶん、変わる。
朱里がこういう本を渡す時は、俺が断れないのを知っている。というか、俺が心のどこかで楽しみにしているのも、たぶん見抜いている。
――そもそも、俺がBLに足を踏み入れたのは、姉のせいだ。
小学生の頃から、朱里の部屋は「立ち入り禁止」だった。
正確には禁止されていない。朱里はそういうことをしない。
ただ、俺が勝手に遠慮していただけだ。
中学に上がった頃だったと思う。
朱里が友達と電話で笑いながら言っていた。
「いや、ほんと“攻めの執着”がさ……最高なんだって」
意味が分からなくて、気になって、朱里の部屋の前で立ち止まった。
その時、朱里がうっかり扉をきちんと閉めていなかった。
俺は、最悪なタイミングで、最悪な好奇心を起動させた。
机の上に積まれていた本。カラフルな背表紙。
その中の一冊が、少しだけ引き出しの端からはみ出していて――俺は、ほんの出来心で、それを手に取った。
(漫画……?)
表紙に描かれた男二人。距離が近い。やたら近い。
俺は「何これ」と思いながらページをめくった。
次の瞬間、俺の脳内で、何かがバチッと音を立てた気がした。
――目が合う。
息が詰まる。
触れそうで触れない指先。
そして、言葉が落ちる。
『……お前、俺のこと好きだろ』
心臓が跳ねた。
訳が分からないのに、続きを読みたい。
(いや、いやいやいや……)
慌てて本を閉じた。閉じたのに、頭の中がうるさい。
それまで「恋愛漫画」といえば男女しか知らなかった俺の世界に、別の扉が開いた。
数日後、俺は本屋で同じ棚を探していた。
誰にも見られたくなくて、周囲を気にして、手が震えるほど緊張して。
それでも、買ってしまった。
そして、買って読んで、完全に理解した。
(あ、これ。俺、好きなんだ)
“現実の恋愛”とは別物として。
人間関係の駆け引きとか、心情の熱とか、救いとか、執着とか。
そういう感情の濃さが、紙の上で炸裂するのが、たまらなく面白い。
最初は、朱里にバレたら死ぬと思っていた。
でも、結局、最悪の形でバレた。
中学二年のある日、俺は買った本を布団の下に隠していた。
……隠していたつもりだった。
「伊織」
朱里が俺の部屋のドアから顔を出して、静かに言った。
「その隠し方、雑すぎない?」
俺はその場で固まった。
時間が止まった。人生が終わった。と思った。
でも、朱里は笑わなかった。からかわなかった。
ただ、少しだけ目を丸くしてから、ふっと息を吐いた。
「……あー。そっちに来たか」
「そっちって何」
「安心しな。私、口固いから。むしろ、仲間だね」
「仲間とか、言うな」
そう言いながら、俺は、ほんの少しだけ救われた。
その日から朱里は、俺の趣味に踏み込みすぎず、でも必要な時にだけ良作を勧めてくるようになった。
だから今も、朱里は俺の安全地帯だ。
学校では隠す。家では、少しだけ呼吸ができる。
「で、入学初日どうだった?」
朱里が頬杖をついて聞いてくる。
俺は曖昧に笑って、適当に答えた。
「普通。……まあ、男子校って感じ」
「ふーん。素材いた?」
「言い方」
「いたんだ」
朱里がニヤッとする。
俺は溜息をついて、机の引き出しを開けた。
今日からの対策を考えないといけない。
男子校で、俺が“腐男子”だとバレたら――それは俺の精神が終わる。
「学校には持っていかない。絶対に」
「偉い」
「スマホも危ないから、検索履歴と閲覧履歴は消す。おすすめ表示も切る」
「現代的だね」
「あと、ブックカバー必須。タイトル見られたら終わる」
俺が真剣に言うと、朱里は楽しそうに笑った。
「伊織、妙に現実的だよね。そこが好き」
「褒めてないだろ」
「褒めてる褒めてる。自衛できる腐男子は強い」
朱里はそう言って、机の上の本を指でトントンと叩いた。
「で。これ、感想聞かせて」
「まだ読んでない」
「今日の夜には読んでるでしょ」
未来を確定させるな。
でも朱里の言う通り、俺はたぶん今夜読む。
俺が本を紙袋に戻して、机の引き出しの奥にしまおうとした時――
玄関のチャイムが鳴った。
朱里が「ん?」と眉を上げる。
次の瞬間、廊下から母の声が聞こえた。
「伊織、朔くん来たよー」
来た。
最悪のタイミングで。
朔は隣家だから、こういうのは普通だ。
普通なんだけど、今日は“普通”で済ませたくないものがある。
(隠せ。今すぐ)
俺は反射的に引き出しを閉めた。
朱里が口元を押さえて笑っている。
「わー。青春の匂い」
「違う。匂わせるな」
ドアがノックされる。
「伊織。入っていい?」
朔の声は、いつも通り落ち着いている。
俺はできるだけ平静を装って返した。
「……どうぞ」
ドアが開いて、朔が顔を出した。
制服のまま。入学式帰りのまま。きっと、帰宅してすぐ来たのだろう。
「入学式、お疲れ。……これ、忘れてた」
朔が差し出したのは、俺の式次第の紙だった。
体育館で持っていたやつ。いつの間に。
「え、俺落とした?」
「落とした。気づいてない」
「……ありがとう」
「ほんと、昔から抜けてる」
淡々と言いながら、朔は俺の机の上を一瞬見た。
紙袋は隠した。引き出しも閉めた。机の上は――比較的安全。
朔は朱里の存在に気づいて、軽く会釈した。
「朱里さん」
「朔くん、入学おめでとう。はい、いい子」
朱里は勝手に朔を褒めた。
朔は困ったように笑う。こういうやりとりも、昔から変わらない。
朔が俺の方に視線を戻す。
「……伊織、さっき何してた?」
俺は一瞬だけ固まった。
やめろ。そういう普通の質問が、今日に限って怖い。
「別に。片付け」
「ふーん」
朔は深追いしない。
しないのに、俺の心臓だけが勝手にうるさい。
(落ち着け。朔はただの幼馴染。俺の趣味なんて知らない。知らなくていい)
朱里が、わざとらしく咳払いをした。
「伊織~。さっきの話の続きしよっか。感想戦」
「しない」
即答すると、朔が「感想?」と首を傾げた。
まずい。朱里、余計な単語を出すな。
俺は慌てて言い足す。
「えっと、入学式の……感想。学校の」
「入学式の感想戦って何」
朔のツッコミが真っ当すぎて、俺はむしろ黙るしかなかった。
朱里がにやにやしたまま、立ち上がる。
「あー、じゃあ私は退散します。伊織、あとでね」
「余計なこと言うなよ」
「言ってない言ってない。ね、朔くん?」
「……はい?」
朔が困惑したまま、朱里が部屋を出ていく。
ドアが閉まって、俺と朔だけが残った。
沈黙が落ちる。
俺は必死で平常心を探した。
「で、用事それだけ?」
「うん。あと――」
朔が言いかけて、少しだけ間を置いた。
「……伊織、今日、楽しそうだったな」
「は?」
「いや。変な意味じゃなくて」
朔はすぐに言い直した。
俺は肩をすくめて誤魔化す。
「普通だって。男子校だし、素材が――」
口が滑りかけて、俺は飲み込んだ。
危ない。素材とか言うな。バレる。
「……素材?」
朔の眉がわずかに動く。
俺は笑って誤魔化すしかなかった。
「いや、なんでもない。人が多かったってこと」
「……ふーん」
朔は納得したのかしてないのか分からない顔で頷いた。
それ以上は聞いてこない。
――聞いてこないのに、聞かれた気がする。
自分の秘密が、薄い紙一枚の向こうにある気がして、落ち着かない。
朔が帰り支度をする。
「じゃあ、俺、戻る」
「うん」
ドアのところで朔が振り返った。
「……何読んでた?」
心臓が一回、嫌な跳ね方をした。
――見られた?
引き出し、開いてた?
紙袋、どこかに?
俺は頭の中で必死に状況を巻き戻す。
でも朔の顔は、ただの疑問の顔だ。興味本位でも、責めてもいない。
だからこそ、余計に怖い。
「……えっと」
俺は咄嗟に言った。
「今日もらった、冊子。ほら、学校で」
「それ、読んでたの?」
「読んでた。うん。真面目だから」
朔は一瞬だけ黙ってから、小さく笑った。
「伊織が?」
「何その間」
「いや。まあ、いいや」
朔はそれ以上何も言わずに、廊下へ出ていった。
ドアが閉まる。
俺は息を吐いて、膝の力が抜けそうになる。
(……危なかった)
バレたわけじゃない。
何も見られてない。
ただ、聞かれただけ。普通の会話。
でも。
(こういうの、いつか隠しきれなくなる気がする)
俺は机の引き出しを開けて、奥にしまった本を確認した。
そこにあるのを見て、安心するはずなのに――不安の方が先に来る。
学校では絶対に秘密。
家でも油断しない。
朔には、特に。
そう決めたはずなのに、今日一日で、早くも綻びが出かけている。
俺は自分に言い聞かせるみたいに、引き出しを静かに閉めた。
――大丈夫。これは趣味だ。
現実とは関係ない。
絶対に。
そう思ったまま、俺は夜に読むはずのページを、まだ開いていない本の重さだけで想像していた。
『絶対に逃がさない――この腕の中から』
いや、逃がす逃がさない以前に、まず状況説明をしろ。とツッコミたいのに、ページを開いた瞬間、そんな理性は簡単に溶ける。
目が合う。息が止まる。距離が詰まる。言葉が落ちる。
(……あ、これ……脳が焼けるやつだ)
たった数行で心拍が上がる。
自分が読者として一番ダメなタイプだと分かっている。分かっているのに、指が止まらない。
――いや、違う。違う違う。
これは現実じゃない。趣味だ。安全地帯だ。
俺は本を閉じて、机の上に伏せた。息を吐く。
それだけで落ち着くはずだったのに、今日に限って妙に胸がざわついているのは、たぶん入学初日の情報量が多すぎたせいだ。
男子校。尊い素材。脳内カップリング。
そして姉からの「貸したいものがある」というメッセージ。
「伊織ー。いる?」
ノックもそこそこに、ドアが開いた。
朝倉朱里。俺の姉。大学生。筋金入りの腐女子。俺の平穏を、割と軽率に揺らす人。
「はいはい。入学おめでとうございます、弟」
朱里は紙袋を抱えて、俺の部屋に入ってきた。
勝手知ったる他人の領域みたいな顔で椅子を引き、座る。
「ねえ。新学期祝い、っていう名目、便利だよね」
「やめろ。名目とか言うな」
「褒めてるの。で、貸したいもの」
紙袋から、丁寧に包装された一冊が出てくる。
見慣れたサイズ、見慣れた背表紙の厚み。嫌な意味で。
「……ねえ。これ、何」
俺が警戒した声を出すと、朱里はにっこり笑った。
「安心して。表紙は控えめ。帯もね、過激じゃないやつ選んだ」
「控えめって何の安心なんだよ」
「入門にも優しいし、情緒もある。今の伊織にちょうどいい」
「俺、別に今、何にも求めてないけど」
「求めてなくても、物語は君を求める」
朱里は真顔で言い切った。言い切るな。
俺はその本を受け取って、裏表紙を見る。帯の文言が目に入る。
『触れた瞬間、世界が変わる――』
うるさい。世界は変わらなくていい。
でも、たぶん、変わる。
朱里がこういう本を渡す時は、俺が断れないのを知っている。というか、俺が心のどこかで楽しみにしているのも、たぶん見抜いている。
――そもそも、俺がBLに足を踏み入れたのは、姉のせいだ。
小学生の頃から、朱里の部屋は「立ち入り禁止」だった。
正確には禁止されていない。朱里はそういうことをしない。
ただ、俺が勝手に遠慮していただけだ。
中学に上がった頃だったと思う。
朱里が友達と電話で笑いながら言っていた。
「いや、ほんと“攻めの執着”がさ……最高なんだって」
意味が分からなくて、気になって、朱里の部屋の前で立ち止まった。
その時、朱里がうっかり扉をきちんと閉めていなかった。
俺は、最悪なタイミングで、最悪な好奇心を起動させた。
机の上に積まれていた本。カラフルな背表紙。
その中の一冊が、少しだけ引き出しの端からはみ出していて――俺は、ほんの出来心で、それを手に取った。
(漫画……?)
表紙に描かれた男二人。距離が近い。やたら近い。
俺は「何これ」と思いながらページをめくった。
次の瞬間、俺の脳内で、何かがバチッと音を立てた気がした。
――目が合う。
息が詰まる。
触れそうで触れない指先。
そして、言葉が落ちる。
『……お前、俺のこと好きだろ』
心臓が跳ねた。
訳が分からないのに、続きを読みたい。
(いや、いやいやいや……)
慌てて本を閉じた。閉じたのに、頭の中がうるさい。
それまで「恋愛漫画」といえば男女しか知らなかった俺の世界に、別の扉が開いた。
数日後、俺は本屋で同じ棚を探していた。
誰にも見られたくなくて、周囲を気にして、手が震えるほど緊張して。
それでも、買ってしまった。
そして、買って読んで、完全に理解した。
(あ、これ。俺、好きなんだ)
“現実の恋愛”とは別物として。
人間関係の駆け引きとか、心情の熱とか、救いとか、執着とか。
そういう感情の濃さが、紙の上で炸裂するのが、たまらなく面白い。
最初は、朱里にバレたら死ぬと思っていた。
でも、結局、最悪の形でバレた。
中学二年のある日、俺は買った本を布団の下に隠していた。
……隠していたつもりだった。
「伊織」
朱里が俺の部屋のドアから顔を出して、静かに言った。
「その隠し方、雑すぎない?」
俺はその場で固まった。
時間が止まった。人生が終わった。と思った。
でも、朱里は笑わなかった。からかわなかった。
ただ、少しだけ目を丸くしてから、ふっと息を吐いた。
「……あー。そっちに来たか」
「そっちって何」
「安心しな。私、口固いから。むしろ、仲間だね」
「仲間とか、言うな」
そう言いながら、俺は、ほんの少しだけ救われた。
その日から朱里は、俺の趣味に踏み込みすぎず、でも必要な時にだけ良作を勧めてくるようになった。
だから今も、朱里は俺の安全地帯だ。
学校では隠す。家では、少しだけ呼吸ができる。
「で、入学初日どうだった?」
朱里が頬杖をついて聞いてくる。
俺は曖昧に笑って、適当に答えた。
「普通。……まあ、男子校って感じ」
「ふーん。素材いた?」
「言い方」
「いたんだ」
朱里がニヤッとする。
俺は溜息をついて、机の引き出しを開けた。
今日からの対策を考えないといけない。
男子校で、俺が“腐男子”だとバレたら――それは俺の精神が終わる。
「学校には持っていかない。絶対に」
「偉い」
「スマホも危ないから、検索履歴と閲覧履歴は消す。おすすめ表示も切る」
「現代的だね」
「あと、ブックカバー必須。タイトル見られたら終わる」
俺が真剣に言うと、朱里は楽しそうに笑った。
「伊織、妙に現実的だよね。そこが好き」
「褒めてないだろ」
「褒めてる褒めてる。自衛できる腐男子は強い」
朱里はそう言って、机の上の本を指でトントンと叩いた。
「で。これ、感想聞かせて」
「まだ読んでない」
「今日の夜には読んでるでしょ」
未来を確定させるな。
でも朱里の言う通り、俺はたぶん今夜読む。
俺が本を紙袋に戻して、机の引き出しの奥にしまおうとした時――
玄関のチャイムが鳴った。
朱里が「ん?」と眉を上げる。
次の瞬間、廊下から母の声が聞こえた。
「伊織、朔くん来たよー」
来た。
最悪のタイミングで。
朔は隣家だから、こういうのは普通だ。
普通なんだけど、今日は“普通”で済ませたくないものがある。
(隠せ。今すぐ)
俺は反射的に引き出しを閉めた。
朱里が口元を押さえて笑っている。
「わー。青春の匂い」
「違う。匂わせるな」
ドアがノックされる。
「伊織。入っていい?」
朔の声は、いつも通り落ち着いている。
俺はできるだけ平静を装って返した。
「……どうぞ」
ドアが開いて、朔が顔を出した。
制服のまま。入学式帰りのまま。きっと、帰宅してすぐ来たのだろう。
「入学式、お疲れ。……これ、忘れてた」
朔が差し出したのは、俺の式次第の紙だった。
体育館で持っていたやつ。いつの間に。
「え、俺落とした?」
「落とした。気づいてない」
「……ありがとう」
「ほんと、昔から抜けてる」
淡々と言いながら、朔は俺の机の上を一瞬見た。
紙袋は隠した。引き出しも閉めた。机の上は――比較的安全。
朔は朱里の存在に気づいて、軽く会釈した。
「朱里さん」
「朔くん、入学おめでとう。はい、いい子」
朱里は勝手に朔を褒めた。
朔は困ったように笑う。こういうやりとりも、昔から変わらない。
朔が俺の方に視線を戻す。
「……伊織、さっき何してた?」
俺は一瞬だけ固まった。
やめろ。そういう普通の質問が、今日に限って怖い。
「別に。片付け」
「ふーん」
朔は深追いしない。
しないのに、俺の心臓だけが勝手にうるさい。
(落ち着け。朔はただの幼馴染。俺の趣味なんて知らない。知らなくていい)
朱里が、わざとらしく咳払いをした。
「伊織~。さっきの話の続きしよっか。感想戦」
「しない」
即答すると、朔が「感想?」と首を傾げた。
まずい。朱里、余計な単語を出すな。
俺は慌てて言い足す。
「えっと、入学式の……感想。学校の」
「入学式の感想戦って何」
朔のツッコミが真っ当すぎて、俺はむしろ黙るしかなかった。
朱里がにやにやしたまま、立ち上がる。
「あー、じゃあ私は退散します。伊織、あとでね」
「余計なこと言うなよ」
「言ってない言ってない。ね、朔くん?」
「……はい?」
朔が困惑したまま、朱里が部屋を出ていく。
ドアが閉まって、俺と朔だけが残った。
沈黙が落ちる。
俺は必死で平常心を探した。
「で、用事それだけ?」
「うん。あと――」
朔が言いかけて、少しだけ間を置いた。
「……伊織、今日、楽しそうだったな」
「は?」
「いや。変な意味じゃなくて」
朔はすぐに言い直した。
俺は肩をすくめて誤魔化す。
「普通だって。男子校だし、素材が――」
口が滑りかけて、俺は飲み込んだ。
危ない。素材とか言うな。バレる。
「……素材?」
朔の眉がわずかに動く。
俺は笑って誤魔化すしかなかった。
「いや、なんでもない。人が多かったってこと」
「……ふーん」
朔は納得したのかしてないのか分からない顔で頷いた。
それ以上は聞いてこない。
――聞いてこないのに、聞かれた気がする。
自分の秘密が、薄い紙一枚の向こうにある気がして、落ち着かない。
朔が帰り支度をする。
「じゃあ、俺、戻る」
「うん」
ドアのところで朔が振り返った。
「……何読んでた?」
心臓が一回、嫌な跳ね方をした。
――見られた?
引き出し、開いてた?
紙袋、どこかに?
俺は頭の中で必死に状況を巻き戻す。
でも朔の顔は、ただの疑問の顔だ。興味本位でも、責めてもいない。
だからこそ、余計に怖い。
「……えっと」
俺は咄嗟に言った。
「今日もらった、冊子。ほら、学校で」
「それ、読んでたの?」
「読んでた。うん。真面目だから」
朔は一瞬だけ黙ってから、小さく笑った。
「伊織が?」
「何その間」
「いや。まあ、いいや」
朔はそれ以上何も言わずに、廊下へ出ていった。
ドアが閉まる。
俺は息を吐いて、膝の力が抜けそうになる。
(……危なかった)
バレたわけじゃない。
何も見られてない。
ただ、聞かれただけ。普通の会話。
でも。
(こういうの、いつか隠しきれなくなる気がする)
俺は机の引き出しを開けて、奥にしまった本を確認した。
そこにあるのを見て、安心するはずなのに――不安の方が先に来る。
学校では絶対に秘密。
家でも油断しない。
朔には、特に。
そう決めたはずなのに、今日一日で、早くも綻びが出かけている。
俺は自分に言い聞かせるみたいに、引き出しを静かに閉めた。
――大丈夫。これは趣味だ。
現実とは関係ない。
絶対に。
そう思ったまま、俺は夜に読むはずのページを、まだ開いていない本の重さだけで想像していた。
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