かわいい猛毒の子

蓮恭

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1. 無垢で小さな

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「ねぇ、カナちゃんずっと泣いてるよ」
「いいのいいの、少し泣かせた方がたくさん飲んでくれるから。たくさん飲ませて長い時間寝てもらわないと」
 
 とは言ってもカナちゃんの泣き声は徐々に掠れ声のようになっている。
 しかし、そうかと思えば息が詰まるんじゃないかと思うほど辛そうに大声で泣いたりもした。
 
「もういいんじゃないの? ミルクあげようよ」
「うるさいなぁ、そう言うなら伊織いおりがあげてよ。それでちゃんと寝かせてよね」
「分かったよ」
 
 洗面所で手洗いを済ませてから粉ミルクの缶、哺乳瓶、赤ちゃん用のポット……それらが置かれてある場所に向かう。
 
 カナちゃんはまだ懸命に泣いている。
 
 ベビーベッドの中で母親に放置されたまま、当の母親はくたびれた部屋着姿でそちらに背中を向け、スマホで出来るゲームに夢中だ。
 
「姉さん、粉ミルクの缶はちゃんと閉めないとダメだよ。虫とか埃とか入っちゃう」
「あー、ごめんごめん」
 
 チェストの上に置かれた缶の周りには、少し黄味がかった色に変色した粉ミルクが零れている。
 粉ミルクの量を計るためのスプーンは、半開きの缶の上に無造作に置かれたままだった。

 
「哺乳瓶は……」
 
 その場に見当たらなくてキッチンに向かう。
 哺乳瓶は消毒する為の容器に入りっぱなしでカウンターの上に置かれていた。
 電子レンジで消毒された様子の哺乳瓶を手に取った。洗い残しが無いか目視で確認する。

 一応大丈夫そうだ。

 一緒に消毒されていた乳首を取り付けようとして、その一部がカビているのに気付く。
 他の二つもどこかしらカビていた。一番マシな物を選び、試しに爪で強く擦ってみたがカビは取れない。
 
「可哀想に」
 
 きちんと使ってもらえない哺乳瓶に向かってか、それとも姪っ子のカナちゃんに向かって言ったのか。

 自分でも思わず零した言葉の意味など分からないまま、百二十ミリリットルのミルクを作った。
 
 まだ泣き続けていたカナちゃんはベビーベッドの中で手足をバタつかせている。

 ふと姉の方を見る。手入れもされていないパサついた髪は肩の長さに伸びっぱなし。
 以前はあれほど見た目にこだわっていたのに、近頃は面倒くさい気持ちの方が勝っているらしい。

 頬に掛かる髪の毛で表情が見えない姉は、相変わらずベビーベッドに背中を向けたまま、あやすことも声をかけることもせずにスマホでパズルゲームをしていた。
 
「ほら、ミルク飲もうね」
「あー、良かったねぇ香苗かなえ。いっちゃんがミルクくれるんだって」
 
 何だか他人事みたいにそう口にする姉へ向けた私の視線は、切れ味の良い理髪店の剃刀のように鋭く冷ややかなものだったけれど、終始スマホから目を離さない姉が気付くはずもない。
 
 この姉は昔からそうだ、何よりも自分。
 
 たとえ母親になっても、姉が子どもより自分の都合を優先するのは当然。それがおかしい事だとも思っていない。

 自分にとって都合がいい子育てや、どこかで聞き齧った中途半端な子育て知識を、その上また自分にだけ都合のいいようにアレンジして披露するのが姉だ。

 それを『子どもの為にしている』と堂々と言ってのけては、見ていて心配になった私からの忠告を無視する。
 自分勝手に幼いカナちゃんを扱っているようにしか思えず、腹が立つ事も多い。
 
「カナちゃん、ミルク飲もうね」
 
 抱き上げたのはぬいぐるみのように軽くて小さな赤ん坊の身体。
 まだ生まれて一ヶ月だけれど、我慢というものを何度も覚えさせられているカナちゃん。「出が悪いから」という理由で、母乳はとっくに与えられなくなっていた。


 たくさん飲ませないと、こまめに泣いて空腹を知らせるのが赤ん坊。姉はそれがひどく面倒なのだと、そばで見ていてすぐに分かった。

 母乳育児だと胸が張ったり痛んだりする事も嫌らしく、授乳という行為すら面倒くさいようだ。それにミルクならば、自分以外の人間でも与える事が出来るから。

 とにかく私が思う姉はそういう人だ。

 腕に抱いた姪っ子の小さな唇は規則的に動き、哺乳瓶に付けた乳首を懸命に吸う。
 カビがついていた乳首とも知らずに、泣き腫らした目を閉じて無邪気に吸い付くカナちゃんの口元は可愛かった。
 子ども嫌いの私でも、その光景には思わず頬が緩む。
 
「可愛いね、カナちゃん」
 
 思わずそんな言葉が口をつくほどに、私はこの小さな姪っ子が可愛かった。
 
「それならさ、伊織も母さんと一緒に香苗の面倒見てよ。二人いればどちらかは都合つくでしょ? 母さんも、伊織と二人なら休みも取れて楽できるだろうし」
「姉さんはどうするの?」
「私? 新しい勤め先探してるんだけど、香苗がいると夜勤とか出来ないじゃない? だからさ、伊織が休みの日とか仕事じゃない時間帯に母さんの子守りの手伝いしてあげてよ。それならみんなが都合いいよね」
 
 さも名案が思いついたというように明るく話す姉の方をチラリと見ると、相変わらずスマホの画面に夢中でこちらを見る事もせずに、指でスルスルと画面を撫でてしている。
 まだパズルゲームをやっているようだ。

 先程の提案だって、都合がいいのは姉と母親だけで、私にとっては姪っ子の成長が近くで見られるという点でしかメリットらしいメリットは無いのだが。そんな事、この姉には考えつかないのだろう。
 心の底からみんなが喜ぶ考えが思いついた、名案だと思っているのだから。
 
「別にいいよ。空いた時間だけなら」
「うん、ありがと。母さんにも言っておくね。また今月の勤務表コピーしておいて」
「今月から?」
「そうだよ。私だって早く働かないと生活厳しいし。新一しんいちの給料安いんだもん」
 
 新一というのは姉の夫で私にとっては義兄にあたるのだが、朝早くから夜遅くまで仕事をしている割には安月給らしい。
 造船所に勤めている新一とはカナちゃんが生まれた時以来会っていない。
 元々あまり親しくは無かったが、カナちゃんが生まれてからも姉の自己中心的な性格が独身の頃と変わっていないところを見て、それを許せる新一の事も苦手になった。
 
「保育園入れないの?」
「だってすっごく高いのよ、保育料。そんなの私が仕事する意味無くなっちゃう。母さんに頼めばタダじゃない。母さんだって初孫の世話をしたいだろうしね」
「そうなんだ」
「親孝行ってやつよ。やっと私も親孝行出来るわー。ずっとグチグチお父さんにも言われてきたけど、やっとね」
 
 保育園で子育てのプロである保育士に育ててもらった方が絶対にカナちゃんの為にはいいと思ったが、そんな事を姉に言えるはずもない。
 もし間違ってそんな事を口にすれば、またいつものようにヒステリックに叫ばれてしまう。

 私はミルクを飲み終えたカナちゃんの背中をさすってゲップを出してやった。
 ゲフッという音と共に、私のお気に入りの服の袖にミルクを吐いたが、別に腹も立たなかった。

 子どもは苦手だが、カナちゃんだけは特別だった。

 

 


 


 
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