かわいい猛毒の子

蓮恭

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2. 大人になってから困らないように

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 姪っ子を寝かしつけた後、姉から帰宅しても良いという許可が出た私は、姉夫婦のアパートから車で二十五分のところにあるマンションに戻った。

 玄関扉は今の私の心を映したような深い闇色で、気のせいかいつもより扉が重く感じた。
 大理石調のピカピカ光る玄関ホールは、姉の家の狭くて安っぽい玄関とは大違いだ。綺麗に整理整頓された清潔さも含めて。

 靴を脱ぎ、きちんと揃える。一連の動作は子どもの頃に母親から躾けられて身につけたもので、たとえ自宅だろうが出先だろうが同じようにする。
 
「ただいま」
「おかえりー。どうだった? 姪っ子の……カナちゃん、だっけ?」
 
 お気に入りの豆から挽いたコーヒーを飲みながらリビングでテレビを見ていた恋人の勇太は、私が帰るなり振り返って尋ねた。
 
「ああ、相変わらず姉さんはカナちゃんを放置してたよ」
「可哀想になぁ。あんなに可愛いのに」
 
 勇太は私がスマホに保存しているカナちゃんの画像を何度も見ているから、子ども好きも相まって、そのような環境に置かれた子どもに同情しているのだろう。
 
「うん。ミルクあげたりオムツ変えたりしてきたけど、姉さんはずっとスマホでゲームしてたよ。それに、近々仕事に行き始めるからカナちゃんは実家に預けるんだって」
「え? 保育園とかは? あ……でも、待機児童とかでなかなか入れないのかなぁ」
「保育料がすごく高いから、私と母親で協力して面倒を見ろってさ」
「はは……相変わらずなんだね」
 
 力無く笑った勇太に、私は両手を広げて抱擁を強請った。ムカムカする胸の悪さを何とかして欲しくて。
 
 勇太はすぐにソファーから立ち上がり、そばに来て優しく抱き締めてくれた。
 背が高くガッチリと逞しい勇太の身体からフワリと香るコーヒーの匂いだって、姉さんのところで出されたインスタントコーヒーとはまるで違う。
 
 姉さんと私は違う。

 些細な事でさえその違いを見つけ、その都度自分に言い聞かせていた。
 
「勇太、いつか子ども……欲しい?」
「んー、俺にとっては伊織が俺のそばに居てくれるのが一番。子どもは……どうかな? 今はまだ具体的に考えられないかな」
「そっか」
 
 勇太はとても優しいから、自分が子ども好きだという事を最近は言わなくなった。
 出会った頃にはそんな話もよくしていたし、具体的に話し合った事もある。うちの両親はひどく頭が固い人たちで、姉が勝手に出来ちゃった婚をしてしまった事を未だにグチグチと言うものだから、私は勇太という恋人のことを家族に話せずにいた。
 色々と横から好き勝手な事を言われるのは面倒だ。
 
「勇太のことが好きだよ」
「俺も伊織が好きだよ。せっかくの休みだったのに、慣れないカナちゃんのお世話で疲れたんじゃない? 夕飯は俺が作るよ」
「うん、ありがとう」
 
 家族には伝えていないけれど、このマンションには勇太と二人で暮らしている。
 彼とはもう二年の付き合いで、はじめはお互い別々に住んでいたけれど、少しでも一緒に過ごせる時間を作りたいと思って半年前から同棲を始めたのだった。
 
「あ、伊織。明日の勤務は何だっけ?」
「明日は夜勤。だから夕飯作って仕事に行くよ」
「ありがとう。じゃあ今日は俺が美味しいオムライス作ってくるから、待っててね」
 
 そう言って優しく励ますように、私の背中をポンポンと二度叩いてから彼は離れて行った。
 と、そこで姉に勤務表をコピーしておけと言われたことを思い出す。自分の思い通りに人を管理しようとするのは昔からで、自分の為ならば人は喜んで動くと思っている節さえある。
 
 聞いたところによれば、当時の母は初めての子だった姉をとにかくのびのび育てようと決めたらしい。
 
 そしてそれは小学校の教員をしていた父が、『ゆとり教育』という言葉をよく使っていたからだという。
 ゆとり教育イコールのびのびと自由にさせるという訳では決してないと思うけれど、世間知らずなところのある母はそのまま言葉の通りに捉えたのだ。
 
 そこで出来上がったのがあのナチュラルに自己中心的な姉である。
 
 ある時期から母親は自分の過ちに気付き、慌てて姉の育て方を変えようとしたというが、もはや手遅れで方針転換は意味をなさなかった。もう既に、あの姉という人格は完全に出来上がっていたのだ。
 
 そのせいもあって五歳差で生まれた私は、姉とは反対に厳しく育てられた。
 当時の両親は「大人になってから困らないように」が口癖で。けれどもきっとそれは「年老いた時に自分達が困らないように」の裏返しだったのだと思う。

 とにかく姉で失敗した事を私で修正しようと必死だったのだろう。姉が同じ事をしても怒られないのに、私がすれば怒られるという理不尽な事も非常に多かった。
 両親は既に五年間のびのびと育てた姉に対しては諦めがあったのだと思う。「詩織お姉ちゃんに言ってもねぇ……」と言っては、すぐさま私に「伊織はあんな事をしちゃダメよ」と言い聞かせた。
 
 ある日の姉がアニメか漫画の影響で自分の事を「あたし」と呼ぶようになれば、「もう詩織ったら……『あたし』だなんて。伊織、自分の事をあたしって言うのはダメよ。『わたし』、だからね。大人になってから困らないようにしなきゃ」と注意される。
 同じ両親から生まれたのに、姉と私は全く違う躾を施されたのだ。
 
「伊織、夕飯できたよ」
 
 ソファーに腰掛けたままで、いつの間にか記憶と思考に囚われていた私に、同棲することになってから一緒に選んだ茶色のエプロンを身に付けた勇太が優しく声を掛けてくれる。
 家事全般が得意な勇太の手料理はとても美味しい。
 
「ありがとう。いい匂い……お腹空いたな」
「伊織の好きなふわっふわのオムライスだよ。今日はデミグラスソースにしてみた」
「いいね。ありがとう勇太」
 
 私は幸せだ。今が幸せなのは両親の「大人になってから困らないように」教育のお陰なのだろうか。

 
 

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