かわいい猛毒の子

蓮恭

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3. 自己流の母

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 私と同じ看護師免許を持つ姉は、結局給料に重きを置いたのか、夜勤有りの正社員として働き始めた。
 
 夜勤の有無で収入はかなり変わってくるからとはいえ、まだ生後三ヶ月の娘がいながらよくもまぁそんな就職先を選んだものだ。
 幸い産後の肥立ちが良いとはいえ、就職先も何も言わなかったのだろうか。完全に母と私を子守り要員として頼るつもりだと思って、分かってはいたが改めて言われると心底うんざりした。
 
「あら、今日は伊織もいたの? それなら母さんも少しは楽できて良かったね。じゃあ宜しく。もしかしたら明日の朝は眠いから寝てるかも知れないけど、昼には迎えに来るから」
 
 悪意が無い言葉にいちいち腹が立つのはエネルギーの無駄遣いだと分かっている。
 常に自分の事しか考えていない姉は、私が同じ看護師という事はもちろん、今日は夜勤明けだなんて事も渡している勤務表で知っている癖に、平気でこのような言葉を宣うのだ。
 
「はいはい、気をつけてね。夜勤頑張って」
「うん。じゃあね香苗、ママ頑張って稼いでくるねー」
 
 実家の玄関で忙しなくカナちゃんに別れを告げる姉は、日勤に慣れたからと夜勤にも入るようになったらしい。
 その際には夕方から家を出て早くても翌朝、姉が眠いと言えば昼くらいまでカナちゃんを預かる事になる。流石に乳飲子を一人で預かるのに疲れた母が、姉の夜勤三回目にして私にヘルプを頼んだのだ。
 
「はぁー……困ったわねぇ。まだカナちゃんも小さいのに、こう頻繁に夜勤があるとさすがにお母さんも疲れちゃうわ。今日は伊織がいてくれるから助かるけれど」
「日中は保育園に入れるように姉さんに言ったら? 夜勤だって、夜は新一さんにカナちゃんを見て貰えばいいんじゃないの?」
「うーん、でもねぇ。新一さん、仕事で帰るのも遅いみたいだし、それから赤ちゃんの世話なんて出来ないでしょう? それに……ね、新一さんには子どもの躾とかきちんと出来ないだろうし。保育園は詩織がどうしても入れたくないって言うのよ」
 
 新一は父子家庭で育ち、高校卒業後すぐに造船業の溶接工として就職した。本人の性格は良く言えば明るくて人当たりが良いといったところ。
 けれど本当に申し訳ないが、あまり頭が切れる人では無いと思う。まずあの姉と出来ちゃった婚をするというのがその証拠だ。
 幸いにも夫婦仲は良いみたいだけど、カナちゃんの事に関して新一がどう考えているのか、聞いた事はない。まぁきっとそんな事を聞く機会なんて、私には訪れないのだろうけど。
 
「それにしても、今日は伊織が来てくれたから助かったわ。もうね、さすがにお母さん疲れちゃって。だって毎日でしょう? いくら初孫が可愛いからと言ってもこの歳で赤ちゃんのお世話は大変」
 
 それなら断ればいいのに、と思うけれど母はそんな事をしない。断るより先に私に助けを求めるのだ。
 こうして姉の我儘は大抵通ってしまう。最終的に私の何かを犠牲にして。
 
「カナちゃん、今日はバァバといっちゃんと一緒ですよー」
 
 出かける用事もないのに、相変わらずきちっとした身だしなみの母に抱かれたカナちゃんはご機嫌で、今日は私が買い与えたピンクの花と鳥柄のスタイをしている。
 近頃は涎が沢山出てスタイも常に少し湿っている状態だ。洗い替えのスタイを増やしてあげてもいいかも知れない。
 どうせ姉は自分と新一の服ばかり買って、カナちゃんの衣服は両親や私が買い与えた物くらいしかないのだから。

 姉がそんなだから、自然と私はカナちゃんの使えそうな物を見つけてはついつい買ってしまう癖がついた。勇太と二人でああでもない、こうでもないと選んだりして、自分達の子どもの物を選んでいる気になっている事もある。

 そんな幸せな時間を与えてくれるカナちゃんと長く過ごすようになって、私は以前よりももっと可愛いと思うようになっていた。
 私にも母性というものがあれば、この感情がそうなのかも知れない。
 
「あ、あと十五分したらミルクを飲まないとね。それが終わったらオムツ交換」
 
 母がそう言った時、カナちゃんがグズグズと泣き出した。眉間に皺を寄せて赤い顔をしては「えええっ」というような甲高い声を出して泣く。
 
「お腹空いたんじゃないの?」
「でも、ミルクは十七時って決めてるの。オムツは十八時、お風呂は二十時」
「そんな細かく時間で決めなくても、カナちゃんが泣いた時にあげればいいのに」
「きちんと時間で動く癖をつけているのよ。海外ではよくある方法らしいの。大人になってから困らないように」
 
 ああ、またこれだ。『大人になってから困らないように』。

 元は裕福な家庭から見合いで嫁いで来た母。働いた経験などは一度もなく、専業主婦で社会に疎い母の子育てはいささか極端過ぎる。
 結局カナちゃんがどんなに泣いても、母は十七時にならなければミルクを与えなかった。赤ちゃんの空腹感を大人の考えた時間に合わせる方が間違えていると思うけれど、とそれとなく伝えてみたが、とにかく母は「時間で動く癖をつけるのが大切なのよ」と言って聞かなかった。
 
 どうやらそういった育児方法があるらしいのだが、こっそりスマホで調べてみると、案の定母のしている方法は本来のやり方とは大きく違っていた。
 相変わらずこの人は、ちょっと聞きかじった事を自己流でおかしな解釈をしている。何度失敗すれば理解するのかと、思わず溜め息が漏れた。
 
「ただいま。お、伊織が来てたのか」
「父さん、おかえりなさい。今日は夜勤明けだったんだけど、母さんがカナちゃんの子守り大変そうだから」
「全く、詩織はしょうがない奴だな。新一くんも頼りないし。だから私は出来ちゃった婚なんか反対だったんだ。色々と聞いてくる職場の人間たちを上手く誤魔化さなきゃならなかった私の立場を考えてみろ。それなのに、親の言う事も聞かず好き勝手な事をして……」
 
 そう言いつつも、父がお風呂上がりでまだ少し濡髪のカナちゃんを見る目は優しい。
 ベビーベッドの中に手を伸ばし、薄い産毛のような髪の毛をやわやわと撫でる手つきは、私にだって覚えがない気がする。

 出来の悪い娘に思うところがあったとしても、生まれてきた孫には罪が無いという事か。
 そういうところが真面目で堅物の教育者らしいと思うと、口の端に苦笑いが浮かびそうになり、慌てて引っ込める。
 
 姉が生まれた頃には若さ溢れる熱血教師だったというこの父も、今では小学校で教頭の職務に就いている。歳のせいもあるのだろうか。
 
「それにしても、出来の悪い詩織と違って伊織は偉いな。母さんの手伝い、頼むぞ」
「うん」
 
 あぁ、やっぱり。こういう父親だからこそ、母は子育てを間違えたんだろう。勿論それは姉だけでなく、私という子どもを含めて。

 そして今はその矛先が、孫のカナちゃんに向いている。
 
 


 
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