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4. かけがえのない、勇太という恋人
しおりを挟む結局カナちゃんは二歳になっても保育園には入れられていない。
姉が我が子の面倒を見るのは休日と日勤の仕事終わりだけ。夕方から出勤する夜勤入りと朝の九時に退勤になる夜勤明けの日には、カナちゃんが実家で過ごす事が当然となっている。
姉が夜勤をひと月に八回も入れていれば、月の三分のニ以上母か私がカナちゃんの面倒を見ることになってしまう。母親である姉よりも、そして父親である新一よりも、カナちゃんは実家の母と私と共に過ごす時間が多くなっていた。
「いっちゃん! はい、どうじょ!」
産毛のような細い髪の毛を何とか寄せ集めて、小さなリボンのゴムで左右二つにくくっているのが愛らしい。小さな手に乗せたカサカサ音のするハンカチの玩具を、何やら嬉しそうな顔で手渡してくれる。
「ありがとう、カナちゃん」
いつの間にか私の勤務シフトは姉のシフトに合わせて希望を出すようになっていた。職員達の希望に合わせてシフトを作るのは師長だが、私ほど希望の日数が多い職員は居ないし、皆にも迷惑をかけていると思う。
幸いにも今のところは誰かに注意されたり、嫌な顔をされる事は無かった。
私が肩身の狭い思いをしているというのに、母や姉は何とも思っていない。だから私に改めて感謝する事はなかった。
私も家族に感謝を期待する事などとっくに諦めていた。ただ姪っ子のカナちゃんが日々成長していく様子を間近で感じられる事だけが、赤ん坊の頃から子守りをしている私にとっては救いであり、喜ばしい事だった。
「ほら、カナちゃん。もうすぐお昼寝の時間ですよ」
「バァバ、まだいっちゃんとあそぶ!」
「でももう十四時ですからね。きちんと時間は守りましょう」
「はーい」
相変わらずカナちゃんに対する母の躾は『時間通りに規則正しい生活を送る』という事を一番に考えられている。必然的に、私もそれに準じて子守りをするように言われていた。
三度目になる母の子育ては、元になったジーナ式という子育て方法を正しく理解するようにしつこく訴えたお陰で、今のところは大きな問題も無く進められているようだ。
あのまま自己流でおかしなやり方をしていたら、カナちゃんはどうなっていたんだろうか。
それにしても夜勤明けで実家に寄って、そのまま午後まで子守りをしていたからか、カナちゃんの声がしなくなると急激な眠気が襲ってくる。
カナちゃんを寝かしつけた母親が戻って来るのを舟を漕ぎながら待ち、姿が見えたところで暇を告げた。
「母さん。悪いけど、今日はもう疲れたから帰るね」
「そうなの? 夜勤明けだし、気をつけてね。居眠り運転なんて絶対ダメよ。事故でも起こしたらそれこそ大変な事になるんだから」
「うん、ごめんね」
昨日の夜勤入りも夕方までカナちゃんの子守りを母と二人でしていた。それから夜勤をこなし、夜勤明けでまた実家に寄ったのだ。
近頃は勇太とゆっくり過ごす事も出来ていない。勇太は優しいから「大変だね」と労りの言葉をかけてくれるだけで不満も何も言わないけれど、もうそろそろ私の体力が限界を迎えている。
運転中、重い緞帳のように勝手に下りて来ようとする瞼を何度も無理矢理こじ開けて、何とかマンションに帰り着いた。
最早寝室までの距離を歩くのすら億劫で、勇太と選んだお気に入りのソファーにドサリと倒れ込む。重い身体がズブズブと沼に沈んでいくような感覚は心地良く、睡魔に抗うことをやめてもいいと身体に許可した時の快感は堪らなかった。
ふわふわとした夢現の中、人の気配と肩に重みを感じて急速に覚醒する。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
私を気遣う誰かに優しく掛け物が掛けられた感覚で目を覚ますのは、どこか心地良くて幸せな気持ちになる。
子どもの頃に母からそうして貰った時の記憶と今がごちゃ混ぜになって、目を覚ましても自分が一体何処にいるのかしばらく分からなかった。
けれど見慣れたリビングとスーツ姿の勇太が目に入り、ここは私の家だと分かった。ホッと短く息を吐く。
「ん……、おかえり。もうそんな時間?」
「うん、もう十八時過ぎてる。帰ったら伊織がここで寝てたから風邪ひいたらいけないと思って。起こしてごめん」
「いや、もう起きて夕飯の支度しないと。ごめんね、遅くなっちゃうけど」
のそのそと乱れた髪を直しつつ起き上がると、部屋の景色がくらりと回る。同時に強い吐き気に襲われて、思わず口元を押さえた。
「う……っ! おえっ」
「伊織! 大丈夫か?」
急いで何かを取りに走る勇太の背中を確認したが、強い吐き気を堪えきれず、そばにあったゴミ箱を引っ張り寄せてそこに吐いた。
何度か胃が痙攣を起こすように迫り上がってきたが、出すものを出したら吐くのは胃液だけになる。しばらくすると口から胃が飛び出すんじゃないかと思うくらい強い痙攣も落ち着いた。
「ごめん……」
「大丈夫? 口、濯ぐか?」
渡された水で口を濯ぎ、そのままゴミ箱に吐き出した。視界が揺れてぐるぐると回る、回転性の目眩はまだ続いている。
口元をティッシュで拭き取ってくれる勇太の心配そうな顔を見て、何故か涙が止まらなかった。
「ごめんね、ごめん……」
「何で謝るんだよ。頭の病気とかじゃないよな?」
「多分、過労からくる目眩」
「今日はもう寝てたら? 食べられそうな物作っておくからまた落ち着いたら食べたらいいよ。な?」
コクコクと何度か頷いて、勇太が持って来てくれたタオルで顔を覆った。目を閉じていてもグルグルと回る感じがして本当に気分が悪い。
ゆっくりとソファーに横になると、とにかく目を閉じてひどい台風のような不調が過ぎ去るまでじっとしていた。
いつの間にかまた眠っていたらしく、目を覚ますと勇太がすぐ近くのソファーでパソコンに視線を落としていた。眠る私を気遣ってテレビをつけなかったのだろう。
そんなさりげない心遣いが出来る勇太の事が好きで好きで堪らなくて、同時に熱いものが瞳の表面をぶわりと覆った。鼻を啜った音で勇太がこちらに気付く。
「あれ? 起きたの? 目眩、大丈夫?」
「うん、治ったみたい。ありがとう」
「無理し過ぎじゃない? それでなくても仕事がハードなのに、空いてる時間はカナちゃんの子守りまでして。心配だよ」
勇太のようによく出来た恋人は私には勿体ないくらいで、このまま一緒に過ごす時間が少なければ別れを切り出されるんじゃないかと不安になる。
「勇太、どうして欲しい? どうしたらいいと思う?」
両親にも姉にも甘えられない私が、素の自分を曝け出せるのは彼の前だけ。全て受け入れてくれる勇太の存在は、私にとって何よりも一番大切なものだった。
「うーん、そうだなぁ。カナちゃんの子守りを伊織がしなければ、カナちゃんと伊織のお母さんが困るだろうし。それなら仕事を変える……とか?」
「でも、今の職場は新卒からずっと勤めてるから給料もそこそこだし……」
「別に俺も仕事してるんだし。収入に関してはそんなに心配しなくていいよ。何より伊織の身体が一番心配だよ、俺は」
私たちは姉のように気軽に結婚なんて出来ないのに、そこまで考えてくれる勇太の事が心から愛しくて。
いつもみたいに抱擁を強請りたかったけれど、嘔吐した事を思い出してやめた。代わりにグイッと手を伸ばして、こちらの意図を汲んで差し出された勇太の手を握る。
「ありがとう。仕事のこと、考えてみる」
「うん。お腹空いた? お粥作ってあるから温めるね」
穏やかな笑顔を向けてゆっくりと手を離し、立ち上がった勇太の広い背中を見送る。
あんな家族なんて要らない、私には勇太さえいればいい。
この時の私にとってカナちゃんというのは、確かにとても可愛い姪っ子だけれど、結局は「母親である姉がいるのだから」と思える程度の存在でしか無かった。
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