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20. 新一の本音
しおりを挟むその日は日勤で、マンションに帰って勇太とリビングで寛いでいる時間帯だった。
「保育園の手続きで伊織の名前と住所、電話番号が必要なんだけど。住所教えてくれる? 緊急連絡先みたいなやつらしい」
しばらく音信不通となっていた新一から電話が掛かってきて、何があったのかと不安になったがどうやらカナちゃんの入園手続きは進んでいるようだ。
「いいですよ。住所は……」
念の為スピーカーにしていたので、同居している勇太が頷くのを確認してからマンションの住所を告げた。
スマホの向こう側からは復唱した住所を何かにメモをする様子が窺える。新一がマンション名と階数を口にした時、背後で僅かに女の声が聞こえた。
どうやらあの日アパートで会った女が今も一緒にいるらしい。
「香苗は来月の一日から入れるんだとさ。最初は慣らし保育とかいうのがあるらしい。準備物とか説明とか書いた書類貰ってるんだけど、今から持って行ってもいいか?」
「はい、じゃあマンションのエントランス前にロータリーのようになっているスペースがあるので、着いたら電話ください」
来月の一日といえば、あと二週間ほど。思ったよりも早く入園が決まって驚いた。
どうやらここから車で二十分ほどかかるところにある認可保育園で、念の為にネットで調べてみたら、口コミも良くちゃんとした保育園のようだった。
新一なりにきちんとカナちゃんの事を考えてくれたのだと思いたい。
マンションのエントランスにあるソファーで待っていたら、ガラス張りの向こうに新一の車が停まったのが見えた。
助手席がこちら側で、そこにはあの女が乗っている。女は亀のように窓から顔を出し、うちのマンションを見上げていた。
「こんばんは。わざわざすみません」
助手席のそばを避け、車の後方から運転席の方へと周る。私に気づいた新一が窓を下げた。
「いいところに住んでるな。看護師で独身ってやつは儲かるんだなぁ。アイツは色々理由をつけてまともに稼いでくる事もしない。羨ましいよ」
書類の入った封筒を手渡しながら下卑た笑いを浮かべる新一。その奥から向けられるまとわりつくような女の視線も合わせて、とても居心地が悪い。
「本当、いいマンションよね。奥さんがめちゃくちゃにしたあの汚いアパートとは大違い」
赤く塗られた口紅の端をグッと上げた助手席の女。そちらにチラリと視線を向けた新一は、小さく舌打ちをした。
「うるせぇな」
「えー、ホントの事じゃない」
何をされたわけでもないのに、初対面の時からこの女の雰囲気が苦手だった。派手で、馴れ馴れしく、図々しい。
新一の愛人だか何だか知らないが、家族で住むアパートに平気で上がり込む神経が信じられないし、一番嫌悪感を抱いた事だった。
偶然目に入った女のバッグが派手なピンクのパイソン柄だった事も、この女の存在を的確に象徴しているようで場違いにも納得した。
「まぁ分かってると思うけどさ、俺アイツと離婚したいんだよね。今度病院行ったらコレ、渡しといてくれる?」
「……離婚届? 新一さんが直接渡したらどうですか?」
「いや、それは……。頼むよ、伊織。な?」
新聞のチラシかダイレクトメールのように軽々しく手渡されたのは、新一の欄が記入済みの離婚届だった。
姉と離婚してこの人と再婚でもする気だろうか。
けれど、それならまぁいい。カナちゃんの事を積極的に手放そうとしてくれるなら、こちらとしては僥倖だ。
本音を言えば、新一と姉の二人は、もう二度とカナちゃんの親を語る資格すら無いと思う。
両親と三人で暮らしていた頃の記憶は、カナちゃんの中にはもうほんの僅かなカケラくらいにしか残っていないのだから。
私がそれを知ったのは、言葉が達者になってきたカナちゃんが、姉や新一の事を決して「お母さん」だとか「お父さん」などと呼ばないという事に気付いてから。
実は、カナちゃんは新一という父親の存在を正しく認識していなかった。
父親と思うどころか、生まれてからこれまでほとんど一緒に過ごしていないので、新一の名前を言ってもきょとんとするばかり。
それだけにとどまらず、姉の事さえ近所のお姉さん程度の認識なのだ。だから姉に長らく会えないのを寂しがる事もない。
やはり新一と同じで、姉が実の母親だという認識すらカナちゃんにはないようだった。
まさに生みの親と育ての親といったように、カナちゃんの中では姉夫婦との思い出や絆など、とっくに薄れてしまっていたのだ。
カナちゃんにとっては実家の両親と私が『家族』。お父さんもお母さんもいないけど、バァバやジィジ、いっちゃんがいる。
その『家族』がカナちゃんの当たり前になっていた。
「俺が行くとアイツ、暴れるんだよ。離婚の事は何年も前から言ってるのに、聞かないから困ってんだよな」
そうだったのか。姉さんはそういう事は何一つ口にしなかった。
それに、先日の様子からして新一に対しての執着は並大抵のものではなさそうだ。そう簡単に離婚に納得するとは思えない。
「先日会った感じだと、姉は新一さんと離婚する気は無さそうでしたけど」
新一はそんな事とうに分かっているというように肩をすくめただけだった。
「姉は……、どうしてあそこに入院したんですか? 新一さんに騙されたと、ここは安全だからと言われたのだと話していました」
私の問いに、隣にいる愛人の方を気にする素振りを見せた新一は、一度目を伏せてからおもむろに車から降りた。想像もしていなかった新一の動きに、思わず身を強張らせる。
車から少し離れたところへ向かいながら、こちらに「ついて来い」と目配せする新一の背を、黙って追いかけた。
愛人にも聞かせられないような内容なのだろうか。
車から距離を取った新一はおもむろに私の方へと向き直り、頭を掻きながら口を開いた。
「あのな、アイツ本当は病気なんかじゃないんだよ。けど、病気のフリをして入院してるんだ。まぁそれには深い理由があってさ。仕事も辞めたけど、それだけじゃ安心出来ないっつうか」
「病気のフリ? まさか。……姉は、職場でいじめに遭っていた訳ではないのですか?」
「アイツがそんなタマに見えるか? お前もよく知ってるだろ? 姉ちゃんの性格を。どっちかっつうとイジめるほうだろ、アイツは」
新一の言っている事は何となく的を射ない。わざと大切なところを口にせず、上手くはぐらかせているように感じた。
「姉は何故病気のフリを? カナちゃんや、新一さんを放っておいてまでそうしなければならない理由って
、一体何ですか?」
別に隠す必要など感じられなかった。だって私は姉の家族だし、新一の言う通りあの人の性格はよく分かっている。
それでも新一が渋るのは、何か口にするのも憚れるような理由があるのでは?
やはり、以前に自殺した同僚はイジメによって亡くなったのではないだろうか。あの頃から姉は少しずつ変わっていった。
あれが姉のせいだとすれば……。
「……それは言えないな。俺だって巻き込まれて迷惑してんだよ。アイツと離婚して縁を切らないと面倒な事になりそうだし」
「面倒な事? それって……」
「とにかく! アイツは罪に問われない為に入院してるんだよ。酷い精神病だったら罪に問われないんだろ? なんかそんな事聞いたことあるから、入院しろって言っただけだ!」
声は潜めているものの、段々と言動に苛立ちを見せる新一は、私の疑問をぶつける言葉を遮るようにして一気に捲し立てる。
「俺はアイツを騙してなんかないぞ。なぁ? 本当の事だろ?」
新一の言っている事は腑に落ちないが、どうやら『何らかの罪を犯した姉は、その償いから逃れる為に病気のフリをしているらしいと』いう事だけは理解した。
ふと見れば、新一の唇が色を失って小さく震えているのに気づいた。
「新一さん……?」
驚いた私が声を掛けようとすると、すぐに無理して笑うような形に唇を曲げる。
その異様な表情に、私は言葉を続ける事が出来なかった。
「とにかく、俺はアイツと離婚したいんだよ。さっさと無関係になりたい。元々出来ちゃった婚だっていったって、アイツの仕組んだ罠みたいなもんだったしな! 香苗の事だって、そりゃあ可哀想だとは思うさ。こんな俺とアイツの間に生まれちまった事がな」
ギラついた目をした新一は落ち着きをなくし、ますます多弁になった。
そして一通り気持ちを吐き出すと、ポケットを探るような素振りを見せる。けれど恐らくタバコが車内に置きっぱなしだと気づいたのか、「ちっ」と小さく舌打ちした。
そしてしばらく地面を睨み付けるようにしていた横顔を、くるりとこちらへ向けた。
「香苗の親権は要らないから。とにかく離婚できるように伊織からも何とか説得してくれ。それと……、香苗とアイツの縁もさっさと切っておいた方がいいぞ」
「え……? それって、どういう……」
問いかけるが、恐らく聞こえたはずの新一はサッと踵を返して車へと戻って行く。
その背を見つめながらしばし呆然としていた私はハッと我にかえる。慌てて車の方へと向かったが、新一の乗った車は逃げるようにして私のすぐそばを走り抜けて行った。
「新一さん……」
すれ違いざまに見えたのは、置いてけぼりにされた私を助手席から覗く女の顔。一瞬の事ではあったが、女の目と口は不気味なほど弧を描いていた。
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