かわいい猛毒の子

蓮恭

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21. 結城という後輩の明るさに救われる

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 出勤最終日は日勤だった。
 私が急に退職する事に同僚達は驚きを隠せない様子だったが、姉が病気治療中で姪っ子の面倒を見る人がいないのだと話したら、一気に同情的な雰囲気になる。
 こういう事を職場で話すのは苦手だったが、高橋主任が「ある程度本当の事を話した方がいい」と背中を押してくれたのだった。

 私だけでは急な退職をする事で顰蹙を買っていたかもしれないところを、やはり高橋主任は部下の事をよく分かっている。
 
「では、前から言っていた通り今日は神崎の送別会だからね。皆、楽しんできて! 私は久しぶりに師長とペアで夜勤頑張るから!」
 
 高橋主任と羽田師長が夜勤を買って出てくれて、今日は病院近くの居酒屋で私の送別会を開いてくれる事になっていた。
 明日からはもう出勤しないんだ、と思うと不思議な感じがして急に落ち着かない気持ちになる。
 
 夜勤者以外の病棟職員全員が前のめりに参加表明するという有難い会は、夜勤を買って出てくれた主任と師長のお陰でとても楽しく過ごせた。
 他の病棟に比べると人事異動が少なかったお陰もあって、所属していた病棟は職員同士も良好な人間関係が築けていたと思う。
 
 私の送別会だと言いつつも、久しぶりに多くの職員が揃った体のいい飲み会は非常に盛り上がった。
 帰りに「これなら世話が掛からないから、是非可愛い植物に癒されてね」と、多肉植物の寄せ植えを贈られた。
 一人一人からのコメントが書かれたメッセージカードなんかも一緒にもらって、「また仕事に困ったら戻って来てね」と両手を掴んでポロポロと泣く年配の同僚には思わず胸が熱くなる。
 
「じゃあ、神崎さん。今までお疲れ様でした! ではみなさん、各々気をつけて帰ってください!」
 
 幹事をしてくれていた結城という同僚は、病棟で一番後に入った後輩だけれど、いつも元気で明るくてドジをしても皆に可愛がられるタイプの人柄だ。
 私とは正反対と言えるかも知れない。

 手を振りながら帰って行く同僚達に「お疲れ様でした」と心を込めて伝えた。
 
 送別会とはいえ、今日も運転をして帰る私はアルコールを飲まなかった。
 結城も車を停めてある職員駐車場まで歩くと言うので、一緒に向かう事にした。
 居酒屋やレストラン、様々な飲食店が立ち並ぶ通りはそれぞれの店の前を通る度に匂いが変わった。そんな中を、終始ご機嫌な様子の結城と贈り物の入った紙袋を持った私とで進む。
 きっと幹事だった結城は、送別会が無事終わってホッとしたのだろう。
 
「結城、今日は幹事を引き受けてくれてありがとう」
「神崎さんには新人の時にプリセプターになってもらってお世話になりましたし、私の憧れ『大好きな高橋主任』から直々に頼まれたら断れませんよぉ」
「相変わらず高橋主任の事、好きだね」
 
 結城は高橋主任の人間性に惚れ込んで、「私、高橋主任みたいな素敵な看護師になります」というのが口癖だった。
 病棟では結城の高橋主任好きが公然たる事実で、そんな風に素直に言葉にできる結城の性格が羨ましいと思ったこともある。
 
「高橋主任って宝塚の男役みたいな、華やかで凛々しいところがあるじゃないですか。あんな風に爽やかで勇ましい女性になりたいんです」
 
 どう考えても結城と高橋主任二人のイメージは違った物だったが、仕事への真摯な姿勢に関しては同じだった。
 
「それでも、結城には結城の良さがあると思う。底抜けの明るさとか、そういうのに案外周りは救われてるよ」
 
 私からすれば、素直に物事を口にできる結城みたいな人間はとても好感が持てる。それに実際、明るい彼女の雰囲気に救われた事が何度もあった。
 
「え! 本当ですか? 神崎さんからそんな事言われるなんて……。皆に『抜け駆けだ』って怒られちゃいそうです。ふふふ……」
「抜け駆け? 何で?」
「そりゃあ神崎さんって、初見では近寄りがたいほどすごく綺麗な顔だし。仕事はさりげなく完璧にこなすし、『常に憂いを帯びたような影のある雰囲気が素敵だ』ってファンの間では有名ですから。そんな人が私なんかを褒めちゃうなんて」
 
 そんな風に思われてたなんて、退職日に初めて聞く事になるとは思わなかった。
 自分なんかにファンがいた事も知らない。最後の最後まであけすけに物を言う結城の性格は、やはり私からすれば羨ましささえ覚えた。
 
「結城のそういう性格が羨ましいよ」
「え? それってどういう……」
「伊織!」
 
 結城の言葉の途中で、後ろから突然肩を掴まれて声を掛けられた。
 その声には聞き覚えがあったから良かったけれど、それにしてもこういう声の掛け方は遠慮して欲しかった。しかも、同僚がいるところでは。
 
 振り向けば、やはり予想通り新一とあの女が、口元に下卑た笑いを浮かべてこちらを見ていた。
 
「新一さん……こんばんは」

 心を落ち着かせる為に短く息を吐いてから、差し障りのない挨拶をする。
 
「ちょうど良かった、飯食い終わったら電話しようと思ってたんだよ。ちょっとこっち来い……」
 
 急な事に驚いた顔をしている隣の結城に目配せして、三人で少しだけ離れたところに移動する。
 駐車場へ先に行ってくれても良かったけれど、律儀にも結城は気にしない風を装って、スマホを眺めつつ待ってくれるようだ。
 
「前に渡した離婚届な、まだ持ってんだろ?」
 
 何故知っているのかは分からないが、実際その通りだった。もしかしたら姉のところに見舞いに行ったのだろうか。
 
「持ってますよ。なかなか病院に行けなくて……」
「昨日病院から来るように言われて詩織のところ行ったら、アイツ普通の顔してたから。こりゃあまだ渡してないんだろうなと思ったんだよな。アレはやっぱり俺が直接詩織に渡すから、伊織に渡した分は捨てといてくれ」
 
 病院から呼ばれた理由も気になったが、結城を待たせている状況では聞けない。それに、多肉植物の寄せ植えが入った紙袋は思いの外重くて、長話をするのをつい躊躇った。
 けれど、自分が姉に離婚届を渡さなくて良くなった事に関しては正直なところホッとして胸を撫で下ろした。
 
「そうですか。こちらとしてもその方が助かります」
 
 まだ姉と結婚している状況だというのに、恥ずかしげもなく姉の家族の前で不倫相手と腕を組む新一の気持ちは、もうとっくに姉には無いのだと分かる。
 それなのに、新一に相当固執していた姉の様子を思い起こすと、離婚届なんて渡した日にはどんな状況になるのか想像もしたくなかった。
 
「伝えたかった事はそれだけだ。ちょうど良かったよ、まさかこんなところで会うなんてな」
 
 そう言って新一はチラリと結城の方を見る。その視線にはおかしな気配が含まれている気がして、冷たい氷柱で背中を撫で上げられたような感覚を覚えた。
 さっさとこの場を離れた方がいいと判断して踵を返す。
 
「じゃあ、急いでいるので。もう失礼します」
「おう、邪魔して悪かったな」

 私が新一と話す間もずっと、あの女は考えの読めない粘い視線をこちらへ向け続けている。
 新一の腕にねっとりとまとわりつく様子は、やはり枝に身体をぐるぐると巻き付かせた蛇のようで嫌悪感を抱いた。

 紙袋に注意しながら、早足で結城の元へと戻る。
 
「ごめん、わざわざ待っててくれたんだ」
 
 スマホに目を落とし、白いガードパイプに身体を預けながら自分を待つ結城に、努めて明るい声を掛けた。
 
「なんか神崎さんが深刻そうな顔してたし、待ってて良いのかなぁとも思ったんですけど。このまま中途半端にサヨナラするのも変だなって」

 良かった。結城がいつもの笑顔でそう言ってくれたので、変に気まずくならずに済んだ。
 
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
 
 また駐車場へ向けて歩み始めてすぐ、珍しく結城が遠慮がちな様子で言葉を切り出した。
 
「アレって……もしかして例のお姉さんの旦那さん、とかですか?」
「……何で?」
「チラッとだけ聞こえちゃって……。離婚届とか、病院とか……。離婚、するんですね」
 
 本当に、結城は包み隠すことを知らない後輩だ。普通は聞こえないふりをするものじゃないだろうか。
 ほんのわずかに苦味を含んだ笑みが浮かぶ。
 
「結城って、本当に遠慮がないね。そういうところが羨ましいんだよ」
 
 結城の言葉には答えることなく、先程新一の呼び掛けによって中断された質問の答えを口にしてその場を誤魔化した。
 さすがの結城も、それ以上詳しい事は聞く事をせずに「長所でもあり、短所でもあるって感じですよねぇ」と苦笑いする。
 
「それじゃあ、今日は本当にありがとう。これからも頑張って是非高橋主任みたいな凄い看護師になって」
 
 この時間の駐車場には夜勤者の車だけが数台停まっていて、結城の車は少し離れた場所にある。
 別れ際、暗闇をぼんやりと寂しげに照らす電灯の下で見た結城の瞳は微かに潤んでいるように見えた。
 
「私、仕事に一生懸命で看護師が天職みたいな神崎さんの事、尊敬してて……本当に、大好きでした!」
 
 そう言って笑いながらブンブン手を振る結城の言葉はやはり真っ直ぐで。私はこの何だかんだで可愛い後輩が、この先高橋主任のような良い看護師になってくれると信じている。
 
「うん、ありがとう」
「えー、それだけですかぁ? もっと……こう……。まぁ、クールな神崎さんらしいですけど」
 
 ぶつぶつ言いながらも「また連絡しますね」と明るく言う結城と別れて、車に乗り込む。

 就職したての頃には狭くて停めにくいと文句を言っていた職員駐車場とも、今日でお別れか。そう考えると、今更ながらに複雑な感情が込み上げてくる。
 自分なりに新卒から懸命働いてきた職場だった。自分の都合ではなく、姉の為に、姪っ子の為に退職するなんていう事になるとは、全く予想外の事だったのだ。
 
 ふと視線を落とす。助手席の足元に積んだ名前も知らない多肉植物の葉は、まるでカナちゃんの小さな指のようにみずみずしくぷっくりとしていた。


 



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