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22. カナちゃんを迎える日
しおりを挟む退職した翌日は、いつも通りに起きて普段よりのんびりとした朝の時間を過ごした。
コーヒー好きの勇太は毎日お気に入りの豆を挽いては、私の分もコーヒーを淹れてくれる。リラックス効果があると言われるその香りは、実家にいた時と比べて朝の時間を格段に贅沢にした。
コーヒーと一緒に厚切りのトーストを頬張るのが、私と勇太の朝のお決まりだった。
「今日からカナちゃんがこの家で暮らすんだよな。何か急に緊張してきたなぁ。俺の事、怖いオジサンとか思われたらどうしよう?」
「そんな事言って、あれだけ絵本とかおもちゃとか買ってあげてたら好かれるに決まってるよ」
ダイニングで朝食を食べながら、勇太と私の視線はリビングの一角へと向けられた。
そこには勇太がせっせと準備したカナちゃん専用のスペースが出来上がっている。カラフルなガーランド柄のラグが敷かれ、木製の小さな本棚があり、淡いピンク色のティピーテントの中には、女の子が好きそうなぬいぐるみや玩具がいくつも置いてある。
元々このマンションは、二人の趣味で選んだ北欧風のシンプルなインテリアでまとめられていた。けれど今はその一角だけが、他と比べて華やかで愛らしい。
「やっぱりやり過ぎ、かな? なんか、つい張り切っちゃった」
ある日突然勇太が色々買って帰ってきた時には、「少々やり過ぎなのでは」とも思ったけれど、カナちゃんはきっととても喜ぶだろう。
勇太の子ども好きははじめから分かっていた事だったし、二人で住むこの家にカナちゃんを受け入れてくれる事自体が心からありがたい。
「ううん、ありがとう。カナちゃん、きっと喜ぶと思う」
「そう? 良かった」
勇太はきっといい父親になれるだろう。私といる限り、それは叶うことはないのだけれど。
子どもを授かる事ができない私と、そんな私を選んだ勇太。それでもいいと選んだ二人だけの世界に、カナちゃんという存在が飛び込んできたらどんな風になるのか。
楽しみだけれど、少しだけ怖かった。
◆◆◆
実家の駐車場に車を停めて、ドアを閉めた私はふと庭の方へと目をやる。
思えば今では滅多に行き来をしない母親の実家、つまり私の祖父母の家は立派な日本家屋で、そこから眺める庭は隅々まで手入れが行き届き、凛とした佇まいの美しい日本庭園だ。
その反動なのかは知らないが、母は可愛らしい雰囲気の庭作りをそれはそれは熱心に行っていた。
ご近所の方に「本物の外国みたいに素敵ね」と褒められていた母自慢のイングリッシュガーデンが、今ではそこら中に雑草が生え、プランターには枯れた花がそのままになっている。
形の乱れた様々な庭木は、まるで人を驚かすお化けのようで気味が悪い。下草や低木が好き勝手に伸び、その辺に大きな蛇が這っていても気づかないだろう。
けれどこの荒れ果てた庭が、母なりにカナちゃんの世話を一生懸命に取り組んだ証のような気がした。
「いっちゃん!」
リビングへと一歩入るなり、私の名を呼んで飛び跳ねてくるカナちゃん。
今日は先日選んだ青いワンピースを着てご機嫌な様だ。
「カナちゃん、お姫様はそんな綺麗な服を着て飛んだり跳ねたりしませんよ」
「あ、ごめんなさぁい」
母に言われハッとした様にスカートを押さえる仕草はとても可愛らしいが、その辺に散らばった数々の玩具たちが、近頃のカナちゃんの活発さを如実に表している。
「じゃあまずはお片付けしようか。それからお引越しの荷物を運ぼうね」
「はーい! おひっこし、おひっこし」
カナちゃんは引っ越しの意味など分かってないと思うのに、その言葉を何度も繰り返して片付けを始めた。
動くたびにぴょんぴょん揺れるツインテールがしっぽみたいで、何度見ても微笑ましく思わず頬が緩んでしまう。
「ねぇ伊織、詩織か新一さんと連絡取った? 何度電話をかけてもあの子ったら、電話に出ないのよ」
「……姉さんに、何か用事があったの?」
「用事って訳ではないんだけれど、体調は良くなってきているのか気になって……」
両親に姉が入院している事を隠すのも限界かも知れない。
隠していても、そのうち姉と新一が離婚する事も耳に入る事になるだろう。片付けに夢中になるカナちゃんの様子を横目に見ながら、とうとう私は母に話を切り出した。
姉が精神科に入院している事、そして新一が離婚を求めている事を話すと、眉間に皺を寄せながら耳を傾けていた母は大きなため息を吐いた。
「本当に、詩織は家族に迷惑ばかりかける子ね。子どもを預けっぱなしで精神科に入院して、挙句に離婚だなんて。お父さんが何て言うか……。もうすぐ校長先生になれそうだっていうのに、娘がそんな風だなんて誰かに知られたら大変な事よ」
母はやはり世間体や父からの反応が一番気になるようだ。
黙っていてもどこからか情報は漏れるもので、姉が新一と結婚した時だって伝えてもいない人から「おめでとう」と言われてお祝いが届いた。
良い事はなかなか広まらないのに、この世の中は悪い噂ほど早く駆け巡るようになっている。
「お父さんに、詩織はとんだ失敗作だってまた怒られちゃうわ」
頬に手を当てて、心底困ったわという風に首を傾げた母に、何と言ったらいいのか分からなかった。
少し離れたところでは、ちょうどカナちゃんが片付けを終えて「よし!」と指差し確認のような仕草をしている。
「母さん、カナちゃんの荷物は半分くらいこっちにも置いておくね。布団とか、食器とかはマンションの方にも買ってあるから」
「あ、そうなの。そうよねぇ、また遊びに来た時に無いと困るものね。着替えはもう袋に詰めて準備してあるわ」
リビングの端に紙袋に詰められた荷物が四つほど見える。種類ごとに分けられているようで、袋には油性ペンで中身が分かるように記載があった。
「ありがとう」
「そういえば、伊織の住んでるマンションってどのくらい広いの? 詩織の借りてるアパートよりは広いのかしら?」
「うん、まぁ少しだけね」
勇太と住んでいる事は両親に話していないから、勿論母がマンションに来た事はない。
アパートからマンションに引っ越した時だって、別段気にしている様子も無かったから良かったけれど、今後カナちゃんに会いにマンションへ来るとか言われたらどうしよう。
「あら、そうなの。それなら安心ね」
母はそれ以上何か言う事もなく、私は先に荷物を車に乗せた。父が帰るのは今日も遅いらしいので、会わずに実家を出る事にする。
父はカナちゃんとの別れを昨日きちんと済ませてあるらしい。
「それじゃぁカナちゃん、また遊びにおいでね」
「バァバ、ばいばい」
車の窓からカナちゃんが外へと目一杯手を伸ばす。母がその手を握ってゆらゆら揺らした。
前回のようにどこかへお出かけをするつもりで、車が発進するのをとても楽しみにしているようだ。
「母さんも、しばらくはゆっくり休んで。カナちゃんがいないからって、急に無理したらダメだよ」
無意識に荒れ果てた庭の方へと目をやってしまった私を見て、母はその意を汲み取ったのか、苦笑いを浮かべて頷いた。
「そうねぇ。ぼちぼちに、ね」
カナちゃんを乗せた車は実家を出発する。庭先から道路に出た母は、随分長い間私の車の後ろ姿を見送っていた。
曲がり角で母が見えなくなるまで、時々ルームミラーでその姿を確認していると、何故か鼻の頭がじわりと熱くなってしまった。
後部座席のカナちゃんは取り付けたジュニアシートに座って、お気に入りのウサギのぬいぐるみを手に持っている。
景色が流れる窓へ向けられた横顔は期待に満ちていて、白いレースの靴下で飾られた足をブラブラと揺らしていた。
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