かわいい猛毒の子

蓮恭

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25. 姉に会いに

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 カナちゃんの慣らし保育も終わり、今週から終日保育になった。
 保育士の先生方のお陰で、カナちゃんは特に登園を嫌がる事なく順調に過ごせている。
 
 私と勇太もすっかりカナちゃんがマンションに居る生活に慣れた。
 勇太なんかは仕事から帰って来るなり、カナちゃんとの抱擁タイムを設けている。それにカナちゃんも「ゆうちゃ! 抱っこ!」と、とても嬉しそうに応じていた。
 
「あ、カナちゃん。ほっぺたにジャム付いてるよ」
「えー、ゆうちゃとってよー。きれいきれいして」
「はい、綺麗になった」
「えへへ、ありがとぉ」
 
 勇太とカナちゃんはまるで兄妹か親子のように仲良しで、カナちゃんもすっかりここでの生活と保育園の生活リズムにも慣れた様子。
 
 私はカナちゃんを保育園に送った後に家事を済ませて、空いた時間は仕事探しに充てていた。
 今のところ姉夫婦が離婚した事による保育園等の手続きも、いつの間にか入院中の姉に代わって新一が早々に済ませてくれていた。

 チューリップの形をした名札の苗字が「高井」から「神崎」に変わっただけで、カナちゃんはそのまま通えている。まだ通い始めて間がなかったので、幸いにも周囲の父母にも苗字が変わった事は知られていない。

 正直なところ意外だと思ったのは、親権は要らないと言った新一がカナちゃんの事に関して積極的に動いてくれた事だ。
 
 あれから新一とは何度かDMや通話のやり取りをした。けれど、どうやって姉に離婚を了承させたのかは聞けていない。話すのはカナちゃんの事に関する事だけ。
 養育費は実家の父親が「受け取るな」と言ったという事を伝えると、少しだけホッとしたような声音だった。
 
「香苗には正直そんなに愛情がある訳じゃないけど、可哀想だとは思ってる。詩織とはもう二度と関わるつもりはない。養育費は……払わなくていいって事だけど、今後香苗の事で何かあったらその時は連絡してくれ」
 
 そんな風に言っていた新一が本当はどんな人間なのか、結局よく分からないままだった。
 親としては無責任だけど、完全な人でなしではないと思う。ちゃんと教えてくれる人がいなかったから、新一だって普通の子育ての仕方が分からなかったのかも知れない。
 今となってはそれも想像でしかないけれど。
 
 今日は姉のところへ行く。初めてお見舞いに行ったあの日の、底なしに暗い姉の瞳が思い出された。
 
 新一と離婚した今、どんな事を思っているのだろう。
 それにあれからずっと胸に物がつっかえたように気になっていた。あの姉がこんな風になってしまった理由を、今日こそは聞く事が出来るのだろうか。
 
――俺だって巻き込まれて迷惑してんだよ。アイツと離婚して縁を切らないと面倒な事になりそうだし。とにかく、アイツは罪に問われない為に入院してるんだよ。酷い精神病だったら罪に問われないんだろ? なんかそんな事聞いたことあるから、入院しろって言っただけだ――
 
 そんな事を言っていた新一の言葉が思い出された。姉は一体……何をしたのだろう。
 
「伊織、伊織?」
「えっ……、ごめん。何?」

 突然聞こえた新一の声にビクリとする。
 
「カナちゃんがジャムで服を汚しちゃって。着替えさせないといけないんだけど、俺もう行かないと……」
 
 徐々に深い思考の海から上がってきた私を、勇太が苦笑いで見ていた。
 カナちゃんは上半身がシャツ一枚で、ダイニングの床に汚れたワンピースを脱ぎ捨てているところだった。
 
「ご、ごめん。分かった。いってらっしゃい」
「疲れてる? 大丈夫?」
「大丈夫。考え事してたからぼーっとしてて……ごめん。気をつけていってらっしゃい」
 
 カナちゃんは慣れた様子でシャツとパンツだけの姿のまま、ペタペタと裸足の足音を立て着替えの仕舞ってある部屋へと移動している。
 心配そうにこちらを見る勇太を安心させるように微笑んでから、カナちゃんの後を追いかけた。


 ◆◆◆

 
 保育園にカナちゃんを預けたその足で、姉の入院する病院へと向かう。
 今日も駐車場は外来患者の出入りが多く、いかに多くの人が精神を患って通院しているのかという事がありありと感じられる。

 前回と同じようにして病棟まで辿り着くと、今日は勇太のようにガッチリした体格の男性看護師が中へと案内してくれた。
 
「高田……あ、そうだ、すみません。もう神崎さんだ。神崎さん、離婚されてからだいぶ不安定で。ご家族さんに会いたがっていたから喜ぶと思います」
「そうですか。ご迷惑をおかけしてすみません」
 
 だいぶ不安定、という言葉の意味は、泣き喚いたりだとか周囲に迷惑をかけたという事なのだろう。
 確かにあの姉ならば、離婚されて感情的になっているとしたら、何をするか分からない。
 
「また帰る時にはナースステーションへ声を掛けてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 
 前回対応してくれた若い女性の看護師に言われたのと全く同じ文言を口にする男性看護師は、あまりこちらを注視したりはしない。それだけ言うと扉のすぐそばで別れた。

 一人で廊下を進んでいくと、例の女性看護師が前から歩いてきた。ワゴンを押して移動しているのだが、やはりこちらをじっと見つめた後に、晴れやかな笑顔で挨拶をしてくる。
 
「神崎さん、こんにちはぁ」
「こんにちは、お世話になります」
「お姉さん、ご家族さんに会いたいって何度も言っていたから喜ばれますよ」
 
 二人の看護師からそんな風に言われるという事は、随分しつこくそう口にしていたんだろう。
 姉がどんな状態なのか、急に会うのが怖くなってきた。元々ヒステリックな姉の事だ、私の顔を見るなり暴れたり叫んだりするのではないだろうか。
 ただ「会えて嬉しい」と喜ぶようにはとても思えない。

 憂鬱な気持ちが歩みを遅くさせたが、結局そうかからずに姉の病室へと辿り着く。
 
 心なしか重く感じる腕をゆるゆると持ち上げ、遠慮がちに木目調の引き戸をノックした。今日はここで引き返したいと思う気持ちが湧き上がる。
 
 やっぱり前と同じで姉からの返事はない。仕方なくゆっくりと扉をスライドさせると、室内へと足を踏み入れる。
 以前は感じなかったが、今日は何となく病室独特の匂いがする気がした。
 
「姉さん、来たよ」
 
 閉じられたベッド周りのカーテンをそっと引いてみると、姉はそこに居なかった。

 拍子抜けしつつも少しホッとする。空っぽのベッドには姉の上着が無造作に置いてあるから、先程までここに居たような気配はある。
 帰るわけにも行かず、病室を出て姉を探す事にした。

 とは言ってもここは閉鎖病棟。病棟内を少し歩けば、談話室のテレビの前に一人ぼっちで座る姉らしき後ろ姿が見えた。
 他の患者は昼寝でもしているのか、病室の外には数人しか姿が見えない。
 
 姉の方へと近付きつつ何気なくテレビへと目をやると、母もよく見ていたワイドショー番組が、色とりどりのパネルを使って最新の情報を伝えていた。
 
 姉はまだ私に気付いていない。それをいい事にじっと目を凝らしてみると、とある事件についてコメンテーターと司会者があれこれとやりとりをしているようだった。

 画面右上には「職員(27)自殺、遺族は真相究明を強く求める」というテロップが見える。
 次の瞬間、学生時代の写真らしき男性の画像が画面いっぱいに広がった。いかにも真面目そうな男性の名前が公開される。もちろん、知らない名前だ。
 
 よくあるといえば失礼な話だが、この世の中に遺族が理解に苦しむ自殺というのは溢れかえっている。
 
「姉さん」
 
 このままずっとテレビを観ていても仕方がないので、後ろからそっと姉の肩を叩く。
 すると姉は驚いて身体を大きく跳ねさせた。振り返った表情はまるで悪戯が親にバレた子どものように、目と口をまん丸に開けて身体を固くしている。

 まるで、そういった番組を必死になって観ていた事を知られたくなかったかのように。

 
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