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8. 弥兵衛のところへ……
しおりを挟む「ほおぉ。二番目の娘、椿というのはお前さんか」
庄屋をはじめとして皆が言葉を失って凍りついていた中で、産土神だけがのんびりとした口調で声を上げ、笑みを浮かべる。
椿の後ろではマツさんが顔を真っ青にして立ち尽くし、制止しようと必死になって伸ばした手の置き場に困っているようだ。
「ええ、私が椿です」
その場の誰にも止められない事を良しとして、来客の場に突然現れた椿は涙目になって胸に手をやり、同情を誘うよう懸命に訴えた。
「そりゃあ私だっておととさんが心配で、行きたいのは山々です! けれども私には許婚が居て……もうすぐ嫁ぐ身なのです。心苦しい事ではありますが、五体不満足なおととさんの世話は出来ません」
「椿! 突然出て来て失礼よ! 控えなさい!」
産土神の他には誰よりも先に我に返った百合が、声を荒くして叱った。しかし庄屋夫妻も息子もただ黙って、その場は産土神の言葉を待つ事にしたようだ。
「よいよい。それでは美桜に来てもらう事にしよう」
「ええ、そうしてください! 妹の美桜はどうせこのお屋敷に居ても役に立たない子ですし、おととさん一人の世話くらいなら出来るでしょう」
美桜を選んだ産土神の言葉に満足したらしい椿は、急に声を明るくしてそう言うと、やっと安心したという風にその場へ座った。
ふるふると首を振る夫の寛司に肩をそっと手を触れられた百合は、口を開こうとしたところを堪え、唇をギュッと噤んで上機嫌の椿を睨みつけた。
「美桜、それで良いか? 寛太郎も事情が事情だからすぐにでも出立して構わないと言っておる」
産土神が再び庄屋の方を向き、庄屋がしっかりと頷くのを認めてから改めてじっと黙っている美桜の方へと向き直る。
この時点で美桜には選択肢が無かった。もしあったとしても、父親の世話をすると自分から言い出しただろう。
美桜は、そういう娘であった。
「庄屋さんが構わないとおっしゃってくださったのなら、私はすぐにでもおととさんの所へ参ります」
「そうかそうか。弥兵衛も喜ぶ。それに弥兵衛の世話をしていた者達も、きっと美桜を大喜びで歓迎するだろうよ。では、あとの事は寛太郎に聞いてくれ。ワシはひと足先に帰り皆に報告を」
眦に鴉の足跡のような皺を作った産土神は、白髭を満足げに撫で付けながら立ち上がる。
反射的に皆が頭を下げたと同時に、いつの間にやら屋敷中に漂っていた不思議な空気が、嘘のように霧散した。
その後美桜は庄屋夫妻と別れの挨拶を交わし、これまで世話になった事への感謝を伝えたのだった。
やがて庄屋夫妻と息子は席を外し、久しぶりの姉妹水入らずの時間が訪れる。
続き間の座敷はつい先日畳を交換したばかりなので、清々しいイグサの香りが美桜の鼻をくすぐっていた。
「あーあ。おととさんが帰って来ないのなら、私の嫁入り支度は誰がするのかしら。百合姉さんがしてくれるの?」
これまで見せていた愛想笑いをすっかり引っ込めた椿は、痺れが切れた足を畳に放り出すようにして伸ばしつつ百合に問う。
百合は分かりやすく呆れたような態度を見せ、短くため息を吐いた。
「椿、言いたい事はたくさんあるけれど……とにかく、貴女に許婚が居るだなんて初耳だったわ」
「あはは! あんなの嘘。嘘というよりこれから本当になる話だから、まんざら嘘でも無いかしら」
「嘘ですって? 産土神様になんて事を……」
これには美桜も百合も驚き、顔を真っ青にしたのである。まさか神に嘘をつくなどと、とんでもない事をしでかしたと、思わず続きの言葉を失ってしまう。
「もう、人の話を最後まで聞いてよ。だから、完全に嘘って訳でもないの! シンさんが、年内には私を嫁に貰うって言ってるのよ」
「シンさん? それってもしかして松五郎さんのところの?」
「そう。あの人、私達の村とこの村を合わせた中でも一番いい男でしょ? 夫婦になるなら、あれくらい男前じゃないと」
椿は昔から見目麗しい男に目がなく、時々村を訪れる行商人や旅人にいい男が居れば、美しい顔と身体を武器にちょっかいを出す有様である。
「でも松五郎さん、秋祭りでお義父さんに『うちの放蕩息子にはほとほと困ってる』とひどく嘆いていたけれど。大丈夫なの?」
「ふん。若旦那様は確かに裕福だけど、顔は人並みだものね。どうせ百合姉さんはいい男に好かれる私が羨ましいんでしょう? 愛想がなくて近づき難いって、村の男は百合姉さんに近付かないものね。だからそうやってシンさんの事を悪く言うんだわ」
「椿……」
「じゃあ、そういう事だから。美桜、おととさんのお世話をしっかりね。聞いた様子じゃあ元には戻らないだろうし、アンタは嫁に行かずおととさんが死ぬまで面倒を見る事になるけど。あはははは……!」
百合が何か口にするより先に、椿はサッと立ち上がって座敷を出て行こうとする。
最後には美桜に対してひらひらと手を振り、満面の笑みで「アンタもたまには人の役に立って良かったわね」と言い残して。
「百合姉さん……」
美桜は椿から心無い言葉をぶつけられた百合が傷付いたのでは無いかと心配で、そっとそちらを窺う。
困ったような表情で口元を緩めた百合は、軽く肩をすくめた。
「どうしてあんな風になっちゃったのかしらね」
何故か椿は昔から姉の百合に対して並々ならぬ対抗心を持っている。
容姿は対照的な二人ではあるが、それぞれに美しいと誰もが口を揃えて言う。けれども常に冷静で落ち着いた性格の百合に対して、椿は気性が激しく人に甘えるのが上手い。
百合が隣の集落にある庄屋の息子に見初められて嫁いでからというもの、椿は元から派手だった男遊びが盛んになり、尚更二人の仲は悪くなったのだった。
「思いがけずおととさんのお世話を美桜一人だけに頼む事になってしまって、ごめんね。私も出来る限り手助けするから。今は……この子が居るから役に立たないけど」
まだ子を宿したと分かったばかりで無事に産めるかわからないからと、百合は義両親と夫、マツ以外に自らの懐妊を黙っていたと語り出す。
けれども本当のところは、自分の知らない所でひどく辛い思いをさせていた美桜に、幸せな報告を言い出しにくかったのかも知れない。
「いいの。百合姉さん、どうか丈夫な赤ちゃんを産んでね。おととさんが動けるようになったら、一緒に戻って来るから」
健気な美桜は妊婦の百合を励ますように明るく言う。そして妹思いの姉も、当分の生活に困らない程度の金子をそっと持たせたのだった。
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