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19. 惹かれ合う二人
しおりを挟むひと月ほど前、店で発作を起こした後に産土神から言われた事が、美桜はずっと頭から離れないでいた。
――「忘れたのか? ワシは産土神じゃぞ。ワシが守護するあの土地で起きた事は誰よりも知っておる。その上でワシは美桜をここへ呼んだのじゃからな」
産土神は土地の神。だからこそ、あの土地を仕切る庄屋の寛太郎ともごく親しい。むしろ代々庄屋の当主と産土神は、あの土地を守る為に協力関係のような状況にあるのだろう。
「どうして私を……」
ここのところ美桜は店の手伝いと弥兵衛の世話に追われながらも、ずっと同じ疑問を抱き続けていた。
あれから産土神はそれ以上の事を話してはくれなかったし、弥兵衛に尋ねてみてもそれは分からないと言うのだ。
「美桜さん……美桜さん」
いつの間にやら思考の海にどっぷりと浸かっていた美桜を、遠夜の声が引き上げる。
「は、はい。すみません」
慌てて顔を上げた美桜を、少し離れた所で下拵えをしていた遠夜がじっと見つめていた。
「体調でも悪いのですか?」
「いいえ、そんな事はありません。少し考え事をしていたのです。ごめんなさい。何でしょう?」
「もうそろそろ足踏みは終えてもいい頃かと思いますよ」
「あっ! ごめんなさい! そうですね!」
知らず知らずのうちに考え事をしていたが、今は遠夜が作った小麦粉と塩を混ぜたうどん生地をゴザで包み、美桜が足踏みの工程をしているところだった。
讃岐うどんはこの足踏み工程が非常に大切で、時間をかけてしっかりとうどん生地を踏み締め、ある程度鍛える事であの独特なしっかりとした噛みごたえのある食感が作り上げられるのである。
「うちではもっぱらおととさんがうどんを打っていたので、私達姉妹は何も知らなくて。うどんの足踏みというのは、なかなか大変な作業なのですね」
足踏みしたうどん生地を遠夜が丸めて大きな団子状にする。そしてまたゴザを被せ、そのまま様子を見ながらしばらく寝かせるのだ。
「大変なのは足踏みだけではありません。土三寒六常五杯と言って、季節の温度変化に合わせて生地の塩加減も変えます。そして、寝かせる時間の見極めも大切なのです」
「どさんかんろくじょうごはい……ですか」
まるでお経のような不思議な言葉を繰り返す美桜に、遠夜は穏やかな声色で笑う。
二人の距離は以前よりも確実に近付いているようだった。
「夏の土用頃には塩一杯を水三杯に溶かして濃いめの塩水に、寒い時期は六杯の水で溶かして薄めの塩水に、春と秋は塩一杯を水五杯で溶いた塩水が、うどん生地作りにちょうど良いという教えです」
「そんなにも難しい塩加減なのですね。知りませんでした」
「私も昔々に産土神から教えられて知ったのです。何かまじないの言葉のような、不思議な響きだと思いませんか?」
「ふふふ……私も同じような事を思っていました」
常に穏やかな物言いの遠夜との会話にも、半月も経てば美桜はだいぶ慣れて来た。
これまでは男好きの椿と違ってまともに若い男と言葉を交わして来なかった美桜だったが、遠夜とは気負わずに話す事が出来ている。
それに少し前まで恐怖感や違和感のあった牛の頭蓋骨の面も、今では特に気にならなくなっているのだから不思議な事だ。
むしろその面の奥に垣間見える遠夜の瞳や、時折赤くなる耳や首元、面の内側で発せられるくぐもった笑い声は、美桜にとって好ましいものになりつつある。
「それではうどん生地を寝かせている間に、朝食と出汁の支度をしてしまいましょうか」
「はい!」
初日に美桜が厨房へ来た時は、遠夜が既にうどんを切るところだった。
そこで昨日からは美桜も遠夜の起きる時間に合わせて、うどん生地を作るところから手伝わせて貰っている。
やがて味噌汁と握り飯という朝食を作り、遠夜は厨房で、美桜は弥兵衛の所へ持って行く。
親子二人で仲良く朝食を摂ってから、美桜は半身が不自由な弥兵衛の世話を以前よりも楽に、手際良く終わらせた。
そうして美桜はまた厨房へ戻り、麺切りや仕込みなどをしている遠夜の手伝いをするのだ。
美桜は弥兵衛の世話と店の手伝いを毎日しっかりしていても、ちっとも身体が辛くはなかった。
それもこれも産土神から貰った丸薬の他に、店を訪れた僧侶の格好をしたあやかしが分けてくれた漢方薬のお陰で、常に苦しめられていた朝晩の発作がほとんど起こらなくなったからだ。
「美桜さんの咳はとても辛そうでしたから、良くなって本当に安心しました」
「私もあんまり楽になったので驚いています。以前は咳で夜も良く眠れず、寝られたと思ったら今度は朝方も苦しかったので」
強がりなどではなく、本当に近頃の美桜は身体が軽く感じられ、常日頃付き纏っていた気だるさのようなものも無くなっている。
その上にこけていた頬の辺りをはじめとして、心なしか美桜の身体は健康的にふっくらとしてきていたのだった。
「咳というのは存外に体力を奪い、段々と痩せ細らせてしまうのだと産土神が話していましたが。近頃は美桜さんがここに来た時よりも、ほんの少しふっくらとして来ましたか……」
そう言って美桜の頬へと手を伸ばそうとした遠夜は、指先が頬に触れる直前でビクリと震え、さっと手を引っ込める。
美桜は伸ばされた手から逃れようともせず、ぼうっと遠夜の方を見ていたので、伸ばされた手が引っ込められた瞬間にハッとして目を見開いた。
「すみません! つい……!」
「い、いえ……」
美桜は顔を真っ赤にして視線を下げ、遠夜はふいっと他所を向く。
遠夜の首筋や耳は行灯の薄明かりでもはっきり分かる程に真っ赤に染まっていて、顔を隠す面が無ければこの場に立っているのも耐えられないようだった。
そもそも異性というものに慣れていないうぶな二人が、毎日朝から晩まで顔を合わせていれば意識し合ってしまうのも仕方がない事だろう。
「どうかしていました。私のような罪人が美桜さんのように穢れがない人に触れる事など、到底許される訳が無いのに……」
ひとときの沈黙が落ちた後、大きく息を吐いた遠夜が泣き笑いのようにも聞こえる声で呟く。
パッと顔を上げた美桜は、つい先程までの恥じらいも忘れて聞き返した。
「罪人……?」
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