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26. 赤シャグマ
しおりを挟むもうすっかり麺処あやかし屋の看板娘として板についていた美桜は、完全に油断していた。
「いらっしゃいませ!」
「う……、わぁ! お前、人間じゃないか。どうしてこんなとこに?」
やって来たのは燃え立つような赤い髪を持つ幼子だった。金色に光る目が三角に吊り上がり、ギラリと美桜を睨み付ける。
背丈は美桜の半分程なのに、その幼子の発する殺気のようなものは容赦なく美桜を襲った。
「訳あってこちらでお手伝いさせていただいております。美桜と申します」
美桜は震える声で名を名乗る。これまでの客と違って、相手は美桜に今にも噛み付いてきそうな勢いで睨みつけているのだ。
しかし相手が異形だからと言ってただ怖がっては失礼だと常々思っていた美桜は、他のあやかしや物怪達と同じように礼儀を持って接しようと息を整える。
けれども幼子の言動から伝わる嫌悪感は、懸命に平静を保とうとする美桜の身体に次々と突き刺さるような心地で、背中がヒヤリと冷えて行く。
それでも美桜は笑顔を作って声を振り絞った。
「お席にご案内いたします」
「はぁ? 人間が⁉︎ おい、遠夜! 一体どういう事だ? 俺はこの世で一番人間ってやつが大っ嫌いなんだよ! 知ってるだろ!」
美桜が働き始めてから、もう何度かは繰り返されてきたこのやり取りではあったが、こうまで強く言われると段々と不安になってくる。
人間の自分はこの店に相応しくなく、あやかしや物怪からすれば自分がここに居る事自体が不快なのでは無いかと落ち込んだ時期もあったからだ。
これまでのあやかしは遠夜が経緯を説明してくれてすんなりと納得してくれたものの、どうやら目の前にいる者は極度の人間嫌いらしい。
美桜はここまで激昂する相手にどうすれば良いか分からず、とうとう身体を縮こませ、口を噤んでしまう。
「こら! 赤シャグマ、失礼な物言いはやめろ。その人は弥兵衛さんの娘さんだ」
と、すぐに遠夜が厨房から飛んで来る。美桜はその時、泣きそうな程安心したのだった。
店内に居た多くの客は、面白い見せ物が始まったとばかりに黙って様子を窺っているようだ。
赤シャグマというあやかしは、前から店ではこんな風な態度だったのかも知れない。
「はあ? 弥兵衛……って、あの中風になったっていうおっさんか。あんな奴、さっさと山に放り出しちまえ。そんで、その娘が何でお前の店を手伝ってるんだよ?」
赤シャグマは幼子に似つかわしくないとても意地悪な顔をして、チッと舌打ちをする。
そして人差し指の長い爪を親指でピンと弾くようにして、沸き立つ苛立ちを分かりやすく周囲に示していた。
「赤シャグマには関係が無い事だ。それよりも、お前はこの店を出入り禁止にしたはずだろう」
「うるせぇな! 俺はうどんが食いたいから来たんだ! 出入り禁止にしたのだって、お前が勝手に……!」
「それは赤シャグマが弥兵衛さんに手を出そうとしたからだ」
「だから俺は人間が大っ嫌いなんだよ! 俺の馴染みの店に人間が居るってのが許せねぇ! 嫌なんだ! その人間を消そうとして何が悪い⁉︎」
知らず知らずのうちに美桜は後退りして、赤シャグマから距離を取っていた。
赤シャグマは人間を嫌っているのだ。それも、ここに迷い込んだ弥兵衛をどうにかしてしまおうと思う程。
美桜の膝が笑い、手足の先が氷のように冷たくなる。背筋にゾクゾクと何かが駆け上がって来る。
初めて感じた目前の強い恐怖というものに、美桜は慄いていた。
古来から人間が恐れてきたあやかしや物怪の本質というものに触れた気がして。
「それじゃあお前は……私の事も消したい程嫌いなんだな。人間と、牛鬼の合いの子である私の事も」
底冷えするような遠夜の声は、ざわつく店内でやけにはっきりと響く。
「は……? そんな事は誰も言ってないだろうが! 話をすり替えるな!」
感情というものをすっかり無くしたような声をした遠夜に、赤シャグマは明らかに動揺していた。髪の毛だけでなく、顔まで火のように真っ赤になっている。
「出て行け、赤シャグマ」
美桜はあんまり冷たい遠夜の声に、ビクリと身体を揺らす。
今も遠夜の顔を覆い隠す牛の頭蓋骨の面、その向こうにある表情は分からない。
「な……な……な……なんだよ! 遠夜! 友の俺より人間の女を選ぶのか? その女に上手く誑かされたのかよ! 女にうつつを抜かすなんて、お前らしくないぞ!」
赤シャグマの発する、ギリギリという歯軋りの音が辺りに響いている。
その場に居合わせた皆が息を呑んで二人のやりとりを見守っていた。この場に産土神や山の主のような者がいれば、また違った展開になったかも知れない。
「赤シャグマ、何度も言わせるな」
「人間の女に騙されるなんて、まるで白峰山の天狗じゃねぇか! あの天狗野郎みたいに、その女を嫁にでもするつもりかよ! おい、人間の女! お前よくも遠夜を誑かしてくれたな!」
ダン! と赤シャグマが地団駄を踏む。ギラついた金の目が震える美桜の姿を捉えた。
「人間の女に絆された牛鬼の倅を、また人間の女が誑かすなんて皮肉は、全っ然面白くなんかねぇんだよ!」
すると同時に赤シャグマの方へと遠夜が足を踏み出す。あっという間に距離を詰め、幼子の姿をした赤シャグマの頬を平手で叩いた。
鋭い音が短く響き、突然の事に何が起こったか分からない赤シャグマは呆然となってしまう。
「出て行け。もう二度とここへは来るな」
遠夜は動けないでいる赤シャグマの身体を店の外へと押し出し、何も言葉を発しないまま厨房へと足早に戻って行く。
自分のせいで揉め事が起こったのだと思った美桜は、遠夜を追いかけるようにして慌てて厨房へと向かったのだった。
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