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27. 重なり合う二人の影
しおりを挟む「遠夜さん!」
すぐに厨房へ駆け込んだ美桜は、釜の前で手のひらをじっと眺める遠夜の姿を見つけ、その場に立ちすくむ。
いつもと違って無造作に置かれた天ぷらの具材や、土間に転がったうどんてぼで、美桜が赤シャグマに絡まれているのを見た遠夜が慌てて駆け付けたのが手に取るように分かる。
「ごめんなさい。私が居たせいで、迷惑を掛けてしまって」
確かに赤シャグマから発せられる殺気は恐ろしく、美桜は背筋が凍る思いがしたが、きっと赤シャグマも遠夜の大切な家族の一人なのだ。
「美桜さんは悪くありません。赤シャグマは元からこの店に来るのを私が禁じていましたから。それを破って来たのですから、私が怒ったまで」
「でも、貴方の手は……心は、今とても痛むのでしょう」
「別にそんな事はありません。あれは赤シャグマが悪いんですから」
美桜は俯いたままの遠夜の元へと近付き、赤くなった手のひらをそっと自分の手で包み込む。
遠夜の手は熱を持ち、少し腫れているように思えた。
「それは嘘です。遠夜さんは今手を上げた事を後悔して、苦しい思いをしているのでしょう」
「美桜さん……」
「私、あれから遠夜さんとはどこかぎこちなくしか話せなくなってしまって、これからどうしたら良いか分からなかったのです」
すっと遠夜から手を離した美桜は土間に転がったうどんてぼを拾い、洗い始める。
遠夜は黙って美桜のする事をじっと眺めていた。
「赤シャグマさんを怒らせてしまったのも、遠夜さんを悲しい思いにさせたのも、心から申し訳なく思っています」
「絶対に、美桜さんは悪くありません。だから謝らないでください」
美桜の切なげな横顔に堪えられなくなったのか、遠夜は洗い場に近付くと必死の形相で美桜に訴える。
「でも……お陰でこうして遠夜さんに手を握って貰えて、近くに寄って貰えて嬉しいです」
「あ……」
知らず知らずのうちに、遠夜は美桜の細い手首を握っていた。
あれからというもの、自分から近くに寄るのも避けていたというのに、いつの間にやら手を伸ばせばその頬にすぐ触れられそうな位置まで近付いている。
「す、すみません! つい!」
慌てて美桜の手首を掴んでいた手を離し、距離を取ろうとする遠夜の腕を、今度は美桜が掴んだ。
美桜の濡れた手から遠夜の腕を水滴が伝って、袖口を濡らす。
「遠夜さん、私を避けないでください。急に好きだと言って困らせてしまった事は謝ります。でも、お願いですから避けないで」
「美桜さん……私は……」
「普通にしていてください。これまでと同じように」
「でも……」
「私の気持ちに応じてくださいとは言いません。ですから、よそよそしくせずに、これまで通りに接して欲しいのです」
大人しく控えめな性質の美桜が、どうしてこの時はこんな風にはっきりと気持ちを伝える事が出来たのかは分からない。
けれども赤シャグマに絡まれた美桜を何を置いてでも助けに来てくれた遠夜の事が愛おしくて堪らなく、ずっと心に思っていた事を口にする追い風になったのかも知れない。
「分かりました……。すみません」
そう面の中でくぐもった声を発した遠夜は、うどんてぼを洗い終えて客席の方へと向かった美桜の背中をしばらくの間見つめていた。
そして美桜はというと、客席で美桜を巡った遠夜と赤シャグマのやり取りを常連客やその他の客達に面白おかしく揶揄われながらも、笑顔でかわしていつも通りに仕事をこなしていく。
「それにしてもよ、昼間はだいぶ暖かくなってきたよなぁ」
「もうすぐ春だもんなぁ」
「春になったら筍の天ぷらが美味いぞ」
「おうおう、確かに楽しみだ」
あやかし達にとってあの赤シャグマの癇癪はいつもの事なのか、そのうち話題は別事へと移り変わっていったのだった。
そしてその日も無事に店じまいした後、厨房で明日の仕込みをしていた美桜の名を、遠夜がいつもにも増して真剣な声で呼んだ。
「どうしました? 何か手順を間違えていましたか?」
「いいえ、手順は合っています。ただ、美桜さんに伝えたい事があって……。聞いてもらえますか?」
遠夜に教えて貰った通りにうどん生地を作っていた美桜が、懸命に捏ねていた手を止めて顔を上げる。
「はい」
ぼんやりとした行灯の明かりが、遠夜が付ける面のてっぺんにある角の影を、大きく壁に映していた。
それは真っ黒な色をした二本角の鬼の影のようにも見える。
「美桜さんは私の事を……その……特別に思っていると言ってくれました。けれど私は罪人の息子で、生まれた時からあやかしや物怪と生きてきたので、そういった気持ちとは無縁だと思っていたのですが……」
遠夜が面の縁に手を掛ける。いつかの夜にしたように、けれど今度は躊躇う事なく再び美桜の前に素顔を露わにしたのであった。
「すみません。緊張して息が苦しくて……。それに、大切な話をするのに面を付けたままでは失礼だと思いました」
凛々しい眉に切れ長の瞳、すうっと通った鼻筋に薄い唇、誰が見ても美しいと褒め称えるであろう素顔を晒した遠夜は、美桜を真っ直ぐに見据える。
「私も、美桜さんの事が好きです。多分、初めて会ったあの日からずっと……」
「遠夜さん……」
「私のような者がこの気持ちを決して伝えてはならない、これ以上近付いてはならないと思うのに、純粋で無垢な美桜さんは私の決心を平気で揺るがせてきたのです」
いつもにも増して妖艶な声色の遠夜がことりと静かに面を台の上に置き、ゆっくりと美桜の近くへと近付いた。
美桜は金縛りにあったように動けず、遠夜のする事をただ見つめるしか出来ない。
「どうしてこんなに優しいのだろう。貴女という人は」
すぐ近くに感じる体温、息遣い。美桜はすっかり露わになった遠夜の素顔、その切れ長の瞳を見つめているうちに自然と喉がコクリと鳴った。
「人喰いの倅になど、貴女のような人は近付いてはいけないのに。私などが、貴女のような人に近付いてはいけないのに」
「遠夜さ……」
ひやりと冷えた遠夜の人差し指の先が、美桜の丸みを帯びた頬にほんの僅かに触れる。
美桜はその冷たさゆえか、それとも遠夜に触れられたからか、一瞬身体をビクリと揺らした。
そして顔の曲線をなぞるようにして遠慮がちに進む指が増え、とうとう遠夜の右手が美桜の左頬を包み込んでしまう。
はじめは冷たかった指の感触が、じんわりと熱を帯びたように美桜には感じられた。
「あやかしで罪人の癖に、異類の母を愛した父の気持ちが、今なら分かる気がします」
「本当ですか」
「はい。優しい貴女に罪人の私は相応しく無いからと、いくら諦めようと思っても、この気持ちはどうしようもないのですね」
「もう……諦めたりしないでください。私も貴方を諦めたりしません。ずっとそばに居たいです」
その言葉を皮切りに、ゆっくりと二人の距離が縮まって、美桜の視界は遠夜でいっぱいなった。
弥兵衛以外の男に抱きすくめられたのも、こんなに近くに寄るのも初めての事で、この期に及んでうぶな美桜は何も出来ないでいる。
「そうでなくとも、もう私は……きっと貴女を逃してあげられないと思います」
そう言って遠夜は美桜の唇に己のそれを重ね合わせた。ほんの僅かにだけ触れ、そしてもう一度。
心地良い体温の重なりに誘われるように、美桜は自然と瞼を閉じ、遠夜から与えられる口付けを受け入れたのだった。
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