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28. 千手観音菩薩
しおりを挟む数日後、美桜は一日休みを貰った。その間の弥兵衛の世話はあやかしの有志達が申し出てくれたので、有り難く甘える事にしたのである。
「それでは、行って参ります」
千手観音が祀られている寺の敷地に入る事が出来ない産土神は、少し離れた所から美桜を見送った。
山深いこの場所に存在するこの根香寺は、花蔵院と千手院の二院から成り立っている。
まずは五色の名の付いたこの山々に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師が、密教修行の地として此処に五大明王を祀った花蔵院を建立したのが始まりであった。
その後智証大師が訪れたとき、霊木から千手観音像を彫造して千手院に祀った。霊木が香木だった事から、この寺は根香寺という名になったという。
立派な門を抜け、本堂へと続く石造りの急な階段を、美桜は無心で登り続ける。
美桜の他に人影は一つもない。辺りは木々のざわめきと、鳥の囀りだけに包まれている。
はやる気持ちを抑えつつ、美桜は目的の千手院へ向かう途中で花蔵院へ寄って五大明王にお参りする。そして、やっとの事で千手観音が祀られている千手院へと辿り着いた。
「辿り着いたはいいけれど、どうしたら……」
寺の外で待つ産土神は「行けば何とかなる」と言ったが、先程のようにただお参りするだけでは駄目だろう。
美桜は此処にある牛鬼の角を取りに来たのだから。
「中へ入りなさい」
不思議な声だった。美桜の頭の中に直接語りかけてくるような穏やかな声がしたのと同時に、お堂の扉が静かに開く。
誘われるがままに美桜は中へと足を踏み入れた。
目の前に鎮座する千手観音像は美桜よりも大きい。当然ながら観音像の口元や身体が動いている気配は無く、どこから声がしているのか分からない美桜は戸惑ってしまう。
「もっと奥へ」
また声が聞こえ、美桜が躊躇いつつお堂へと入るなり、背後でパタリと小さな音を立てて扉が閉まる。
同時に、一瞬にしてこの場所が外と完全に遮断されたような気がした。
まだ早朝。格子窓から入る明かりだけでは薄暗く、お堂の中では蝋燭の炎がチラチラと揺めきながら並んでいる。
豊かな白檀の香りが美桜を包み込み、昂る気持ちを落ち着けてくれた。ゆらゆらと白煙を燻らせている線香の香りだろう。
「名を」
頭の中に響く声から短い言葉で尋ねられ、戸惑いつつも美桜は素直に答えた。
「美桜と申します」
「美桜。ああ、美しい名だね」
「あ……ありがとうございます」
美桜に声の主の姿を確認することは出来ないが、すぐ近くに空気が澄み切った朝のような、何だか心地良い気配を感じる。
「私はこの国で千手観音と呼ばれているもの。サハスラブジャ・アヴァローキテーシュヴァラとも、あるいはまた別の神の名でも呼ばれている」
穏やかで優しいけれどどこか恐ろしい。不思議な声を聞いているうちに美桜はその場に跪き、千手観音の像に向かって頭を低く下げていた。
「余談だが、目の前にある像は人々が信仰する為に作ったただの仏像でしか無く、そこに私は居ないよ」
くくく、と喉の奥で笑うような声がする。
ぶわり、と美桜の全身の毛が逆立つような感覚がし、同時に何かが美桜の頬を、頭をサラリと撫でた。
「顔をお上げ」
「は、はい」
産土神や山の主、それに麺処あやかし屋には名だたるあやかしや神も客として訪れている。
それとは全く違う、思わず不安になるような圧倒的な力を美桜は感じ取っていた。
自然に美桜の細い手が震える。指先が冷たくなるのを感じながらゆっくりと顔を上げた美桜は、千手観音像を背後にして立つ異様な人影を視界に収めたのである。
千手観音の皮膚は藍色に近い程青い。しかし数えきれないほどある手のひらだけは薄桃色のような肌色をしており、それらにはもれなく人と同じ形の眼があった。
美桜を見下ろすその顔は非常に彫りが深く、鼻が高い上に目が大きい。
美しい女のような顔とは裏腹に、見た事がないような意匠の着衣に隠された身体は筋肉質で男の身体のようだ。
「産土神が遣わした可愛い娘。お前も牛鬼の角が欲しいのかい?」
「はい! どうしても牛鬼の角が……記憶が必要なのです!」
「牛鬼の子の為に、かい?」
「はい。遠夜さんの為に、牛鬼が人間を食べたりしていないという証拠が必要なのです」
それぞれがバラバラの動きをする千手観音の手に意図せず目が釘付けになりながらも、美桜は此処に来た理由を必死に訴える。
千手観音は黙って話を聞き、美桜の視線に気付くとまた喉の奥でくぐもった笑い声を上げた。
「ふぅん。随分と前に産土神がそんな事を言っていたけれど、その時私は角を渡さなかった。何故だと思う?」
楽しそうに、歌うように告げる千手観音の言葉に、美桜は身体をギュッと強張らせる。
思わせぶりな千手観音の態度は美桜を急に不安にさせたのだ。
千手観音の口ぶりからして、万が一にも美桜や産土神の求めているものと実際に起きた事が違っていればと思ってしまう。確かな真実を知るまで、どうしたって恐ろしくて堪らない。
「分かりません。どうしてでしょうか?」
震える声で答えた美桜の頬を、千手観音はニ本の手を使って捕える。
人間とは違う青い色をした手で、何度も美桜の柔らかな頬を撫でさすった。それはさも愛おしそうに、まるで我が子を慈しむような動作で。
「人々の苦しみの声を聞き、その人に合った救いの手を差し伸べる。そして、生きとし生けるもの全てを漏らすことなく救済するのが私の慈悲」
千手観音の言葉に、何故か美桜の眼からは自然と涙が溢れていた。
胸の奥から溢れてくる、大波の激しいうねりのような感覚。
それはきっと、千手観音菩薩のとてつもなく偉大な慈悲の心を前に、小さな慈悲しか知らない人間が感じた畏怖の念から来るものかも知れない。
美桜の涙を青い指先で掬い取った千手観音は、穏やかな笑みを浮かべて言葉を続ける。
「だからこそ、美桜が来るのを待っていた」
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