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39. 月夜の逢瀬
しおりを挟む美桜と弥兵衛が庄屋の家に滞在してから、はや五日目の夜だった。
あと五日程したら庄屋にいとまを告げて、隣の集落にある家へと向かう予定にしている。
ここのところの美桜は、弥兵衛と共に百合や甥っ子の相手をするだけの、のんびりとした日々を過ごしていた。
美桜にしてみればこんなに長く仕事らしい仕事をしないのは久しぶりの事で、大して疲れていないせいか、二、三日前からどうにも寝付きが悪くなっている。
「綺麗……」
眠くなるまで星でも愛でようと、与えられた部屋の縁側から空を見上げてみた。
白っぽい月が濃紺の空にポツンと浮かび、金平糖にも似た星の煌めきがチカチカと瞬いている。
夏の夜空は遠夜がいつも身に付けている前掛けに色が似ていて、美桜は急にもの寂しさを覚えてしまう。
「遠夜さん、一人で平気かしら」
思わず呟いてみたものの、よく考えてみたら美桜が手伝いをするまでは遠夜一人で店をやっていたのだ。
そこへ考えが至った瞬間、何だか自身が口にした事が滑稽に思え、一人で苦笑した。
「……馬鹿みたい」
たった数日離れただけで寂しさを覚えているのは、紛れもなく自分の方なのだと美桜は思う。
家族よりも短い期間しか共に過ごしていない相手だというのに、もう遠夜に会いたくて堪らないのだ。
「会いたい」
とかく恋というのは不思議で厄介なものだと、この時強く実感する。
まだ山から下りてたったの五日。美桜は柱に身体を預け、目を閉じた。
昼間はじっとり汗ばむくらいに暑いが、夜になると風は涼しく心地良い。
するとあんまり焦がれていたからか、風に乗って微かに美桜を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「美桜」
空耳だろうと思いつつもゆっくりと瞼を持ち上げた美桜の視界に、黒々とした庭園の木々に隠れるようにして立つ遠夜の姿が映る。
「遠夜さん……?」
満月に近い月光のお陰で、影だらけの庭園でもその姿ははっきりと確認出来たのだ。
遠夜は夏らしい浅葱色の着流し姿で、たすき掛けはしていない。以前、よく似合うと褒めた事がある着物だったので、美桜が見間違えるわけがなかった。
「たった五日で会いに来てしまうなんて、情けない男だと君は笑うだろうか」
そう大きくはない声のはずだったが、美桜にははっきりとそう聞こえた。
「遠夜さん……っ」
美桜は踏み石の上に揃えられていた草履を突っ掛けるようにして履き、月明かりの庭園を早足で進む。
贔屓の植木屋が丹精込めて仕立てている立派な松の木の下で、美桜は遠夜と向き合った。
「どうして……」
「三日目までは何とかなった。でも、四日目……五日目となると、どうしても店で美桜の姿を探してしまう」
遠夜は未だ驚きと喜びの入り混じった表情をした美桜の手を取ると、華奢な手のひらを自らの頬に当てる。
月夜に照らされた遠夜の端正な顔立ちは、何故かいつもより際立って見えた。
「私も……遠夜さんに会いたいと思っていました。まだほんの少ししか離れていないのに」
恥ずかしそうにそう告げた美桜に、遠夜はスッと目を細め、口元に綺麗な弧を描く。
やがて頬に当てた美桜の手を自分の口元へ持って行くと、そのまま手のひらに口付けたのだった。
「あ……」
美桜は手のひらに身体中の熱が一気に集まるのを感じ、思わず声を漏らす。
それを見て遠夜が満足げに笑うものだから、美桜は恥ずかしくなって視線を逸らせた。
「美桜が私と同じ気持ちだと知って嬉しい。それだけでも山の主様に連れて来てもらった甲斐があったというものだ」
やっと美桜の手を離した遠夜は、そう言って青峰山のある方へと目を向ける。
「山の主様に?」
「ああ、ほんの少しでいいから美桜の顔が見たいとぼやいていたら、『うどん十杯をタダにするなら連れてってやる』と言われた」
ここで美桜は何故か人間の姿を取り、意地悪げな表情で腕を組む山の主を思い浮かべ、何だか可笑しくて笑ってしまう。
「それじゃあ山の主様は、外で待っているのですか?」
「いや、気が済んだら呼べと言われている」
「ふふ……山の主様は駆けるとすごく早いですものね」
こんな何気ない会話でも美桜の心は浮き立って、先程まで感じていた寂しい気持ちはすっかり霧散した。
「ありがとうございます。お仕事でお疲れなのに会いに来てくださって。また明日早いでしょう」
暫く言葉を交わしたところで、美桜はそう切り出す。
自分は明日も特に仕事を与えられているわけでは無いが、遠夜の方はそうもいかない。
また朝早くからの仕込みもあるのだからと、そう思っての事だった。
「ああ、そうだな。まだここに暫く滞在するのか?」
「はい。あと五日したら、庄屋さんが駕篭を手配してくださるというので、それで家に戻るつもりでいます」
山の主はまた呼べば背中に乗せてやると言っていたが、せっかくの庄屋の好意も無碍に出来ないと、百合の勧めもあって甘える事にしたのだ。
「そうか。それならまた近いうちにもう一度こちらへ来る」
「え……良いのですか?」
「ああ。うどん十杯で美桜に会えるなら、何度でも山の主様に頭を下げよう」
そう言って遠夜は懐から小さな笛のようなものを取り出すと、口に咥えて吹いた。
いや、正確には吹く動作をしたけれど不思議とそこから音は聴こえない。
「それは?」
「山の主様を呼ぶ笛だよ。人間の耳には聴こえない音だ」
ほんのひとときの間を置いて、突然ザァとつむじ風のような強い風が巻き起こる。
髪が乱れ、美桜は思わず目を瞑った。
「美桜、また来るよ」
耳元で遠夜の声がする。
そして次に目を開けた時には目の前に居たはずの遠夜の姿は無くなっていて、先程のつむじ風がまるで嘘のように、辺りは夏の夜の静かな風景を取り戻していたのである。
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