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第五話 初恋の味

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「痛いっ!」
「ご、ごめん……」

 初めてのキスの味、なんていうものはなく、最初は前歯を楓の唇に当ててしまった。
 慣れていないことと、高さ、極度の緊張。そんな要因が合わさって初めてのキスは失敗してしまった。

「もう。──そうだ、跪いて?」
「女王様?」
「そうじゃなくて。私からするの。高さ合わないでしょ? ──目をつぶって?」

 ショッピングモールでする体勢じゃない。
 でも素直に従ってみる。
 膝立ちの状態で、目をつぶる。
 顎の輪郭に楓の手が沿っているのがよくわかる。
 冷たいのに温かい不思議なもの。少しだけくすぐったい。
 
 楓は今どんな表情なのだろう。
 やっぱり赤い顔をしているんだろうか。
 それとも意外と余裕があったりするのだろうか。──いや、そんなことはないだろう。さっきだって震えていたのだから。

 初めてのキスは何の味もしなかった。
 唇だけがくっついただけだからだと思う。
 とても柔らかい感触。
 物理的にはなんてことないし、味もない。
 だけどとても幸せな気持ちになった。
 手を繋いだ時も思った。誰かの体温を知ることは幸せなことなのだと。
 体が熱く、心拍数が尋常じゃないことになっているのが自分でわかる。いま測定すれば確実に異常と表示されるくらい。

「どう?」
「どうって……」

 幸せに思ったよ。
 ──そんなことを言えるようなキャラじゃない。
 ふとあのバカップルを思い出す。
 あの二人はこういうことを言い合ったりするんだろうか。
 ──楓には悪いけど、僕にはできそうにない。

 顔を見合わせたまま、なんとなく恥ずかしい空気だ。
 楓は僕から目をそらさなかった。まん丸な目が僕の方を真剣に見つめていたのだ。だから僕の方からそらす。いくら何でも恥ずかしすぎた。
 今僕はどんな顔をしている?

「一回じゃよくわかんないね?」
「──うん」
「今度は目を開けたまましてみよ?」
「それはちょっと恥ずかしいよ……」
「そういうのは女の子のセリフだよ?」
「そうかもしれないけど……」

 キスしていない時でさえ恥ずかしいのに。
 楓は思ったよりも大胆と言うか、付き合う前とは印象が変わった。
 女の子らしいそぶりを見せるくせに、積極的なところもあるらしかった。

「目、閉じないでね?」

 そう言って楓は唇を寄せてきた。
 さっきよりも長く、強く。
 顔を傾けているので片目しか見えない。
 楓の目は少し涙ぐんでいるように見えた。
 大きく黒い瞳がこちらを見ている。
 虹彩は精巧なガラス細工のように、繊細で、美しいものだ。
 僕の瞳は彼女にどう映っているのだろう。
 聞きたいことがたくさんある。知りたいことも、山ほどある。

 こんなムードは現実味がなくて、なぜだか笑ってしまう。
 僕が笑ったのを見て彼女は少し不機嫌そうだった。
 
「──せっかくロマンチックだったのに」
「ごめんごめん、なんか信じられなくて」
「それはわかるけどっ」

 ちょっと不満げだ。
 しかし、顔は赤く、照れ隠しのようにも見えた。

「──好きだよ、ホントに」
「ずるい。そうやってごまかそうとしてる?」
「してないよ。言いたくなったんだ。楓が僕の初恋だから」
「──ごめんね? 私は多分、お父さんが初恋」
「それは初恋って言うのかな?」
「……言わないかも」
「じゃあ僕が初恋だったりする?」
「……うん」
「前に言ってたもんね。助けてもらった時が初恋って」
「な、なんでそういうことは覚えてるのっ!」

 カーっと顔を赤くし、後ろを向いてしまう。
 きっと興味なんてないのだろう吹き抜けの下を眺めているふりをしていた。
 父親が初恋というのは、楓の照れ隠しだ。前に僕が初恋の相手だと聞いてよく覚えていた。考えれば考えるほど、自分がかなり前から楓を好きになっていたのだと自覚する。前までの僕なら興味を持たず、楓の発言は聞き流していただろうから。
 僕も相当恥ずかしいけど、キスの感想を言うことにした。
 
「──甘かった」
「え?」
「初めてのキスの味。さっきのコーヒーみたいなやつのせいかな? キャラメルっぽい味」
「い、言わないでよ、そういうのはっ」
「僕さ、──覚えてる? こないだ見たバカップル」
「あ、あー、あの恥ずかしいこと言ってた人たち?」

 恥ずかしいこと、それがどういう意味なのかは聞かない。
 キスなんてした後のせいで、意識してしまっているのかもしれないから。

「そう。ああいうの恥ずかしいし、どうかしてると思ってた。だけどさ、言いたくなっちゃうもんなんだね」
「祐樹くん、思ってたのとちょっと違うね? そういうこと言うと思わなかったよ」
「僕も僕が思ってたのと違うよ。──楓といるとどんどん変わる。知らなかった気持ちも一杯教えてもらった」
「そ、それは私もそう。こういうのが恋なのかな」
「だったら、素敵だね、なんというか」
「素敵だよ。だって恋をしたら世界は変わるんだよ?」

 満面の笑みで言う楓を見ていると本当のような気もする。
 ──少なくとも僕の世界は変わった。
 一人で過ごしていた世界に色がついたのだ。箱の中だと思っていた世界にはたくさん扉があるのだと知った。
 僕の知らなかった誰かの世界と交わって、目まぐるしく世界は変わり始めた。
 楓の世界も変わったのだろうか。──そうなんだろう。だからこそ、世界が変わるなんていうことを言えるのだ。少しでもいい方向に変わっていればいいけど。

 帰り道は少し肌寒かったけど幸せだった。
 星なんて眺めてしまう。──星座を覚えておけばよかった。こんな空気の時、誰だってそう思ってしまうのかもしれない。星がロマンチックだと。ソクラテスだってアルキメデス、デカルトだって、何百年も前の恋人たちも同じ光を見ていたのだ。
 手のつなぎ方は指を絡めた恋人つなぎ。楓からのリクエストだ。
 本で読んで、それを自分に重ねたりしたのだろう。
 
 手と心が温かい。
 今日が本当の意味での付き合いはじめ。
 罪悪感は完全にはぬぐえていないけど、それでも。
 
 彼女と過ごした日の日記帳をちゃんと書き始めた。
 空白の日記帳はもう終わりだ。
 これからは思い出にしていこうと思ったのだ。二人の思い出にしていこうと。
 書くことはいくらでもあった。
 どうせ誰に見せるものでもない。未来の自分くらいなものだ。だから、口では言えないような恥ずかしいことも平気で書く。──書いた後赤くなってしまうけど。

 多分、僕はわかっていた。
 胸の痛みが途中から罪悪感だけでなくなっていたことを。
 別れないといけないと思うと辛い気持ちになっていたことを。
 でも最初の嘘のせいで見ないふりをしてきた。好きになってはいけないし、なるべきじゃないと思ったから。
 自分が傷つきたくないから、これ以上好きになる前に終わらせたいと思っていたのだ。
 僕の心が壊れてしまわないように、無意識に感情を押し殺してしまっていた。
 嘘を吐き続けていた分、解放された気持ちもある。
 謝っても許されないかもしれないけど、今は本当に好きになっていると思う。
 一緒にいると心が温かくなるから。
 もっと一緒にいたいと思うし、二人で色々なことをしてみたい。
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