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伯爵様の元での生活
かつてのあなたと、今のあなた①
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私を後ろから抱きしめるこの人の本当の名は、レイディック・ハウエル。年齢は私より3つ年上で、20歳。
伯爵という爵位の家に生まれ、王都に広い屋敷を持つ名門貴族の1人。
────ということは、彼がこの村を去ってから知ったこと。
そしてついさっき、彼がここを『僕の屋敷』と呼んだということは、彼は家督を継ぎ、当主となったのだろう。
御年20歳の若きハウエル家の当主。これが今のレイディックの本当の姿。
【あなたはもう、伯爵様ですものね】
だから、あなたは雲の上の人。しがない村娘の私なんかが、気安く声をかけて良い人ではない。
そんな含みを持たせて言った…………つもりだったけれど───。
「えええっ、アスティア、知ってたの!?」
という、斜め上の返事をいただくことになってしまった。しかも、本当に驚いている様子で、目をくりくりとさせながら。
「えっと、そうじゃなくって…………」
慌てて口を開いたけれど、続きの言葉が見つからない。
だって、てっきり、ここで貴族らしく不遜な態度を取るか、もしくは、露骨に誤魔化すかの2択しかないと思っていたのに。
なのにレイディックからそんな反応をされてしまったら、こちらの方が狼狽えてしまう。
けれど、彼自身が自分の立場を認めたということなら、私もそれ相応の態度を取らなければならない。
「レイディック様は、私なんかを───」
「っぷ。アスティア、何、急に改まって。今更だよ。ははっ」
弁えた態度を取ろうと思った途端、レイディックは堪えきれないといった感じで、私の顎を掴んでいた手を離すと、自分の口元に当て吹き出してしまった。
そして私といえば、続きの言葉を言えないままになってしまう。
けれど、レイディックが笑ったのは一瞬で、すぐにムッとした表情で口を開いた。
「アスティア、二度と僕の事、そんなふうに呼ばないでっ」
「え?」
態度を急変させた彼は、今度はぷいっと不貞腐れた顔をして横を向いてしまう。
「………寂しいじゃないか。レイって呼んで良いのは、アスティアだけなのに」
顔を背かれたまま呟かれた言葉には、心からの寂しさが込められていた。
彼をそんな気持ちにさせてしまい、申し訳ないと思う。
でも、私はとても嬉しかった。けれど、身分差とは上位にいる者のほうが、その高低差を感じない。反対に下位にいる者は、その差をどうしても超えられない壁に感じてしまう。
もちろん私も後者。だから、レイディックからそんなふうに言われても、正直、そう簡単には頷けない………という事情があるのに、彼は私の頬に手を添えて、そっと耳元で囁いた。
「だからアスティア、お願い。今まで通り、レイって呼んで。ね?」
「……………………」
それでも返答ができず、もたつく私を見て、レイディックは突然、あっと声を上げた。
「わかった。アスティア、まだ寝ぼけてるんだね?」
「え?」
突然くるりと変わった話題に、思考がついていけない。
目を瞬かせる私に、レイディックは何かを思いついたかのように、張り切った声を上げた。
「よしっ、じゃあ、無理矢理起こすしかないねっ」
「えっ?────………ちょっ、ちょっと待ってっ」
掛布を勢いよく剥がされたと思ったら、身体がふわりと浮く。次いで急激に視界が高くなった。
少しの間を置いて、彼が突然、私を横抱きにして立ち上がったのだと気付く。
しかも、彼は私を抱いたまま、くるくると回り出してしまった。それは、目が廻る程の勢いで、私は慌てて彼の首に手を回した。
そうすれば、それが合図となったかのように、回転はゆっくりと止まった。
「おはよう。アスティア。目が覚めたかな?」
私を見下ろすレイディックは、とても無邪気な笑みを浮かべていた。そして、これは彼が仕掛けた優しい悪戯だと気付いた瞬間、もう駄目だった。
「ふふっ……………もうっ、レイったら」
こみ上げてくる笑いを止めることができなかった。
本当にこういうところは変らない。そして、あっという間に、慣れ親しんだ呼び名を口にした途端、レイディックは横抱きにしていた私を軽々と片側の腕に座らせるように抱いた。
「それに、ね?あの頃の僕なんかじゃないでしょ?」
彼が、ちょっと腕を揺らせば私も微かに揺れる。
けれど、彼の脚はぐらつくことはない。その長い脚は、しっかり地面に付いている。そして私を抱える腕も、重さに耐えられなくて震えることもない。
「ええ。そうね。あなたは変ったわ」
薄い肩はしっかりとした厚みとなり、青白い頬は引き締まった成人男性の色になった。
そして私を軽々と抱き上げている腕は、しなやかな筋肉が付き、その体躯は細さを残しながらも隆々としたもの。
改めて美しい青年に成長した彼を見て、ついついうっとりとした眼差しを向けてしまう。そんな私に、レイディックも同じ眼差しを返してくれる。
けれど、次に発せられた言葉は、期待を裏切られたようなものだった。
「アスティアは何も変わらないね」
「……………………」
図々しい願いだったのかもしれないが、女性と呼べる年齢になった私にも同じ言葉を返して欲しかった。
やっぱり、そっか。レイディックは王都の街で綺麗な女性を沢山、目にしてきたのだから。
そんな落胆と、諦めにも似た思いが心の中で渦巻く。
ただレイディックは私の気持ちになんか気付いてないのだろう。私を抱えたままベッドに腰かけると、再び口を開いた。
「このキャラメルみたいな髪の色も、アイリスの花のような蒼紫色の瞳も…………変わらないね」
懐かしさと甘さを含んだその口調に、そういう意味だったのかと、そっと安堵の息を漏らす。
それにしても、何気ない彼の一言一言に、敏感になってしまう自分が情けない。
俯いた私の肩から髪が一房、零れ落ちる。それをレイディックは掬い上げるように持ち上げると、そのまま口元へ運んだ。
「…………綺麗だよ、アスティア」
───トクン。
髪に口付けを落とされただけなのに、心臓が跳ね上がる。
でもきっと、レイディックにしたら、こういったことも、貴族の戯れの一つなのかもしれない。
そう思ったら胸が軋むように痛む。ただそれよりも、そんな卑屈なことしか考えられない自分がすごく嫌だった。
「レイ、そういう冗談は…………」
「まっ、というわけだから、あんな不用心なところにいるのは駄目だよ。まして女性2人だけで夜を過ごすなんてもっての外。今日からここが君の家。わかった?」
私の言葉に被せるように、レイディックに強引に言い含められてしまう。
そして、聞き分けのない子供を窘めるように瞳を覗き込まれれば、私は、うっかり頷きそうになってしまった。
伯爵という爵位の家に生まれ、王都に広い屋敷を持つ名門貴族の1人。
────ということは、彼がこの村を去ってから知ったこと。
そしてついさっき、彼がここを『僕の屋敷』と呼んだということは、彼は家督を継ぎ、当主となったのだろう。
御年20歳の若きハウエル家の当主。これが今のレイディックの本当の姿。
【あなたはもう、伯爵様ですものね】
だから、あなたは雲の上の人。しがない村娘の私なんかが、気安く声をかけて良い人ではない。
そんな含みを持たせて言った…………つもりだったけれど───。
「えええっ、アスティア、知ってたの!?」
という、斜め上の返事をいただくことになってしまった。しかも、本当に驚いている様子で、目をくりくりとさせながら。
「えっと、そうじゃなくって…………」
慌てて口を開いたけれど、続きの言葉が見つからない。
だって、てっきり、ここで貴族らしく不遜な態度を取るか、もしくは、露骨に誤魔化すかの2択しかないと思っていたのに。
なのにレイディックからそんな反応をされてしまったら、こちらの方が狼狽えてしまう。
けれど、彼自身が自分の立場を認めたということなら、私もそれ相応の態度を取らなければならない。
「レイディック様は、私なんかを───」
「っぷ。アスティア、何、急に改まって。今更だよ。ははっ」
弁えた態度を取ろうと思った途端、レイディックは堪えきれないといった感じで、私の顎を掴んでいた手を離すと、自分の口元に当て吹き出してしまった。
そして私といえば、続きの言葉を言えないままになってしまう。
けれど、レイディックが笑ったのは一瞬で、すぐにムッとした表情で口を開いた。
「アスティア、二度と僕の事、そんなふうに呼ばないでっ」
「え?」
態度を急変させた彼は、今度はぷいっと不貞腐れた顔をして横を向いてしまう。
「………寂しいじゃないか。レイって呼んで良いのは、アスティアだけなのに」
顔を背かれたまま呟かれた言葉には、心からの寂しさが込められていた。
彼をそんな気持ちにさせてしまい、申し訳ないと思う。
でも、私はとても嬉しかった。けれど、身分差とは上位にいる者のほうが、その高低差を感じない。反対に下位にいる者は、その差をどうしても超えられない壁に感じてしまう。
もちろん私も後者。だから、レイディックからそんなふうに言われても、正直、そう簡単には頷けない………という事情があるのに、彼は私の頬に手を添えて、そっと耳元で囁いた。
「だからアスティア、お願い。今まで通り、レイって呼んで。ね?」
「……………………」
それでも返答ができず、もたつく私を見て、レイディックは突然、あっと声を上げた。
「わかった。アスティア、まだ寝ぼけてるんだね?」
「え?」
突然くるりと変わった話題に、思考がついていけない。
目を瞬かせる私に、レイディックは何かを思いついたかのように、張り切った声を上げた。
「よしっ、じゃあ、無理矢理起こすしかないねっ」
「えっ?────………ちょっ、ちょっと待ってっ」
掛布を勢いよく剥がされたと思ったら、身体がふわりと浮く。次いで急激に視界が高くなった。
少しの間を置いて、彼が突然、私を横抱きにして立ち上がったのだと気付く。
しかも、彼は私を抱いたまま、くるくると回り出してしまった。それは、目が廻る程の勢いで、私は慌てて彼の首に手を回した。
そうすれば、それが合図となったかのように、回転はゆっくりと止まった。
「おはよう。アスティア。目が覚めたかな?」
私を見下ろすレイディックは、とても無邪気な笑みを浮かべていた。そして、これは彼が仕掛けた優しい悪戯だと気付いた瞬間、もう駄目だった。
「ふふっ……………もうっ、レイったら」
こみ上げてくる笑いを止めることができなかった。
本当にこういうところは変らない。そして、あっという間に、慣れ親しんだ呼び名を口にした途端、レイディックは横抱きにしていた私を軽々と片側の腕に座らせるように抱いた。
「それに、ね?あの頃の僕なんかじゃないでしょ?」
彼が、ちょっと腕を揺らせば私も微かに揺れる。
けれど、彼の脚はぐらつくことはない。その長い脚は、しっかり地面に付いている。そして私を抱える腕も、重さに耐えられなくて震えることもない。
「ええ。そうね。あなたは変ったわ」
薄い肩はしっかりとした厚みとなり、青白い頬は引き締まった成人男性の色になった。
そして私を軽々と抱き上げている腕は、しなやかな筋肉が付き、その体躯は細さを残しながらも隆々としたもの。
改めて美しい青年に成長した彼を見て、ついついうっとりとした眼差しを向けてしまう。そんな私に、レイディックも同じ眼差しを返してくれる。
けれど、次に発せられた言葉は、期待を裏切られたようなものだった。
「アスティアは何も変わらないね」
「……………………」
図々しい願いだったのかもしれないが、女性と呼べる年齢になった私にも同じ言葉を返して欲しかった。
やっぱり、そっか。レイディックは王都の街で綺麗な女性を沢山、目にしてきたのだから。
そんな落胆と、諦めにも似た思いが心の中で渦巻く。
ただレイディックは私の気持ちになんか気付いてないのだろう。私を抱えたままベッドに腰かけると、再び口を開いた。
「このキャラメルみたいな髪の色も、アイリスの花のような蒼紫色の瞳も…………変わらないね」
懐かしさと甘さを含んだその口調に、そういう意味だったのかと、そっと安堵の息を漏らす。
それにしても、何気ない彼の一言一言に、敏感になってしまう自分が情けない。
俯いた私の肩から髪が一房、零れ落ちる。それをレイディックは掬い上げるように持ち上げると、そのまま口元へ運んだ。
「…………綺麗だよ、アスティア」
───トクン。
髪に口付けを落とされただけなのに、心臓が跳ね上がる。
でもきっと、レイディックにしたら、こういったことも、貴族の戯れの一つなのかもしれない。
そう思ったら胸が軋むように痛む。ただそれよりも、そんな卑屈なことしか考えられない自分がすごく嫌だった。
「レイ、そういう冗談は…………」
「まっ、というわけだから、あんな不用心なところにいるのは駄目だよ。まして女性2人だけで夜を過ごすなんてもっての外。今日からここが君の家。わかった?」
私の言葉に被せるように、レイディックに強引に言い含められてしまう。
そして、聞き分けのない子供を窘めるように瞳を覗き込まれれば、私は、うっかり頷きそうになってしまった。
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