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第三章 魔王決戦編
第八十九話 饗宴
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「――そして今は、“魔王”」
私の中で――時が止まった。
空気が震える。
蒼い灯が波紋のように揺れ、
玉座の影が――まるで生き物みたいに、ゆっくりと伸びていく。
(……嘘……でしょ?)
ごくり、と息を呑んだ瞬間、背中がひやりと冷えた。
震えているのは――自分だ。
指先がじん、と痺れ、握った杖の重さだけが現実みたいに感じられる。
(……ヴェルネが、“今の魔王”……)
あの嵐の夜の、トリスタンとの別れ。
ルクレール領主館で見た父母の幻影。
そして今――。
“魔将”として何度も姿を現していた。
けれど、本当は最初から“魔王”だった。
あの余裕。あの魔力。
まるでこちらの心を試すような態度。
死霊や死霊騎士。古の転移魔法。森でのガルヴァンの警告――。
気付ける可能性なんて、いくらでもあった。
じゃあ、どうして――?
『私たちを、あのとき葬らなかったのはなぜ?』
『どうして、これほどまでに追い詰めるの?』
『なんで武器を持たせたままなの?』
『私たちを座らせて、何がしたいの?』
『あなたの目的は……何?』
――疑問が湧いては、胸の奥で絡まって消えていく。
(息が浅い……落ち着いて……落ち着け、私……)
深呼吸しようとしてもうまくいかない。
心臓が早鐘みたいに暴れて、思考がまとまらない。
理解できない。怖い。
(――でも、知りたい……。
どうして……なの……? あなたはいったい――)
怖くて、憎くて、たまらないのに。
なのに――どうしてか、“知りたい”と思ってしまった。
――コツ、コツ。
その音に、現実へ引き戻される。
ヴェルネが、爪先で玉座を軽く叩いていた。
微笑を浮かべたまま肘掛けに手を預け、
細い脚をゆるやかに組む、その所作は威厳に満ちた魔王そのもの。
そして、その少女――魔王の微笑は、
無垢で、純粋で、美しい。
けれど、その奥底にあるのは底冷えするほどの冷たさだった。
これまで幾度も目にしてきた、“無邪気で残酷な微笑み”が胸をかすめる。
思い出した瞬間、背筋がぞくりと震えた。
あの夜の雨も、あの甘い香りも――すべてが蘇る。
――何も変わっていない。
この魔王は、間違いなくあの少女――魔将ヴェルネだ……。
その瞬間――。
灯火がふっと揺れ、広間の空気がわずかに歪む。
まるで世界が、彼女ひとりの呼吸に合わせて拍を刻んだみたいだった。
そんなはずないのに――
そうとしか思えなかった。
*
「――お前が、“今の”魔王なのか?」
絞り出すようなエリアスの声。
ヴェルネはゆっくりと彼へ目を向け、唇の端をわずかに吊り上げた。
「ええ、父――先代魔王は、まだ復活していないわ」
メルヴィスが銀の皿を差し出す。
そこには、墨みたいに黒い葡萄に似た果実が一房。
「だって、百年前の聖女――大司祭ルシェリア・アルセインの封印は強力だったもの。
復活までには……まだ千年はかかるでしょうね」
ヴェルネは視線を勇者から逸らさぬまま、そのひとつを摘み取った。
「つまり、わたくしを斃せば――
あなたたちはあと千年は安泰。
ふふ……それが叶えば――だけどね?」
果実を指先で転がすように唇へ運び、舌で絡め取るようにして――
ゆっくりと、その実は唇の奥へ消えていった。
「でもね?」
爪先で玉座を一度、軽く叩く。
「わたくしは、そんなに我慢強い方じゃないの」
ヴェルネの喉がかすかに動く。
その所作はあまりにも人間的で――だからこそ、不気味だった。
一瞬だけ覗いた白い牙が、彼女がもはや“人”ではないことを静かに示す。
次の瞬間、白い牙が果肉を裂く乾いた音が、やけに遠くで響いた。
「だから――質問は、おしまい。
ねえ、わたくしは、あなたたちと“お話”をしたいの。
そのためにお招きしたのよ?」
(人質とっておいて”お招き”――よく言うよ……)
「ずっと、戦いばかりでお腹が空いてるでしょう?
お話は、晩餐の後にいたしましょう」
その声は、水面に落ちる雫みたいに静かだった。
けれど、その一滴だけで――空気が従った。
途端に、香ばしい匂いが広間を満たした。
召使いたちが滑るように現れ、銀の皿を卓上へ並べていく。
(まさか……! 本気で?
魔族の城で、魔王と共に――晩餐!?)
喉がひとりでに鳴る。
誰もが息を潜める中、料理は次々と卓を埋めていった。
肉が焼ける音。焼きたてのパンの匂い。
暖かいスープの湯気。琥珀色の果実酒の、甘く危うい香り――。
そのすべてが、ゆるやかに戦場の記憶を遠ざけていく。
(……変だ。怖いのに、体が緩んでいく……)
喉の奥が勝手に鳴り、舌の裏に唾が溜まる。
空っぽの胃がきゅう、と縮む。
熱と匂いが、ゆっくりと感覚を侵していく。
ここが夢なのか現なのか――もう、その境すら揺らぎ始めていた。
***
目の前には、銀の皿がずらりと並んでいた。
燭台の蒼い揺らぎがグラスをそっと撫で、
琥珀色の液体が――まるで水面みたいに、ゆるく息をしている。
湯気を立てる料理の数々。
香ばしい匂いと果実の甘い香りが混ざり合い、
静寂の中では溶けきれないほど濃く、ゆっくりと漂っていた。
さらに中央には、整然と並べられたオードブルや甘味。
――どう見ても、“王宮の食卓”。
(……おかしい。だってここ、魔王城だよ……?
さっきまで殺し合いしてたんだ……。
こんなの、ありえない……)
あまりの現実味のなさに、思考がふわりと遠のく。
本当に、これは現実なのだろうか。
いや、まだメルヴィスの幻の可能性も……ある。
食卓が整い、扉が静かに閉じられた。
ヴェルネはゆるやかに脚を組み替え、衣擦れの音だけが響く。
灯火がかすかに揺れ、影がひざまずくように頭を垂れた気がした。
「どうぞ。召し上がれ」
そう言ったヴェルネは期待する子供のように、
少し体を前に傾け、にこりと微笑む。
沈黙。
(……きっと、罠だ……。
第一、魔王と食卓を囲むなんて、正気の沙汰じゃない……)
誰も動かない。
空気がひどく冷たく、
揺れる炎がワインの表面をゆらりと照らした。
ヴェルネは唇を尖らせる。
「あら……ざ~んねん。
まあ、警戒なさるのも無理はないけど」
そう言いうと、「ん~」っと唇に指を当て、首を傾げる。
その仕草が、まるで見た目相応の少女のようでぞっとした。
「けれど――それでいいのかしら?
皆さま、何かお忘れになってませんこと?」
ぱちん、と指が鳴る。
次の瞬間、重厚なカーテンがゆっくり開き、窓が姿を現した。
視線が、自然とそこへ引き寄せられる。
――外。
窓の向こう。巨人の列。
黒い影が果てしなく続き、蠢いている。
そのさらに奥――
丘に陣を敷く王国軍。
あまりに遠く、あまりに儚く見えた。
(……っ!)
息が詰まる。
(……あれが、“いただきます”の代わり?
いや違う。従う限り、約束は守るってこと?)
でも――
同時に彼らが無事でいるのがわかって、胸の奥がじん、と緩んだ。
(……食べるしかない。
でも、ただの食事なんて……そんなわけ――)
確かめなくちゃ。
私は片手に杖を握り、こっそりテーブルの下で魔法陣を描く。
『浄化』
魔法陣が淡く光る。
……けれど――何も起きない。
(え……?)
今度は四つの『浄化』の魔法陣を、みんなの前に――。
それでも、まったく反応がない。
術は確かに発動している。
指先の感覚でわかる。
つまり――これは幻でも毒でも、呪いでもない。
(……これは、間違いなくただの食事。
わざと……なの? だとしたら、なぜ?
慈悲? ヴェルネに限って絶対にない。
戯れ? そうかもしれない。
けれど――それだけじゃない気がする……)
そのとき。
手に、小さな温もりが触れた。
姉がそっと手を伸ばし、私の手を握ってくれた。
驚いて姉を見ると、姉はこちらを静かに見つめ、小さく頷いた。
(……みんな……)
五人の視線が交差する。
エリアスも、バルドもフィーネも頷く。
誰もがエリアスを見る。
炎の揺れがエリアスの横顔を照らし、
瞳に一瞬、影が走る。
(どうするの、エリアス――?)
緊張で指が痺れたように強張る。
その瞬間、姉の手が、強く握られた。
その手は温かく、指先の痺れを押し返してくれた。
それでも彼は、静かに頷いた。
「――頂こう」
その一言で、全員がわずかに息を吐く。
(……そうだよ。まだ終わってなどいない。
逃がれられないなら、前を向く。
それがわたしたち。
これまでだって、これからだって……!)
私の中で――時が止まった。
空気が震える。
蒼い灯が波紋のように揺れ、
玉座の影が――まるで生き物みたいに、ゆっくりと伸びていく。
(……嘘……でしょ?)
ごくり、と息を呑んだ瞬間、背中がひやりと冷えた。
震えているのは――自分だ。
指先がじん、と痺れ、握った杖の重さだけが現実みたいに感じられる。
(……ヴェルネが、“今の魔王”……)
あの嵐の夜の、トリスタンとの別れ。
ルクレール領主館で見た父母の幻影。
そして今――。
“魔将”として何度も姿を現していた。
けれど、本当は最初から“魔王”だった。
あの余裕。あの魔力。
まるでこちらの心を試すような態度。
死霊や死霊騎士。古の転移魔法。森でのガルヴァンの警告――。
気付ける可能性なんて、いくらでもあった。
じゃあ、どうして――?
『私たちを、あのとき葬らなかったのはなぜ?』
『どうして、これほどまでに追い詰めるの?』
『なんで武器を持たせたままなの?』
『私たちを座らせて、何がしたいの?』
『あなたの目的は……何?』
――疑問が湧いては、胸の奥で絡まって消えていく。
(息が浅い……落ち着いて……落ち着け、私……)
深呼吸しようとしてもうまくいかない。
心臓が早鐘みたいに暴れて、思考がまとまらない。
理解できない。怖い。
(――でも、知りたい……。
どうして……なの……? あなたはいったい――)
怖くて、憎くて、たまらないのに。
なのに――どうしてか、“知りたい”と思ってしまった。
――コツ、コツ。
その音に、現実へ引き戻される。
ヴェルネが、爪先で玉座を軽く叩いていた。
微笑を浮かべたまま肘掛けに手を預け、
細い脚をゆるやかに組む、その所作は威厳に満ちた魔王そのもの。
そして、その少女――魔王の微笑は、
無垢で、純粋で、美しい。
けれど、その奥底にあるのは底冷えするほどの冷たさだった。
これまで幾度も目にしてきた、“無邪気で残酷な微笑み”が胸をかすめる。
思い出した瞬間、背筋がぞくりと震えた。
あの夜の雨も、あの甘い香りも――すべてが蘇る。
――何も変わっていない。
この魔王は、間違いなくあの少女――魔将ヴェルネだ……。
その瞬間――。
灯火がふっと揺れ、広間の空気がわずかに歪む。
まるで世界が、彼女ひとりの呼吸に合わせて拍を刻んだみたいだった。
そんなはずないのに――
そうとしか思えなかった。
*
「――お前が、“今の”魔王なのか?」
絞り出すようなエリアスの声。
ヴェルネはゆっくりと彼へ目を向け、唇の端をわずかに吊り上げた。
「ええ、父――先代魔王は、まだ復活していないわ」
メルヴィスが銀の皿を差し出す。
そこには、墨みたいに黒い葡萄に似た果実が一房。
「だって、百年前の聖女――大司祭ルシェリア・アルセインの封印は強力だったもの。
復活までには……まだ千年はかかるでしょうね」
ヴェルネは視線を勇者から逸らさぬまま、そのひとつを摘み取った。
「つまり、わたくしを斃せば――
あなたたちはあと千年は安泰。
ふふ……それが叶えば――だけどね?」
果実を指先で転がすように唇へ運び、舌で絡め取るようにして――
ゆっくりと、その実は唇の奥へ消えていった。
「でもね?」
爪先で玉座を一度、軽く叩く。
「わたくしは、そんなに我慢強い方じゃないの」
ヴェルネの喉がかすかに動く。
その所作はあまりにも人間的で――だからこそ、不気味だった。
一瞬だけ覗いた白い牙が、彼女がもはや“人”ではないことを静かに示す。
次の瞬間、白い牙が果肉を裂く乾いた音が、やけに遠くで響いた。
「だから――質問は、おしまい。
ねえ、わたくしは、あなたたちと“お話”をしたいの。
そのためにお招きしたのよ?」
(人質とっておいて”お招き”――よく言うよ……)
「ずっと、戦いばかりでお腹が空いてるでしょう?
お話は、晩餐の後にいたしましょう」
その声は、水面に落ちる雫みたいに静かだった。
けれど、その一滴だけで――空気が従った。
途端に、香ばしい匂いが広間を満たした。
召使いたちが滑るように現れ、銀の皿を卓上へ並べていく。
(まさか……! 本気で?
魔族の城で、魔王と共に――晩餐!?)
喉がひとりでに鳴る。
誰もが息を潜める中、料理は次々と卓を埋めていった。
肉が焼ける音。焼きたてのパンの匂い。
暖かいスープの湯気。琥珀色の果実酒の、甘く危うい香り――。
そのすべてが、ゆるやかに戦場の記憶を遠ざけていく。
(……変だ。怖いのに、体が緩んでいく……)
喉の奥が勝手に鳴り、舌の裏に唾が溜まる。
空っぽの胃がきゅう、と縮む。
熱と匂いが、ゆっくりと感覚を侵していく。
ここが夢なのか現なのか――もう、その境すら揺らぎ始めていた。
***
目の前には、銀の皿がずらりと並んでいた。
燭台の蒼い揺らぎがグラスをそっと撫で、
琥珀色の液体が――まるで水面みたいに、ゆるく息をしている。
湯気を立てる料理の数々。
香ばしい匂いと果実の甘い香りが混ざり合い、
静寂の中では溶けきれないほど濃く、ゆっくりと漂っていた。
さらに中央には、整然と並べられたオードブルや甘味。
――どう見ても、“王宮の食卓”。
(……おかしい。だってここ、魔王城だよ……?
さっきまで殺し合いしてたんだ……。
こんなの、ありえない……)
あまりの現実味のなさに、思考がふわりと遠のく。
本当に、これは現実なのだろうか。
いや、まだメルヴィスの幻の可能性も……ある。
食卓が整い、扉が静かに閉じられた。
ヴェルネはゆるやかに脚を組み替え、衣擦れの音だけが響く。
灯火がかすかに揺れ、影がひざまずくように頭を垂れた気がした。
「どうぞ。召し上がれ」
そう言ったヴェルネは期待する子供のように、
少し体を前に傾け、にこりと微笑む。
沈黙。
(……きっと、罠だ……。
第一、魔王と食卓を囲むなんて、正気の沙汰じゃない……)
誰も動かない。
空気がひどく冷たく、
揺れる炎がワインの表面をゆらりと照らした。
ヴェルネは唇を尖らせる。
「あら……ざ~んねん。
まあ、警戒なさるのも無理はないけど」
そう言いうと、「ん~」っと唇に指を当て、首を傾げる。
その仕草が、まるで見た目相応の少女のようでぞっとした。
「けれど――それでいいのかしら?
皆さま、何かお忘れになってませんこと?」
ぱちん、と指が鳴る。
次の瞬間、重厚なカーテンがゆっくり開き、窓が姿を現した。
視線が、自然とそこへ引き寄せられる。
――外。
窓の向こう。巨人の列。
黒い影が果てしなく続き、蠢いている。
そのさらに奥――
丘に陣を敷く王国軍。
あまりに遠く、あまりに儚く見えた。
(……っ!)
息が詰まる。
(……あれが、“いただきます”の代わり?
いや違う。従う限り、約束は守るってこと?)
でも――
同時に彼らが無事でいるのがわかって、胸の奥がじん、と緩んだ。
(……食べるしかない。
でも、ただの食事なんて……そんなわけ――)
確かめなくちゃ。
私は片手に杖を握り、こっそりテーブルの下で魔法陣を描く。
『浄化』
魔法陣が淡く光る。
……けれど――何も起きない。
(え……?)
今度は四つの『浄化』の魔法陣を、みんなの前に――。
それでも、まったく反応がない。
術は確かに発動している。
指先の感覚でわかる。
つまり――これは幻でも毒でも、呪いでもない。
(……これは、間違いなくただの食事。
わざと……なの? だとしたら、なぜ?
慈悲? ヴェルネに限って絶対にない。
戯れ? そうかもしれない。
けれど――それだけじゃない気がする……)
そのとき。
手に、小さな温もりが触れた。
姉がそっと手を伸ばし、私の手を握ってくれた。
驚いて姉を見ると、姉はこちらを静かに見つめ、小さく頷いた。
(……みんな……)
五人の視線が交差する。
エリアスも、バルドもフィーネも頷く。
誰もがエリアスを見る。
炎の揺れがエリアスの横顔を照らし、
瞳に一瞬、影が走る。
(どうするの、エリアス――?)
緊張で指が痺れたように強張る。
その瞬間、姉の手が、強く握られた。
その手は温かく、指先の痺れを押し返してくれた。
それでも彼は、静かに頷いた。
「――頂こう」
その一言で、全員がわずかに息を吐く。
(……そうだよ。まだ終わってなどいない。
逃がれられないなら、前を向く。
それがわたしたち。
これまでだって、これからだって……!)
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