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第一部 ユイ編 第一章
第八話 私はまた恋をする
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ぽちゃん。
また、だ。
また?
水に波紋が立つような感覚――
そして、意識が浮かび上がる。
――ふわり、と風が頬を撫でた。
思わず、胸いっぱいに空気を吸い込む。
空気って、こんなにおいしいんだ。
まぶたを開けると、そこには青く澄んだ空が広がっていた。
私は、湖のほとりに横たわっていた。
思い出せないけれど、さっきまで何か、大変な目に遭っていた気がする。
でも、服は乾いていて、冷たさも、痛みも、何もない。
――夢だったのかな?
「お姉ちゃーん、ごはんだよ!」
遠くから、幼い声がした。
草を踏みしめ、小さな女の子が駆けてくる。
「早くしないと冷めちゃうよ!」
私はゆっくりと身体を起こした。
不思議な気持ちだった。
何か、大切なことを忘れてしまった気がする。
でも、それが何なのか思い出せなかった。
「わたし……」
ぽつりと呟く。
そうだ、私は――誰?
「わたしは……誰?」
そう呟いた私に、女の子は目を丸くして、ふふっと笑った。
「なに言ってるの、お姉ちゃん?
ユイお姉ちゃんは、ユイお姉ちゃんだよ? 変なお姉ちゃん!」
「……わたしは、ユイ……?」
女の子は、私の手を掴んで、ぐいぐいと引っ張る。
その小さな手の温もりが、妙に懐かしかった。
「お姉ちゃん、行くよ! はやくー!」
私はその手を握り返しながら歩き出す。
けれど、風が吹くたびに。
胸の奥が、なぜかひんやりと冷たい気がした。
その冷たさのずっと奥で――誰かが、私の名前を呼んだ気がした。
けれど、その理由は、思い出せなかった。
思い出せないことは、きっとたくさんある。
でも今は、それでいいのだと思った。
「うん、わかった。……帰ろう、わたしたちの家へ」
そうして私は、女の子の手を握って、草の道を進んでいった。
*
そのとき、誰かに呼ばれたような気がして――
ふと振り返った。
その声は風の音だったかもしれない。
けれど、胸の奥だけがはっきり震えた。
湖は穏やかで、空の青をそのまま映していた。
その向こう、湖の中央にぽつんと浮かぶ小さな祠。
その前に、ひとりの不思議な青年が立っていた。
風に溶けるように、ほとんど現実から浮いて見えた。
淡い藍の服、柔らかな髪。
遠すぎて顔は見えない。
でも、その姿に、なぜか胸がきゅっと痛んだ。
彼は、私に小さく手を振っていた。
まるで、別れのように。
まるで、またね、のように。
胸がひゅ、と沈むのに、理由がわからない。
「誰……?」
私が呟いたとき、青年の唇が静かに動いた。
「もう、思い出せないだろう?」
そう言った気がした。
その言葉の意味が分からないのに、胸の奥だけがじんと痛む。
でも、聞こえたはずのその声も、次の瞬間には風にさらわれていた。
私の手を引く小さな温もり。
私は前を向き、歩き出す。
何か大切なものを、失った気がする。
でも、もう思い出せない。
たぶん、家路へと続く道を、私は小さな手に引かれて歩いていく。
村の方から誰かの笑い声が聞こえ、鳥たちが羽ばたいていった。
そのとき。
――また、おいで。
そんな、懐かしい気がする声が耳元で響いて、ふと振り返った。
あの不思議な人はもういない。
湖は、相変わらず穏やかだった。
風が水面をさらい、きらきらと光っている。
波紋はすぐに消え、
水の底が、どこまでも静かに、深く広がっていた。
ただ、胸の奥が、ほんの少しだけ、寂しくて。
覚えてはいない。
でも、何度死んでも、また恋したいと思えるような――
そんな人が、きっといた気がする。
自然と唇が動き、言葉がこぼれた。
「わたし、きっと、また恋をするわ」
***
湖の深い底。
ひとつの影が、ゆったりと眠るように伏せていた。
その巨大な影が、ゆっくりとまぶたを開く。
その目は、大きく、深く、優しい光を湛えていた。
(君の記憶を食べて、痛みも、悲しみも、恋焦がれた気持ちも――村の儀式も。
全部無かったことにした。それが、君との約束だったからね)
僕だけが覚えている。君の笑顔も涙も、この永い永い湖の底で。
(そして、もう一つの約束。共に老い、家族に囲まれる夢……。
君が語ってくれたその夢は、僕にはとても新鮮で、素敵に思えた。
……君と同じ時を歩むための器を、用意できるかもしれない。
君の今の生に、間に合えばいいのだけれど。)
彼は姿勢を変え、瞼を半分だけ閉じた。
(また出会おう。また恋をしよう。
やがて君が死んで、生まれ変わってもまた、恋をして、記憶を食べて。
何千年でも、何万年でも」
僕は忘れられるのにはもう慣れっこだ。
それは痛みではなく、ただ長い年月に溶けていく静かな欠片にすぎない。
けれど――だからこそ、君にだけはまた思い出してほしいと願うんだ。
(それが、僕が永遠を生きる理由だから。
だから、君を――この僕の、“水神の巫女”にしたのだから)
彼は静かに目を閉じた。
満足げな、けれどどこか寂しそうな微笑みをたたえたまま。
また、だ。
また?
水に波紋が立つような感覚――
そして、意識が浮かび上がる。
――ふわり、と風が頬を撫でた。
思わず、胸いっぱいに空気を吸い込む。
空気って、こんなにおいしいんだ。
まぶたを開けると、そこには青く澄んだ空が広がっていた。
私は、湖のほとりに横たわっていた。
思い出せないけれど、さっきまで何か、大変な目に遭っていた気がする。
でも、服は乾いていて、冷たさも、痛みも、何もない。
――夢だったのかな?
「お姉ちゃーん、ごはんだよ!」
遠くから、幼い声がした。
草を踏みしめ、小さな女の子が駆けてくる。
「早くしないと冷めちゃうよ!」
私はゆっくりと身体を起こした。
不思議な気持ちだった。
何か、大切なことを忘れてしまった気がする。
でも、それが何なのか思い出せなかった。
「わたし……」
ぽつりと呟く。
そうだ、私は――誰?
「わたしは……誰?」
そう呟いた私に、女の子は目を丸くして、ふふっと笑った。
「なに言ってるの、お姉ちゃん?
ユイお姉ちゃんは、ユイお姉ちゃんだよ? 変なお姉ちゃん!」
「……わたしは、ユイ……?」
女の子は、私の手を掴んで、ぐいぐいと引っ張る。
その小さな手の温もりが、妙に懐かしかった。
「お姉ちゃん、行くよ! はやくー!」
私はその手を握り返しながら歩き出す。
けれど、風が吹くたびに。
胸の奥が、なぜかひんやりと冷たい気がした。
その冷たさのずっと奥で――誰かが、私の名前を呼んだ気がした。
けれど、その理由は、思い出せなかった。
思い出せないことは、きっとたくさんある。
でも今は、それでいいのだと思った。
「うん、わかった。……帰ろう、わたしたちの家へ」
そうして私は、女の子の手を握って、草の道を進んでいった。
*
そのとき、誰かに呼ばれたような気がして――
ふと振り返った。
その声は風の音だったかもしれない。
けれど、胸の奥だけがはっきり震えた。
湖は穏やかで、空の青をそのまま映していた。
その向こう、湖の中央にぽつんと浮かぶ小さな祠。
その前に、ひとりの不思議な青年が立っていた。
風に溶けるように、ほとんど現実から浮いて見えた。
淡い藍の服、柔らかな髪。
遠すぎて顔は見えない。
でも、その姿に、なぜか胸がきゅっと痛んだ。
彼は、私に小さく手を振っていた。
まるで、別れのように。
まるで、またね、のように。
胸がひゅ、と沈むのに、理由がわからない。
「誰……?」
私が呟いたとき、青年の唇が静かに動いた。
「もう、思い出せないだろう?」
そう言った気がした。
その言葉の意味が分からないのに、胸の奥だけがじんと痛む。
でも、聞こえたはずのその声も、次の瞬間には風にさらわれていた。
私の手を引く小さな温もり。
私は前を向き、歩き出す。
何か大切なものを、失った気がする。
でも、もう思い出せない。
たぶん、家路へと続く道を、私は小さな手に引かれて歩いていく。
村の方から誰かの笑い声が聞こえ、鳥たちが羽ばたいていった。
そのとき。
――また、おいで。
そんな、懐かしい気がする声が耳元で響いて、ふと振り返った。
あの不思議な人はもういない。
湖は、相変わらず穏やかだった。
風が水面をさらい、きらきらと光っている。
波紋はすぐに消え、
水の底が、どこまでも静かに、深く広がっていた。
ただ、胸の奥が、ほんの少しだけ、寂しくて。
覚えてはいない。
でも、何度死んでも、また恋したいと思えるような――
そんな人が、きっといた気がする。
自然と唇が動き、言葉がこぼれた。
「わたし、きっと、また恋をするわ」
***
湖の深い底。
ひとつの影が、ゆったりと眠るように伏せていた。
その巨大な影が、ゆっくりとまぶたを開く。
その目は、大きく、深く、優しい光を湛えていた。
(君の記憶を食べて、痛みも、悲しみも、恋焦がれた気持ちも――村の儀式も。
全部無かったことにした。それが、君との約束だったからね)
僕だけが覚えている。君の笑顔も涙も、この永い永い湖の底で。
(そして、もう一つの約束。共に老い、家族に囲まれる夢……。
君が語ってくれたその夢は、僕にはとても新鮮で、素敵に思えた。
……君と同じ時を歩むための器を、用意できるかもしれない。
君の今の生に、間に合えばいいのだけれど。)
彼は姿勢を変え、瞼を半分だけ閉じた。
(また出会おう。また恋をしよう。
やがて君が死んで、生まれ変わってもまた、恋をして、記憶を食べて。
何千年でも、何万年でも」
僕は忘れられるのにはもう慣れっこだ。
それは痛みではなく、ただ長い年月に溶けていく静かな欠片にすぎない。
けれど――だからこそ、君にだけはまた思い出してほしいと願うんだ。
(それが、僕が永遠を生きる理由だから。
だから、君を――この僕の、“水神の巫女”にしたのだから)
彼は静かに目を閉じた。
満足げな、けれどどこか寂しそうな微笑みをたたえたまま。
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