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「ほら」
2本の真っ赤なペットボトル。トマトジュースを、少女の方へ差し出す。
「えっ……いいの?」
怒りの言葉か、文句の一つでも飛んでくるものと想像していたのだろう。
正義の行動に驚いたらしく、少女の瞳が少しだけ大きくなった。
何を今更……。態とらしい、そう思ったものの、正義はそれを口に出すことはしなかった。
代わりに、「ああ、いいよ」とお人好しのお兄さんになって頷く。
「あげるよ」
持って帰ったとしても、どうせこんなものは飲まない。理由は簡単、正義はトマトが苦手なのだ。
だからといって、捨てるのも勿体ない。
だったら、真っ赤なペットボトルの行き先は少女の許しかないだろう。
それに。遅ればせながら、正義は自分の置かれた状況の危うさに気づいていた。
時は、冬の真夜中……。
場所は、人気のない淋しい公園……。
その片隅のベンチに腰掛けている、ランドセルを背負った少女……。
そして、ブルゾン姿の男……。
今、この公園にいるのは自分たち二人だけだった。
……良くない。
あらぬ誤解を受けてしまうには、絶好のシチュエーションだろう。
少女の行動次第では、不名誉な汚名を着せられて犯罪者にされかねない。
心の奥で警鐘が鳴り響いている。
たった2本のトマトジュースのために、警察に捕まったりするのなんて御免だ。
ここはジュースを大人しく献上して、さっさとお引き取り願うべきだろう。それが得策だ。正義はそう判断を下していた。
「でも。もう二度と、こんなことはするんじゃないよ。いいね?」
しかし。しっかりと注意だけはしておく。
「はーい!」
素直な返事が返ってくる。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
元気良く礼を言うと、少女は正義の手からペットボトルを受け取った。
そして。すぐさまキャップを捻り、赤い液体を喉に流し込み始めた。
ラッパ飲みでゴクゴクと。
よほど喉が渇いていたんだろうか。それとも、大好物なのか。恐ろしいほどのスピードで、トマトジュースが減っていく。
「おいおい……。そんなに慌てて飲まなくても……」
……まるで自棄っぱちのように。愛らしい女の子が、真っ赤な液体を猛スピードでラッパ飲みする図。
それには、どこか怖さを感じさせるものがあった。人間離れしたものを感じてしまう。
たちまちの内に、ペットボトルは空になってしまった。
1リットル近くあったのに……。トマト嫌いの正義は、少女の見事な飲みっぷりに、少しばかり気分が悪くなってしまった。
気分を変えようと、空を仰ぐ。
夜空に星の輝きはなかった。
相変わらず、冷え込みが厳しい。底冷えのする寒さに、明日は雪かもしれないな、と勝手に明日の天気予報をしてしまう。
視線を落とすと、腕時計の針は午前1時すぎを指していた。
ランドセルを背負った女の子が、一人で出歩いていて良い時間じゃない。
この娘をちゃんと家に帰さないと……。
……犯罪者扱いはされたくない。
でも……。さすがに、少女をこのまま一人で家に帰すのは気が咎めた。
やっぱり、送り届けるべきなんだろうな……。
「さあ、行くよ」
面倒なことになったな、と思いつつも、正義はお人好しを続けることにする。
「行くって、どこへ?」
と、返ってきたのは無邪気な言葉。
「…………」
「ねえ、どこ行くの?」
無邪気そのものの不思議顔で、少女は訊いてきた。
どこ、って……。ホントにこの娘は……。
「そんなの、君の家に決まってるだろ。君の家だよ、君の家。ほら、途中まで送っていってあげるから」
言いながら、正義は情けなくなっていた。
ジュースを買ってあげて、家まで送ってあげる。これじゃあ、まるで……。小学校の教師たちが言うところの、知らないおじさん。「声を掛けられても、絶対に一緒についていっちゃダメな」のパターンじゃないか。
「嫌だよ」
少女が言う。
「えっ……」
「だって、あたし……帰る家なんてないもの」
……なんだよそれは。
正義はため息をこぼす。
「あのね、君……」
言いかけて、閃く。
……あ。もしかして、家出?
この娘は家出少女なのか……。
と、正義はそこにたどり着く。
けれど。
正義の心を読んだかのように、
「あたし、家出少女なんかじゃないよ」
少女は告げた。
口を大きくポカンと「あ」の形に開けたまま、正義は彼女に掛けるべき言葉を探す。
しかし、彼が言葉を見つけるよりも早く、少女の方が口を開いた。
「ねえ、泊めてよ」
──お兄ちゃんのところに泊めてよ。
な……。絶句。固まる正義。
そんな彼に、少女はさらに追い打ちをかける。
「ねっ、いいでしょう? 泊めてくれたら、あたし……お兄ちゃんの言うこと、何でもきいてあげるから」
………………。空白。
数瞬、正義の思考は停止した。
落ち着きを取り戻すのに、少し時間が掛かってしまった。
いったい……何を言い出すんだ、この娘は。
自分がいま口にした言葉に含まれる危うさに、気づいているんだろうか。
10年前や20年前ならいざ知らず、新世紀を迎え数年、援助交際なんて言葉にも、珍しさや衝撃が失われた今の時代。そんな言葉を軽々しく口にすることは、少なからず危険を伴うことだというのに……。
それとも……。
……頭が痛い。
正義は眉間を指で押さえた。本当は、頭を抱え込みたいくらいの気分だったけれど。
少女を見る。彼女はただ無邪気に微笑んでいた。どう見ても、それは純粋な子供の笑みだった。
「……いいよ」
正義は言う。
「えっ、いいの! 泊めてくれるの!」
「違う、そうじゃなくて! 何もしてくれなくていいから、馬鹿なことを言ってないで早く家に帰りなさい」
もうこれ以上、この娘に付き合うのはご勘弁だ。ものすごく疲れる。御免こうむる。
お人好しのお兄さんは、もう止めだ。
「そんなぁ……。だって本当にあたし、帰る家なんてないんだもの」
ホントだよ、嘘じゃないよ。
まだ言うか、この娘は……。
──もう知ったこっちゃない!
少女に背を向け、正義は公園の出口へと歩みを進めた。
「ねえ、お願いお兄ちゃん!」
その後を、妙に切羽詰まった声が追う。
が、正義は無視する。
しかし、少女も諦めない。
「ねえ、お願いだから! このままこんな所にいたら、あたし、ハイになっちゃうよ!」
正義の歩みは止まらない。
「あたし、ハイになっちゃうよ……」
少女はもう一度繰り返した。今度は泣きそうな声で。
……えっ。その時。
ハイって、もしかして……。
何故か。正義の頭の中で、ごく自然に一つの変換がなされた。
「……灰、だって」
思わず足を止めて、振り返る。
「……うん。だって、あたしは吸血鬼なんだもの。太陽の光なんて浴びたら、あっという間だよ。あたし……灰になっちゃうよ」
すがるような瞳が、正義を見つめる。
太陽の陽射しを浴びることは、吸血にとって消滅を意味する。
少女は確かに脅えているようだった。
正義は言葉を失った。
あははは……吸血鬼……。
……んな、馬鹿な。
そんな見え透いた、嘘……。どころか、嘘と呼ぶこともできないほどの、でたらめ……。
けれど、目の前の表情は真剣そのものだった。それを嘘やでたらめと呼ぶには、心苦しいくらいに。
まさか……。でも、吸血鬼だなんて。そんなこと、信じられるわけがない。
……人を馬鹿にしすぎている。
けれど……トマトジュース。確か、マンガか何かで、吸血鬼が血の代わりに、赤いジュースを飲んでなかったっけ。
だけど、そんなもの、所詮はフィクションの中での話だ。
でも、だけど……。
……助けを求める声。頼りない響き。
胸元には、正義のあげた真っ赤なペットボトル。少女は、それをとても大事そうに抱えている。
華奢な肩が小刻みに震えている。
漆黒の双眸が儚げに揺れていた。
我知らず、身体が勝手に動いていた。
正義は少女の許へと引き返していた。
着ていたブルゾンを脱ぎ、震える小さな肩に掛けてやる。
その時、少女と目が合った。
「名前は?」
またもや、勝手に口が訊ねていた。
少女の顔に笑みが広がる。
「……麻理亜」
──ま・り・あ。
およそ、吸血鬼には似つかわしくない。
けれど、目の前の少女には似合うと思った。
真っ赤な唇から零れ三つの音は、合わせると聖母様と同じ響きを持っていた。
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