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バイトの帰り道。空は既に暗く、夜の闇色に染まっている。
けれど、地上の街はまだまだ明るい。
仕事帰りのサラリーマンやOL、塾通いの小学生、放課後ライフ満喫中の女子高生……。
人の流れを縫って、正義は駅前の通りを足早に進んでいく。
通りの左右に立ち並ぶ雑多な店は、どれもこれも正義には用のないものだった。
ただの通り道。いつもはただ通り過ぎるだけの、舗装された道路……。
立ち止まることなんて、信号待ち以外ではまずない。
だけど……正義は足を止めてしまった。
ショーウインドーの中、それは数個の小さな照明にライトアップされていた。
……真っ白なハーフコート。
ポーズを決めた女性のマネキンが身に着けていたそれが、正義の瞳の中に飛び込んできたのだ。
ゆっくりと、ショーウインドーに近づく。
ブルーやイエローやピンク……。ウインドーの前に立つと、照明にほんのりと色が載せられているのに気づいた。
でも、そのカラー光線に負けていない。近くで見てみても、そのコートはやっぱり綺麗な白さを誇っていた。
……どれくらいの時間が過ぎただろう。
気づくと、正義はショーウインドーの隣のドアへと足を向けていた。
赤いランドセルを背負った居候を迎え入れてから、4日。
「ただいま」
そう言うのにも、少しは慣れた。
「おかえりなさーい!」
麻理亜の声に、二の足を踏むこともなくなっていた。けれど、まだまだ不思議なくすぐったさを感じてしまう。
麻理亜の瞳が、正義の右手に提げられたものを追っている。
いつものコンビニの買い物袋じゃない。正義が手に持っていたものは、暖色系のタータンチェック柄の紙袋だった。
「正義さん? それ、何?」
興味津々といった感じで、麻理亜が訊く。
正義はそれには答えず、黙って、紙袋をソファーに座る麻理亜の膝の上に載っけてやった。
「お兄ちゃん……?」
麻理亜の視線が、膝の上の紙袋と正義の顔を何度か往復する。
変わらず正義が黙っていると、麻理亜は戸惑い気味に袋の中のものを取り出した。
白いハーフコートを両手で掲げるように持ち、彼女は正義の方を見る。その視線は彼に説明を求めていた。
けれど、正義は口を開かなかった。
……というよりも、開けなかった。
麻理亜が持っているコートは、彼女のために買ってきたものだった。
世間では、これをプレゼントというのだろう。そんなことは、幼稚園児でも知っていることだ。
ただ、正義は今までに一度も、人に贈りものなんてしたことがなかった。母の日のカーネーションですら贈ったことがなかった。
そんなわけもあり、正義には分からなかったのだ。こういう時……どんな風に言えばいいのか。
「もしかして、これ……あたしに?」
しばらくして、麻理亜が遠慮がちに口を開いた。
「ああ」
正義はぶっきら棒に言う。
「……くれるの?」
「うん、まあ……」
と、正義は小さく頷いた。
その瞬間、麻理亜の瞳が嬉しそうに輝いた。
けれど、すぐにそれは消える。逆に、表情に陰が生まれた。
「あの……正義さん……?」
彼女の言い淀んだ様子に、正義は見当をつけた。
「ああ、心配ないよ。そんなに高価なものじゃないから。それは、バイト代で買ったものだから……」
──遠慮しなくていいよ。
正義は言った。
しかし……。
「……違う。そうじゃなくて……」
どうやら、的外れなことを言ってしまったらしい。麻理亜の懸念は、違うところにあったようだ。
「もしかして、正義さん……あたしに出ていって欲しいの?」
「えっ……」
何かの冗談かと思ったけれど、違うみたいだ。正義を見上げる麻理亜の眼差しは、嘘偽りなく哀しげなものを宿していた。
「…………」
……なぜ、そうなる?
何がどうなれば、「出ていって欲しい」なんて、そういうことになるのだろう?
さっぱり分からなかった。
「だって……」
正義から目を逸らし、麻理亜はコートを見た。
「このコートを着て出てけ、ってことなんでしょう?」
「は……?」
「だから、これは正義さんの気遣いなんでしょう? 追い出すにしても、このまま寒空の下に放り出すのは気の毒だから、餞別代りにこのコートをくれるってことなんだよね?」
……餞別代わり? なんだそれ?
何をどう捉えたら、そんな珍妙な結論に行き着くのか……。
「違うよ、そんなんじゃない。そうじゃなくて……」
何度も、正義は首を横に振った。
もっと単純なことなのに……。
正義はただ……。
「僕はただ……その白いコートが君に似合いそうだと思ったから……」
……本当にそれだけだった。
他には何もなかった。ショーウインドーの中にコートを見つけた時、なぜだか、それが麻理亜に似合いそうだと思った。
立ち止まってそれを見ているうちに、その思いはますます強くなって……。
そして、気づいた時には、その白いハーフコートを買ってしまっていた。
……深い理由なんてない。半ば衝動的な買い物だった。
けれど、そんなことでは麻理亜には納得できなかったようだ。
「……はっきり言ってくれていいよ。今日まで正義さんには良くしてもらったし。今度は、お兄ちゃんのこと、困らせたりしないから。ちゃんと言ってくれたら、あたし、出ていくから……」
コートをぎゅっと抱きしめて、麻理亜が悄然として言った。
「だから、違うって。君に出ていけなんて、言わないから。僕はそんなに冷たい人間じゃないぞ。それを保証してくれたのは、麻理亜、君だろ? それとも、あれは嘘だったのかい?」
「ううん、そんなことない! あたし、本当にお兄ちゃんは優しい人だと思ってるよ!」
「ありがとう、麻理亜。それだよ、その言葉……それが僕には嬉しかったんだよ。一昨日も君に言っただろう、ありがとう、って。だから、その……それは、そのコートは、感謝の気持ちというか……とにかく、お礼ということで、受け取ってくれないかな?」
口が勝手に動いていた。
まごつきながらだったけれど、それは確かに正義の中にある素直な気持ちだった。
ああ、そうか……。最初からこんな風に言えば良かったのか。
ただ……すごく照れ臭い。けれど、どうしてなのか、それ以上に正義は焦っていた。どこか切羽詰まったような、正体不明の奇妙な焦燥感が、正義の心を捕えて放さない。
「ダメかい? これでもまだ、僕が君を追い出そうとしている、って思う?」
麻理亜の瞳を見つめ、正義は優しい口調で語りかけた。
「ううん……」
安心したような。どこか恥ずかしそうに笑って、麻理亜は首を横に振った。
その顔はほのかに赤く染まっている。
「ねえ、着てみてもいい?」
「もちろん」
正義が頷くと、麻理亜はソファーから立ち上がった。コートを抱え、リビングの空いた広いスペースへ移動する。
正義に半分背を向けて、ワンピースの上から麻理亜はコートを羽織った。
買う前から分かってはいたけれど、麻理亜にはそのコートは少し大きかった。
ハーフコートのはずなのに、丈が普通丈のコートとさほど変わらなくなってしまっている。長すぎるコートの袖を一つ、二つと折ることになってしまった。
けれど、麻理亜はそのことについて何も言わなかった。
コートを着終えた麻理亜が、正義の方を向く。
ダンス前にするような、膝を少し折り曲げた挨拶のポーズをとると、麻理亜はくるりと一回転してみせた。
そして、正義を見てはにかんだように笑う。
「どう? 似合うかな?」
「う……うん、よく似合ってるよ」
正義が口にしたのは、何の芸もない、気の利いた表現の一つもない感想だった。
それでも、麻理亜は「よかったぁ」ととても嬉しそうに破顔した。
……本当によく似合っていた。
コートの白さが、彼女の持つ清潔な明るい雰囲気と合っていた。少し大きめのサイズもそれが全然不格好じゃなく、却って彼女の愛らしさを引き出している。
「ありがとう、正義さん」
ぺこり、麻理亜はお辞儀をした。
「気に入ってくれた?」
「うん、とっても!」
麻理亜は大きく頷くと、またくるりと回った。なんだか妙に浮かれている。
そんなに嬉しかったんだろうか。なにやら楽しげに鼻歌まで口ずさみ始めた。
「なんだか、すごくご機嫌だね」
「うん! だって、男の人からプレゼントを貰ったのなんて、初めてなんだもの」
……まあ、それはそうだろう。
いくら可愛いといっても、麻理亜はまだランドセルを背負ったの女の子なのだ。男性からプレゼントなんてものを貰うには、まだ4、5年は早いだろう。
「でも、これって変って言えば変だよね」
動きを止めて、麻理亜が言う。
「え……」
「だって、あたしって吸血鬼だよ。吸血鬼と白の組み合わせって、どうなのかな? 普通、吸血鬼のイメージっていえば、黒だよね?」
「…………」
そう言われてみれば……確かにそうだ。
吸血鬼といえば、黒マント、蝙蝠、夜……確かに黒がよく似合う存在の代表格だった。
その黒に対し……白。全く逆の色。
「……本当だね」
衝動的な買い物ではあったものの、少し抜けていたようだ。
もしかして……麻理亜も黒の方が良かったんだろうか。でも、きっと、黒は麻理亜には似合わないだろう。
そんな正義の内心を読んだかのように、麻理亜が口を開いた。
「だけど、あたしは好きだよ、白。白って綺麗だもの。それに黒なんて、あたしにはたぶんに合わないだろうし……」
──ありがとう、お兄ちゃん。
言って、麻理亜は微笑んだ。
ただ虚しいだけの愛想笑いの結晶……。それが、本物の笑顔に変化した。
正義の愛想笑いがバイト代になり、バイト代が白いハーフコートに……。そして、最後に、ハーフコートが麻理亜の笑顔へと。
その本物の笑顔に、正義の心の中は温かなもので満たされていく。
その温かさと入れ替わるように。さっきまで感じていた正体不明の焦り、それは正義の中からすっと消えていった……。
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