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……部屋が明るかった。
「おかえりなさーい!」
元気いっぱいの声が、正義の耳に飛び込んでくる。
リビングに足を踏み入れかけて、思わず二の足を踏んでしまう。
いつもと違い、その空間は光に満たされていた。見慣れた、真っ暗な闇がない。
……明かりの点いた部屋。
……掛けられた「おかえりなさい」の言葉。
きっと、世間では当たり前のことなんだろう。けれど、正義にとって、それはほとんど経験をしたことがない非日常だった。
慣れない状況に、自分が何をすべきなのか、行動に迷ってしまった。
「どうしたの、正義さん?」
リビングの入口で固まっている正義に、麻理亜が首を傾げる。
「ああ……ただいま」
忘れかけていた、もう何年も正義の日常会話には存在しなかった言葉を、なんとか思い出す。
戸惑いつつも、それを吐き出した。
ただいま……。久し振りに自分の口から零れたその響きに、少し照れ臭さを感じた。
ただ「ただいま」と言うだけなのに……。
自分はよほど「当たり前」を苦手としているようだ。正義はそれを実感した。
「ほら、トマトジュース」
コンビニの袋をテーブルに置く。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
麻理亜はさっそく1本のペットボトルを取り出し、底がほんのり赤く染まったグラスに注いだ。
そして、たちまち1杯目を飲み干してしまう。相変わらずの良い飲みっぷりだった。
「ねえ、正義さん。どこ行ってたの? 大学って今は休みだよね。まさか、何時間もずっとコンビニに居たわけじゃないよね……」
2杯目をグラスに注ぎながら、麻理亜が言う。
「あっ! ああ、そうか!」
何か思いついたらしい。
ペットボトルをテーブルに置くと、麻理亜はニコニコと正義を見た。
「デートでしょう?」
──デートだ、デート!
麻理亜がはしゃぎ繰り返す。
「ねっ、そうでしょう? 正義さんくらいカッコ良かったら、恋人くらいいるよね」
「違うよ」
正義は否定した。
「デートなんかじゃないよ。バイトだよ、アルバイト。CD屋のね」
「へっ……バイト……?」
マンション持ちの正義がバイトをしているなんて、思いも寄らなかったのだろう。
麻理亜がどこか間の抜けた顔をさらした。
「どうして、バイトなんか……?」
まあ、当然の疑問と言えるだろうか。
CD屋のバイト代は、ひと月の一部屋分の家賃収入の半分どころか、4分の1にもならない。
マンションのオーナーである正義が、CD屋でアルバイトをする理由……。それはもちろん、金銭を求めてのことではない。
「笑顔の練習のためだよ」
言いながら、正義は麻理亜の隣に腰を下ろした。
正義の回答に、麻理亜は眉をひそめる。
「……笑顔の練習って、なに? それって冗談?」
「いいや、冗談なんかじゃないよ。別に君をからかっているわけでもないよ」
正義はソファーの背もたれに身体を預け、天井を見上げた。
「昔、付き合ってた……というか、強引に付き合わされてた、っていう方が正確なのかな。まあ、とにかく昔のカノジョに言われたんだよ。『高梨くんって、笑わない人だよね』って」
「彼女は僕の同級生でね。高校2年の時に告白されたんだ。僕は〝ごめんなさい〟したんだけどね……彼女はなかなか諦めてくれなくて。もし他に好きな人がいないのなら、とりあえず私と付き合って、って……。彼女は、お試し期間の付き合い、とか言ってたかな。
ほら、あれだよ。『あなたは私のことをよく知らないでしょう? だから、まずは少しだけ私と付き合ってよ。それで嫌なら振ってくれてもいいから』って感じのやつ」
「それで、その人の押しの強さに負けちゃったんだ?」
「まあね」
で、結局。お試し期間の付き合いとやらが始まった。
まあ、人並みにデートと呼ばれるものもしたし、一度だけ彼女の家にも招待された。
「でも、付き合いは、ひと月ちょっとしか続かなかったんだ」
「彼女のこと、振っちゃったの?」
「いいや、それが僕の方が振られたんだ」
「えっ……。だって……」
「そうだよな。交際を申し込んできたのは、彼女の方なのに……なぜか、ね。僕みたいに詰まらない奴は嫌いだ、って言ってね……」
……3年前の冬。別れの時、彼女に言われた言葉が脳裏に甦る。
〝高梨くんって、冷たい人だよね。ねえ、知ってた? あなたって、私の前で一度も笑ってくれたことがないんだよ〟
白い息と一緒に、彼女はどこか責めるように言葉を吐き出した。
〝高梨くんって、ホントに笑わない人だよね〟
そう言う彼女の顔は、ひどく淋しげだった。
……声には諦めの響きが滲んでいた。
「……それから、鉄仮面とも言われたっけ。で、最後に『ごめんなさい、私の我がままに無理矢理付き合わせちゃって。でも、本当は私の方が謝ってほしいくらいよ』って言葉をもらって、それで終わり」
「…………」
麻理亜は何も言わず、正義の話をじっと黙って聞いていた。
「まあ、少しは腹も立ったよ。なんだよそれ、ふざけるな……ってね。でも、振られたこと自体については、正直あまりどうこう思わなかったんだ。たいしてショックを受けたりもしなかったし……。そういう意味じゃ、彼女の言ってたことも間違いじゃなかった、ってことになるのかな。
ただね、笑わない人、って言われたのはショックだった。彼女に言われて、僕は気づいたんだ。自分は笑わない、いや笑えない人間なんだってね……」
……本当にショックだった。
……笑えない。笑うことが、できないなんて……。
正義はどうしようもなく落ち込んだ。
いつから、自分は笑えなくなってしまったんだろう。
自分がいつ笑顔を忘れてしまったのか、思い出そうとした。
けれど、思い出せなかった。
それくらい、ずっと昔……。ランドセルを背負っていた頃はもう、自分は笑顔を忘れてしまっていたのかもしれない。
振られて以来、その冬の間中、正義は深く長い落ち込みの中にいた。そして、そんな中で一つの笑みを取り戻す。
我知らず……零れていた笑みがあった。
でも、それは自嘲まじりの苦い笑みだった。それが唯一、正義が取り戻せたものだった……。
「だから、笑うことを……笑顔を取り戻そうと思って、バイトを始めたんだ……」
「それで、笑顔を取り戻せてきているの?」
麻理亜が訊いてくる。
彼女の瞳が、心配げに正義を見ている。
「いいや、全然ダメ」
正義は首を横に振った。
「笑顔といっても、愛想笑いが上手くなるばかりで……全然。ただ虚しい努力、ってやつだけが続いてるよ」
「…………」
正義の答えに何を思っただろう。
麻理亜は何も言ってこなかった。
きっと、あまりの馬鹿さ加減に呆れていることだろう。
……笑顔を取り戻すため。笑顔の練習をするためにバイトをしている。そんな馬鹿げたことをしている人間は、自分の他にはいないだろう。
いろいろとバイトを変えてもみた。けれど、どれもダメだった。あれから3年あまりが経っても、未だ笑顔を取り戻せていない。
ただ笑う。それだけのことが出来ないなんて……。
「やっぱり、僕は……彼女が言ってたみたいに、冷たい人間なのかもしれないな……」
自嘲気味に言うと、
「そんなことない!」
──そんなことないよ!
麻理亜が正義の方へ身体を乗り出してきた。
「正義さんは冷たくなんてないよ。お兄ちゃんは優しい人だよ」
「麻理亜……」
「だって、あたしのこと……得体の知れない見ず知らずのあたしを、ここに置いてくれてるし。それに……」
麻理亜は、テーブルの上のペットボトルを取り上げた。
「こうやって、ジュースだって買ってきてくれてるじゃない。こんなこと、普通、冷たい人にはできないよ。だから、正義さんは優しい人だよ、絶対!」
「別にそれくらいのこと……」
「それくらいのことじゃないよ! 自分のこと、そんなに卑下しちゃダメだよ」
やけにムキになって、麻理亜は言い募る。
でも、子供らしいというべきか。言っていることの根拠は弱かった。
「いい? 正義さんは絶対に優しい人だよ。あたしが保証してあげる! 少なくとも、あたしは正義さんのこと、優しい人だと思ってるから。それとも、あたしみたいな子供の保証じゃ、ダメ?」
慰めてくれているんだろうか。それとも、100パーセント本気の言葉なのか。
麻理亜は「優しい人」を繰り返す。
たぶん……それは、素直な子供の言葉で。本気でそう思ってくれているんだろう。
しかし、それを受け取る方の正義に、その素直さはなかった。
……信じられなかった。
正義の耳には、ただの慰めとしか聞こえなかった。麻理亜の言葉は心にまで届かない……。
「鉄仮面に……吸血鬼の保証か……」
などと、詰まらないことを呟いてしまう。
「だから、そんなこと言っちゃダメだって、言ってるでしょう!」
麻理亜が怒ったように正義を睨む。
その表情で、彼女がどれくらい本気で自分のことを心配してくれているのか、それが正義にも分かった。
「だいたい、正義さんのことを鉄仮面だなんて言った人には、見る目がなかったのよ。お兄ちゃんは鉄仮面なんかじゃないんだから。それに、『私の方が謝ってほしい』なんて変だよ。もしかしたら、その人って、友達と賭けでもしてたんじゃないの。正義さんをその気にさせたら、いくら……みたいな。でも、失敗して掛けに負けちゃったから……」
「おい、麻理亜!」
いったい何を言い出すのか。
おかしな方向に逸れだした話に、正義は麻理亜の言葉を遮り、背もたれから身体を起こした。
「そんなこと言うもんじゃない!」
思わず、叱りつけるように言ってしまった。
実際、叱る意味もあった。けれど、本音は、麻理亜の口から他人を貶すような言葉を聞きたくなかったのだ。人のことを悪く言う彼女の姿なんて見たくなかった。
それに……。正義は今もはっきりと覚えてる。別れ際に彼女が見せた、哀しげな微笑と涙を……。
……彼女は傷ついていた。
そして、彼女を傷つけたのは……。
だから。
「調子に乗るな!」
きつい言葉を、麻理亜にぶつけてしまった。
「……ごめんなさい」
麻理亜がしゅんと項垂れる。夏場の萎れた花のように、元気を失くしてしまった。
そんな彼女の様子に、正義は狼狽える。
怒鳴ってしまったことをすぐに悔やむ。
「あ、こ、こっちこそ……ごめん。怒鳴ったりして、悪かったよ」
せっかく、自分のことを心配してくれたっていうのに……。
……僕は馬鹿だ。
「あの、麻理亜……」
呼びかけたけれど、麻理亜は俯いたまま顔を上げない。もしかして、泣いていたりするんだろうか……。
「……ありがとな」
麻理亜の頭を撫でてやり、正義はぼそりと言った。
バイトでお客に向かって言う「ありがとうございます」よりも雑な言葉。
でも、ありがとな……その言葉にはちゃんと気持ちがこもっていた。
……新鮮な驚きだった。自分にも、心のこもった「ありがとう」が言えるなんて。
その感謝の気持ちが、麻理亜にもちゃんと伝わったのかもしれない。
彼女が顔を上げた。
「ありがとう、麻理亜」
と、正義はもう一度、今度は彼女の目を見てきちんと口にした。
一瞬遅れで、麻理亜が破顔する。
その微笑みは、何か癒されるもののある、無邪気な天使の微笑だった。
だけど。正義の方は……。
麻理亜の微笑みに、上手く微笑みを返してやることができなかった……。
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