『やさしい光の中へ』

水由岐水礼

文字の大きさ
5 / 17

05

しおりを挟む

   【3】

 目覚めた時。窓の外はまだ闇が支配する世界だった。
 サイドテーブルの置時計を見る。
 まだ5時にもなっていなかった。時計の針がその時刻を指し示すまでには、あと十数分の余裕があった。
 ……静かだった。
 鳥たちの鳴き声も聞こえない。雀や烏たちも、まだお休み中のようだ。
 正義はベッドから身体を起こした。
 部屋を出て、リビングへと向かう。
 テレビの画面に砂嵐が発生していた。
 テーブルの上、ペットボトルの中には、赤い液体はほとんど残っていなかった。
 麻理亜はよく眠っていた。猫のように丸まって、ソファーですやすやと寝息を立てている。


 ……邪気のない、あどけない寝顔。
 それを眺めていたら、なにか穏やかなものが心に生まれた。
 不思議と心が満たされていく。
 少女の寝顔の安らかさが、正義にも移っていた。なんだろう、心が少し軽くなったような気がした。
 よく言われるように、子供の寝顔には本当に天使の魔法が宿っているのかもしれない。
 あたたかな、やさしげな何かが、自分の中で広がっていく。静かに、ゆっくりと……。
 なぜだろう……なんとなく、懐かしさを感じた。
「おい、麻理亜」
 呼びかけてみるけど、麻理亜は目を覚まさなかった。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くぞ」
 言ってから、正義は疑問に思う。
 吸血鬼も風邪なんて引くんだろうか?
 身体を揺すってみても、彼女が起きだす気配はなかった。
 ……だめだな、これは。
 麻理亜を起こすことを諦める。
「……仕方ないな」
 ため息まじりに呟いて、正義は麻理亜をソファーから抱え上げた。
 思っていたよりも、その華奢な身体は少しだけ重かった。
 お姫さま抱っこというやつで、正義は麻理亜を自室のベッドへと運ぶ。
 さっきまで自分が眠っていたベッドに彼女を寝かせると、布団を掛けてやり、雨戸をしっかりと閉めた。
 これで大丈夫だろう。この部屋に太陽の光が射し込むことはない。
「……おやすみ」
 どこか遠慮気味にそう言うと、正義は静かに部屋をあとにした。

   *

 これで何度目だろう。
「ありがとうございました」
 虚しい笑顔を作る。
 大嘘な言葉。まったく感謝の気持ちなんてものはない。なのに……。
 ……アリガトウゴザイマシタ。
 正義はマニュアル通りの言葉を繰り返す。
 ……マタドウゾ。
 まるで呪文のような。またどうぞ……唱えているうちに、お客に呪いを掛けているような気分になってくる。
「またどうぞ」
 心のこもらない空っぽの言葉。そして、ただ顔の筋肉を弛緩させただけの、すっかり上手くなった作り物の愛想笑い。
 ホンモノなんて、これっぽっちもない。
 ……空っぽだった。
 そこには、1パーセントの思いさえない。
 週4日、午後2時から6時まで、駅前のCDショップで正義は機械化する。
 心もなく、ただ決められた仕事をこなすだけの機械。それなのに……店長はニコニコとしながら言う。
〝高梨くんは格好いいからね。結構キミ目当ての女の子のお客さんも多いんだよ〟
 ──女の子たちによると、キミの笑顔は「クールでとってもステキ!」なんだってさ。
 いったい、店長は何を言っているんだろう。
 なんとも馬鹿げたことを言うものだ。
 自分の笑顔のどこが、素敵だというのだろう。
 機械の微笑、空っぽの愛想笑い。ただの顔の筋肉の弛緩動作。そんなもの、そんな空虚な笑顔のどこに魅力があるというのか?
 店長曰くの「キミのファン」とやらが、どれくらいいるのかは分からない。けれど、その女の子たちは見る目がないと思う。
 自分の笑顔が素敵だなんて、その目は絶対に節穴だ。
 目の前にやってきた制服姿の女子高生が、レジカウンターに2枚のCDを置いた。
「いらっしゃいませ」
 ……また愛想笑い。そして、置かれたCDを手に取る。
 どうやら、この娘もらしい。正義の笑顔に、少女の顔が仄かに赤く染まった。
 ちらり、腕時計を見る。時計の針は、5時27分を指していた。
 6時まで、あと残り30分ちょっと。
 その間にあと何回、愛想笑いを繰り返すことになるのだろう。
 なんだか少し、気分が滅入ってきた。
 はぁ……。正義は、心の中でこっそりとため息を吐いた。


「いらっしゃいませ!」
 自動ドアが開くと同時に耳に飛び込んできた声は、通りの良い男性の高音ボイスだった。
 レジカウンターの向こうにいたのは、スポーツ刈りの青年だった。店内に、昨夜の「夏子さん」の姿はなかった。
 買い物カゴ片手に、正義はレジの前を通り過ぎる。
 脇目も振らず、ドリンクコーナーへと向かう。
 それは、しっかりそこにあった。
 1本、2本、3本、4本。連続で、トマトジュースの真っ赤なペットボトルをカゴに放り込む。
 そして、5本目を手にとって……一瞬迷ったけれど、それもそのままカゴに入れる。
 くすり、微かに笑い声が聞こえた。
 くすくす……。おかしさ8割に、嘲笑が2割といったところだろうか。自分の無機質な笑いとは違う。声のある、感情のある笑いだった。
 声のした方を見ると、商品整理中の女性店員が口に手を当てていた。
 店に入ってくるなり、速攻でトマトジュースばかりカゴに放り込む男。
 ……まあ、確かに変な客かもしれない。おかしみを誘う要素もありそうだ。
 女性店員と目が合う。
 すると、彼女はばつが悪そうに視線を逸らし、あたふたと弁当などを並べ始めた。
 ……笑われてしまった。
 けれど。だからといって、別に腹が立ったりはしなかった。
 ただ少しだけ、羨ましかった。
 あんな風に素直に笑える人が、正義にはとても羨ましく思えたのだった……。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない

朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

処理中です...