『やさしい光の中へ』

水由岐水礼

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 気のせいか、見慣れた天井がいつもとどこか違って見えた。
 自室のベッドの上。着替えもせずに、正義はごろりと寝転がっている。
 ドアの向こうから、微かに何かの音楽が聞こえてくる。きっと、麻理亜がテレビでも見ているのだろう。夜行性(?)の吸血鬼嬢は、リビングでまだグラスを傾けている。
『お休みなさーい!』
 自室に向かう正義に、麻理亜はそう言ってにっこりと笑った。
〝──おやすみなさい〟
 そんなことを言われたのは、一体どれくらい振りだろう。考えてみたけれど、分からなかった。思い出すには、それはもう遠すぎる記憶だったようだ。
 正義の父親が裁判中に倒れ、そのまま息を引き取ったのは、去年の夏のことだった。
 過労死……。その言葉が虚しく響く。
 働き過ぎ。いや、働き好きとでも言った方がいいか。正義の父親は、いつも本当に忙しそうにしていた。
 会話のない日どころか、父親と顔を合わすことさえもない。そんな日々がひと月以上続くことも珍しくなかった。
 いつでも、依頼人が第一の人だった。父親にとっての最優先は、依頼人の弁護で。家族のことは二の次どころか、十の次か二十の次か、何の次に来るのか分からないくらい、いつも放っておかれていた。
 正義のことなんて、まるで存在していないかのように……。いや、父親の意識の中では、本当に息子なんて存在していなかったんじゃないだろうか。半ば本気で、正義はそう思っていた。
 休日に父親とどこかに出掛けた記憶なんて、これっぽっちもない。
 そして、もう一人……。放っておかれたのは、正義だけではなかった。
 結果……。息子のランドセル姿を見ることもなく、正義の小学校入学を目前に、母親は家を出て行ってしまった。
 ……正義を独り残して。
 彼が6歳の時。両親は離婚した。
 あの人は、僕のことをどんな風に思っていたんだろう。
 父親が死んでから、時々、正義はそんなこと考えてしまう。
 父親が生きている時は、思いもしなかったのに……。なぜだろう、今は不思議と考えてしまう。
 逆に、正義の方はどうだったのかと訊かれれば、弁護士としての父親をそれなりに尊敬する気持ちもあった、とは思う。けれど、それ以上のことは答えられない。答えようがなかった。
 何かを答えられるほど、自分と父親の間には接触がなかった。好きだったのか、嫌いだったのか、それすら分からない。
 ただ、正義は家が好きではなかった。
 それだけは、はっきりと言える。
 両親のいない家。妙に生活感のない、静かな広い家。あそこは、どこか外界とは切り離された異空間のようだった。
 ゴキブリさえも棲まないような家──。
 だから、処分した。広い庭付きの一戸建て、19年間を過ごしてきた家を、正義は何の躊躇もなく売り払ってしまった。相続税対策の名目で。
 そして、父親の持ち物の一つだった、このマンションへ移った……。


「きゃはははっ!」
 隣のリビングで笑いが弾けた。
 その元気な声で、正義の暗い思考は破られた。
 何がそんなにおかしいのか。麻理亜の笑い声は本当に楽しそうだった。
 その笑い声を聞きながら、思う。
 物心がついてから、あの半分の声でも上げて笑ったことがあるだろうか。
 たぶん……。いや、きっと……ないだろう。
「あははははっ!」
 楽しげな笑いは、一向に止む様子がなかった。
 少しは静かにしようとか、思わないんだろうか。どうやら、彼女の辞書には遠慮なんていう言葉は載っていないらしい。
 笑い声以外にも、時折、テレビに向かってなのだろう、麻理亜が何かを言っている声も聞こえてきた。
 うるさい、と思う気持ちはあった。
 けれど、それを嫌だとは思わなかった。
 どこか、ほっとする。うるさいと感じる声で、なぜ寛いだ穏やかな心持ちになれるのだろう。不思議だった。
 変だった。……おかしい。
 でも。そんなこと、どうでもいいや……。
 そう思えた。ここは素直に、この心地好さを享受しよう。
 ……瞼がだんだんと重くなってくる。
 記憶や思考、様々な思い……。
 そんな正義の心を乱すモノ、煩わしいモノが、少しずつ自分の中から消えてゆく。
 正義を包む世界が闇に覆われる。
 ……まるで、子守歌のよう。
 麻理亜の楽しげな声を聞きながら、正義は深い眠りの淵へと落ちていった……。
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