『やさしい光の中へ』

水由岐水礼

文字の大きさ
9 / 17

09

しおりを挟む

  【5】

 寒風まじりの冷たい外気に触れ、少しだけ気分が落ち着いた。
 しかし、それはほんの数秒のことだった。
 すぐに心の痛みが復活する。
 吐き出す温かな白い息の代わりに、肺の中身は夜の冷たい空気で満たされていく。
 マンションへ向けて機械的に足を動かしながら、正義は頭の中から夏子さん親子のことを追い出そうとしていた。
 けれど、追い出そうとすればするほど、さっきの二人の様子を思い浮かべてしまう。
 ……自分にはなかったモノ。
 それを夏子さんたちは持っていた……。
 ……ダメだ。
 心が警鐘を鳴らす。
 ──考えてはダメだ!
 これ以上、何も思うな!
 止めろ止めろ止めろ!
 ──止めてくれ!
 自分の心のどこかで、切羽詰まった声が上がっている。
 それに従いたかった。いや、従うよう、正義は必死に努力していた。
 でも、考えたくないのに……。どうしても、ブレーキが利かない。
 止めろ止めろ、やめろ……。
 やめてくれ…………。
 やがて、ひとつのキーワードが思い浮かぶ。
 ヤメ、ロ……。
 その瞬間、警鐘が止んだ。
 正義は抵抗することを諦めた。
 そして……答えらしきものを見つけた。

   *

 赤黒かった闇が、真っ黒な闇に変わった。
 嘘か本当か。目を閉じた時、目の前の闇に混じる赤は瞼を流れる血液の色だ、と昔誰かが言っていた。
 その血の色が、闇から消えた。
 黒一色の闇が正義を包み込んでいる。
 ゆっくりと瞼を開けると、自分を見下ろす麻理亜の顔があった。
「麻理亜……」
 正義は、ぼんやりと呟くように言った。
 なぜか、麻理亜の表情には心配げな色が浮かんでいる。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 麻理亜が訊いてくる。
「今日って、バイトの日だったよね?」
「……休んだ」
 正義は素っ気なく答えた。
 ちらり、DVDレコーダーに目をやると、デジタルの数字は7時過ぎを表示していた。
「風邪でも引いたの? 大丈夫?」
 ああ……なるほど、そんな風に思ったわけだ。それで心配そうなのか。
「違う、そうじゃないよ」
 身体を起こし、麻理亜のためにソファーのスペースを空けてやる。
「……行きたくなかったんだ。ただ、それだけのことだよ」
「…………」
 正義の答えに対し、麻理亜は言葉を継がなかった。
 何も言わず、探るような視線を向けてくる。
 正義の方もただ黙ったまま……。ぼんやりと天井を見上げていた。
「どうしちゃったの? 何かあったの、お兄ちゃん?」
 しばらくして、遠慮がちな麻理亜の声が耳に届いた。
 視線だけを麻理亜の方に向けると、彼女はどこか泣きだしそうな顔をしていた。
「どうして?」
 正義は訊き返す。
「どうして、そんなことを訊くんだい?」
「だって、変なんだもの」
「……変? 変って、僕がかい?」
「そうだよ。昨日からなんだか言葉少なだし、雰囲気もかなり暗いよ。それに、お兄ちゃんの顔、ものすごく疲れったって感じの顔になってる。目だって……どこか、死んだ魚の目みたいだし……」
 ……死んだ魚の目。
 白く濁った魚の目、正義はそれを頭の中に思い浮かべる。
 死んだ魚の目とは……それはまた、ひどい言われようだな。
 でも、そうか……なるほど、自分は今、そんな目をしているのか……。
「それから……目」
 また、目か?
「……目を合わせてくれない」
 麻理亜はぽつりと言った。
「…………」
「お兄ちゃん、昨日から全然……あたしの目を見てくれないよね。あたしとまともに目が合うのを避けてる……」
 そう言う声はどこか哀しげで、それでいて怒っている風でもあった。
 どうやら、麻理亜が一番言いたかったのは、そのことらしい。
「どうして、お兄ちゃん? なんで、あたしと目を合わせてくれないの?」
 確かに、麻理亜の言う通り……正義は彼女と目を合わせることを避けていた。
 現に今も、正義の二つの瞳は、麻理亜の瞳から逃げていた。
「ねえ、答えてよ。どうしてなの、お兄ちゃん?」
「なあ、麻理亜……君はいつまで、ここにいるつもりなんだい?」
 麻理亜の問いに答える代わりに、彼女の強い眼差しを避けたまま、正義は逆に質問をぶつけた。
「えっ……」
 麻理亜が沈黙する。
 沈黙した彼女に、正義は続けた。
「明日までかい? それともあと一週間、二週間? ひと月、半年、一年……」
「やっぱり、お兄ちゃん……あたしに出ていって欲しいんだ……」
「違う!」
 強めの語調で、正義は否定した。
「……そうじゃない。そうじゃなくて……逆だよ、麻理亜……。出ていって欲しいんじゃなくて……。僕は、君に……出ていって欲しくないんだよ」
 ──いつまでも、君に……ここに居て欲しいんだよ。
 言って、正義は麻理亜の目を見つめた。
 麻理亜は驚いているようだった。
「でも、麻理亜……君はいつかここを出ていくんだろ?」
 まるで拗ねた子供のようだ。自分の声がそんな風に聞こえた。
 正義は麻理亜から視線を逸らした。
 そんな正義の様子に、ややあって、麻理亜は困惑げに口を開く。
「ねえ、ホントにどうしちゃったの? ホントに変だよ、お兄ちゃん?」
 ……麻理亜の言う通り。正義は本当におかしくなっていた。
 明日で、麻理亜がここに来てから十日になる。
 自分以外の他人が一緒にいる生活にも、ほんの少しだけ慣れ始めていた。
 おかえり、ただいま……それにも初めほどの戸惑いを覚えなくなっていた。ただ、いつも麻理亜の「おかえりなさい」の方が先なところが、まだまだ正義の不慣れ具合をしっかりと物語ってはいたけれど……。
 そんな中で、正義は気づいてしまった。
 白いコートを胸に、出ていくと言った麻理亜。あの時覚えた奇妙な感覚、正体不明の焦り……。その正体に、正義は気づいてしまった。
 なぜ、あの時、あんな風に心が騒めいてしまったのか。
 それは、当たり前すぎるくらいに簡単なことだった。
 ……麻理亜が出ていくと言ったからだ。
〝あたし、出ていくから……〟
 彼女のあの言葉が、正義を焦らせたのだ。
 ……怖かった。また独りに……。
 それが……怖かったのだ。
 ……独りは嫌だ。まるで幼子のような、子供染みた感情。
 ただ……それだけのことだった。
 あの時はまだ、それに気づいていなかった。けれど、今は……違う。
 心の底にあったものは、浮かび上がってきてしまっている。
 ……正義は自覚してしまった。
 そして、心が揺らぎ始めた。
 自分がバイトを続けている理由。それは笑顔の練習なんかじゃないのかもしれない。
 確かに、初めはそうだった。笑わない人、鉄仮面と言われたことがショックで始めたことだった。
 だけど、今は……。笑顔の練習なんて……そんなもの、ただの口実なんじゃないだろうか。
 本当は、ただ淋しかっただけで……。
 独りきりの部屋(ばしょ)に、ずっといるのが嫌だったから……。
 ……孤独から逃れるために。
 誰でもいいから、人との関わりを持っていたくて……。ただ人恋しかったから、バイトを続けていたのかもしれない。
 無機質な笑顔を繰り返しながら、自分はいったい、何を求めていたんだろう……。
 僕が求めていたものは、いったい……。
 自らの求めさえも見えず、心が惑う。
 正義は、自分の中で、何かが崩壊していくのを感じ始めていた……。


 ソファーから腰を上げ、麻理亜が立ち上がった。
「……お兄ちゃん」
 沈黙する正義に、静かに呼びかける。
「そんなに、あたしと離れたくない?」
 問われ、正義は麻理亜を見る。
 自分を見下ろす二つの瞳は、初めて目にする、今までにない真剣さを宿していた。
 いつもの温かみはない。冷たさを湛えた鋭い眼差しが、正義を真っすぐに捕らえている。
「どうなの、お兄ちゃん?」
 麻理亜がもう一度問う。
「答えて」
 その一言に、催眠術にでも掛ってしまったかのように、ろくに考えもせず、正義は「ああ」と頷いてしまう。
 けれど、それは正義の偽らざる気持ちだった。だから、その答えに嘘はなかった。
「そう……」
 小さく息を吐くと、麻理亜は瞼を閉じた。
 自分を見つめる瞳の呪縛から、一時解き放たれる。
「だったら……一つだけ方法があるよ」
 目を閉じたまま、麻理亜は言った。
「あたしとお兄ちゃんが、いつまでも一緒にいられる素敵な方法……」
 ……いつまでも一緒にいられる。
 それが、正義の心にひどく魅力的に響く。
「それって……どんな?」
 正義は訊いた。
「すごく簡単なことだよ」
 言って、麻理は瞼を開く。
「あたしに、血を吸わせてくれればいいんだよ」
「へっ……」
 ……血を吸わせてくれ、って。
 それって……。
「僕にも……吸血鬼になれってことかい? 君の仲間になれ、と……」
「そうだよ」
 麻理亜は事もなげに頷いた。
「そうすれば……楽になれるよ。苦しいんでしょう、お兄ちゃん? とっても辛いんだよね? あたしには、正義さんが何をそんなに悩んでいるのか分からないけど……苦しいんだよね? だったら、吸血になればいいよ。きっと楽になれるから」
「…………」
 ……苦しいんでしょう?
(……そうだ。苦しい……)
 ……とっても辛いんだよね?
(……その通りだよ。とっても辛いよ……)
 心の中で、正義は麻理亜の問いかけに頷く。
 ……楽になれるよ。
 楽に……なれる……。
 ……楽になれるから。
 麻理亜の言葉が、まるで呪言のように正義の心を揺さぶる。
「ただ、少し不便にはなるけど。昼間、外に出られなくなったり……」
 言いながら、麻理亜はトマトジュースの入ったグラスを手に取った。
「食事だって、この赤い液体以外は、ほとんど受け付けなくなっちゃうし……」
 その言葉に、正義はテーブルに視線をやった。
 テーブルの端の方に、封の破られていないソフトキャンデーが載っている。
 それは、夏子さんがオマケにくれたものだった。けれど、せっかくの厚意も、「悪いけど、食べられないから」と麻理亜が言ったきり、そのまま放っておかれていた。
 正義も、それを口にする気にはなれなくて……。
 ……誰にも触れられず、放置されたままのソフトキャンディー。
 食べ物だというのに、誰からも食べてもらえなくて……。見向きもされず……必要とされていない。
 誰からも……必要とされていない……。
 まるで、自分のようだ……。
 正義は、ソフトキャンディーと自分を重ね合わせていた。
 ただ、そこに在るだけ……。
「……吸血鬼になれば、人としての悩みや苦しみからは解放されるよ」
 麻理亜の言葉は続いていた。
 ……解放。
 その単語が、正義の耳朶を打つ。
 視線を麻理亜に戻す。
「ねっ、悪くないでしょう?」
 ……確かに、悪くないかもしれない。
 麻理亜の言葉が、甘い誘惑となって正義の心の深部に侵入してくる。
「ああ、そうだ……。それから痛くないから」
「……痛くない?」
「うん。もしかしたら、血を吸われるのって痛いと思ってるかもしれないけど、全然そんなことはないからね。却って、血を吸われるのって気持ちいいものだから」
 にっこり微笑みながら、麻理亜が言う。
 無邪気な吸血少女の笑み。そこには何ら陰りはない。晴れ晴れとしている。
 その笑みがまた、正義を闇の世界の住人へと強く誘う。
 吸血鬼になれば……。
 自分もこんな風に……麻理亜のように、笑えるようになるんだろうか……。
 彼女のような笑顔を、手に入れることができるんだろうか……。
 笑顔を取り戻せるのなら……。
(……悪くないかもしれない)
 正義は思う。
 自分が吸血鬼になったところで、誰かが悲しんだりするわけじゃない。
 ……自分には家族がいない。
 親友といえるような人間もいない。
 恋人もいなければ……。護ってやらなきゃいけない……いや、護ってやりたいと思えるほど、大切な人も存在しない。
 ……誰に遠慮することもない。
(僕には……枷になるものがない)
 自分が吸血鬼になることを、邪魔するものが何も見当たらなかった。
 そのことが、さらに正義の心の中に空虚を生み出す。
 これじゃあ……本当に。
 ただそこに在るだけ……の存在じゃないか。
 それを強く実感する。
 とりあえずの、構成要員。居ても居なくても、同じ……。
 ……暗闇の泥沼にはまっていく。
 これ以上、何を考えたって無駄だ。
 考えたって、どんどん闇に沈みこんでいくだけだった。
 ……闇の世界への道しか示されない。
 心は闇へと落ちていく……。
 そんな正義の心の動きを読んだかように、さらなる誘いのタイミングで、麻理亜が口を開く。
「あたしは、正義さんが仲間になってくれたら、嬉しいんだけどな。あたし、お兄ちゃんのことは気に入ってるし……」
 吸血少女の顔には、少し照れ臭そうな笑みが浮かんでいた。
「それに……」
 麻理亜は言葉を切った。
 正義は黙って続きを待った。
「やっぱり、独りは少し淋しいもの……」

    *

「どうする、正義さん?」
 正義の瞳を真っすぐに見つめ、麻理亜は答えを求めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

レオナルド先生創世記

ポルネス・フリューゲル
ファンタジー
ビッグバーンを皮切りに宇宙が誕生し、やがて展開された宇宙の背景をユーモアたっぷりにとてもこっけいなジャック・レオナルド氏のサプライズの幕開け、幕開け!

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

あやかしたちのとまりぎの日常

彩世幻夜
キャラ文芸
吉祥寺は井の頭公園界隈の一画で、ひっそりと営業するダイニング・バー【ペルシュ】に訪れるお客の大半はひとではないもの、いわゆるあやかしたち。 勿論店の店主や店員もまた人ではない。 そんな店でバイトをするとある専門学校生とあやかしたちが織りなす〝日常(?)〟物語

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...