亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃

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Main story ¦ リシェル

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 色とりどりのルピナスはもちろん、小ぶりな噴水も、蔓薔薇の茂ったガゼボも、大理石のオブジェも、そこにはなかった。私は呆然とし、その夢か現か分からない幻想的な風景に見惚れる。辺りはひっそりと静まり返っていた。何の音もない。けれど、しんしんと降り積もるような、澄んだ静けさの“音”だけが、どこからともなく聞こえてくるような気がした。

 殆ど無意識に、ふらりと足が動く。ぽっかりと浮かぶ大きな月に吸い寄せられるように。蒼白い光をほんのりと纏ったような瑞々しい芝生の上を、ゆらり、ゆらりと。涙はいつの間にかとまっていた。幻想的な美しさに圧倒されて。立ち込める甘やかな香りと、薄青い鱗粉。それらに紛れ、綿毛のようなやわらかな何かが、宙でふわふわと踊っている。蝶にも劣らぬ婉美さで。

 数歩進んで足をとめ、辺り一面を覆い尽くす白い花畑を、その上を泳ぐように飛ぶ蝶をぼんやりと眺める。それから、ふと足元に視線を落とし、気持ちよさそうにそよぐ白い花の、その愛らしい姿に目をとめる。ぷっくりと肉厚的な緑色の葉、中央はすぼまり、外側へいくほど少しずつ先を反り返らせた白い花弁。まるで天使のようなその一重咲きの花は、どこからどう見ても、チューリップだった。純粋無垢そのもののようなその可憐な花をじっと見つめ、私は思わず息を呑む。夢幻のように佳麗だからでも、あどけなくて儚いからでもなく――それは、この世で私が最も深く愛してやまない花だったから。

「リシェル」

 笑えば良い、と、彼は言ったけれど――。そっと指先をのばし、絹のようになめらかな白い花弁に軽く触れながら思う。なんて無茶なことを言うのだろう、と。そんなこと出来るはずがないと分かっているくせに、と。思えば思うほど、胸の奥底から途方もなく大きな感情が、どっと押し寄せてくる。堪らえようとして唇をきつく噛み締めるけれど、それはどうしてもうまくいかなかった。花弁に添えられた指先が、微かに震えている。視界が再び滲み始め、愛愛しい花の輪郭がぼんやりとしてゆく。私がこの世で最も深く愛する、天使のように清らかな花。

「――誕生日、おめでとう」

 今日一日で、もう何度も何度も聞いたその言葉は、でも、全く違う響きとあたたかさで、鼓膜にじんわりと溶けて広がってゆく。なんて穏やかな声なんだろう。なんてやさしい言葉なんだろう。
 折角とまっていた涙が堰を切ったように溢れ出し、私は嗚咽しながら、彼のくれた言葉を、頭の中でただただ繰り返す。誕生日、おめでとう。誕生日。おめでとう。――リシェル。
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