亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃

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Side story ¦ ルシウス

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 アルベルトの手が左耳からゆっくりと離れ、絨毯の上にそっと落ちる。血のように深い臙脂色の、毛足の短い絨毯の上に。その様はまるで、何かを手放した瞬間のように見えた。細く長い、強固に縛り付けていた、或いは頑なに握り締めていた何かから指先を放したように。ただの錯覚だろうけれど。
 しかし、彼の琥珀色の瞳には、決然とした色が静かに滲んでいた。決然と、けれども沼のように深い諦念も混ざりあった、苦しげな色。

 君には才能がある、と、そう言われることは、幼い時からよくあった。貧民街にいた頃も、老齢の院長に気まぐれに拾われて孤児院で過ごしていた頃も。君には魔法師になる才能がある、と。
 しかし当時の俺は、そんな評価などどうでも良かったし、興味すら少しもなかった。魔法を扱える素質があったのは確かだし、誰に習わずとも比較的自由に使いこなせていた自覚もある。けれど、だからといって“魔法師になる”という気はさらさらなかった。そんなものになって何になるのだろう、と思っていたから。魔塔などとう、所謂“大きな組織”に自分のような人間が不向きであるのもよくよく分かっていたから、というのもある。

 魔法なんて、“便利な道具”として自分の為に扱えればそれで十分だ、と思っていた。他の誰かの為に使うなんて、微塵も考えたこともなければ、寧ろ厄介なことだと感じていたものだ。――リシェルに出会い、彼女が一途に想いを寄せているのだという侯爵家の嫡男を目の当たりにするまでは。

「彼女を護るには、君はそうするしかなかった。……いや、“護る”というより――」

 彼はこんなにも饒舌だっただろうか。頭の片隅でぼんやりとそう思いながら、まだ元気だった頃のオリヴィアと仲睦まじげに身を寄せ合うふたりを、瞼の裏に一瞬だけ過ぎらせる。
 リシェルはいつも、そんなふたりをただ見ているだけだった。時には話しかけられ、傍にいることを求められても。それでも彼女は、身も心も蕩けるほどに愛し合うふたりから数歩ばかり距離をおき、そこに突っ立ってただ眺めているだけだった。彼女自身がふたりとの間にひいた溝は、恐らくはアルベルトやオリヴィアが思ってる以上に、とても深い。細いように見えて太く、近いように見えて遠く、浅いように見えて深い。そうすることが、ある意味リシェルにとっての“けじめ”だったのだろう。

 そんな彼女を、ずっと傍で見てきたからこそ――。

「君は、彼女を奪い去りたかったんじゃないのかい? 伯爵家から、侯爵家から、オリヴィアから、そして――僕から」

 その言葉が耳に届いた瞬間、喉の奥で何かがつかえたように呼吸が止まり、思わず息を呑んだ。心臓がひときわ強く打ち、視界の焦点がぐらりと揺らぐ。じわじわと見開かれる目の真ん中で、淡い金色の髪の毛がふわりと靡いたような気がして、わざつく胸を強く鷲掴まれた。切なさのような、懐かしさのような、恋しさのような。

「爵位のない孤児院出身の君が、伯爵家の令嬢を迎えるには、魔法師になる以外道がなかった。……魔塔の頂に立つ“大魔法師”は、公爵家に並ぶ地位と権威を持つ称号だからね」
 
 何も言えずにいる俺を、アルベルトは純粋な眼差しで真っ直ぐに見据えたまま、ゆっくりと上半身を起こした。静かで、流れるようなその動きに合わせ、甘く優雅な薔薇の香りが鼻先を掠める。オリヴィアがこの世で最も愛していたという、八重咲きの白い薔薇の匂い。
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