桜の下であなたを想う、その日まで

榛乃

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 ――桜の花がまだ咲かないうちに、“春”の報せは届いた。

 宮の回廊に、ひんやりと澄んだ晩冬の風が通る。桜の匂いはまだ遠いのに、淡紅を含んだ障子の向こうで薄く小さな花の影が揺れたような気がして、私は思わず息を詰めた。

 今朝も、空を埋めるように伸びた枝々の様子を、見えるだけ全部、隅から隅までしっかりと確かめたはずなのに。そこにまだ蕾が実っていないことを認め、胸を撫で下ろしたばかりだというのに。脳裏には何故か、飛花に彩られた桜の木が浮かんでいる。一年前に初めて見た、儚くも美しい、薄靄のような名残の花が。

 思えば私は、“満開の桜”というものを、今まで一度も見たことがない。きっと私でない“私”と、同じように。

「――封印の儀は、来月、桜が開花を迎えた頃に」

 冷淡な口調で紡がれたその言葉を胸の内で反芻しながら、詰めていた息をそうっと吐き出す。艷やかに磨き上げられた黒茶色の床板に、ほんのりと薄桜色に染められた千早の袂が、まるで水面に広がる桜影のように落ちている。

 鏡花水月――。ふと頭の片隅にひらりと咲いた言の葉に、私は静かに自嘲をこぼす。目で見ることは出来ても、手に取ることも、触れることも叶わない。まるで鏡に映った花や、水に映った月のように。

 ひどく美しい響きをしていながら、なんと哀しく、なんと残酷な言葉だろう。緋袴の上に置いた右手に僅かばかり力をこめながら、私はそうと悟られぬように、小さく細く、けれど身体の奥にまで空気を吸い込む。ゆっくり、ゆっくりと。――鈍く痛む心の臓を、今は少しでも落ち着けたくて。

 分かっていた。桜が限界を迎えていることも、今年が最期の春になるだろうということも。私は“花守はなもり”なのだから。他の誰より、知っていた。この世界で一番、感じ取っていた。もうどうにもならないところまで、桜が疲弊してしまっていることを。

 それでも、いざ面と向かって口にされると、色も音も、この世を鮮やかに彩る何もかもが全て消え失せてしまったような気がした。私に残された日々は、もう数えるほどしかない。

 いずれこの日が訪れることなど、疾うに分かっていた。それが私の、決して逃れることの出来ない“宿命”だということも。
 けれどその一方で、突きつけられた現実を前に、それらを素直に受け入れられない自分がいるのもまた事実で。すぐに呑み込むには、私はこの一年、あまりにも多くのものを得てしまった。私にとってはとても大切な、けれど“花守”にとってはひどく余計なものを、たくさん。

 何を想い、何を笑い、何に泣き、何に怒ったか。
 一日一日積み重ねてきた、“何でもないありふれた日常”のひとつひとつが、春の訪れとともに、まるで散り散りになった飛花のように、私の中から攫われ消えてゆく。どんな夢を見て、どんな人と出会い、どんな言葉を交わし、どんな絆を結んだのか。そんな大切なことも全て。何から何まで、欠片も残すことなく。

 だから私にとって春は、“終わり”であり“始まり”の季節なのだ。春の訪れとともに記憶を失い、春の終わりとともに新しい“私”が生まれる。春の度に繰り返される輪廻。

 それが“花守”として生まれた者の宿命である。桜の結界を保つ為、世界の“想い”を受け入れる器として生きること。桜の開花とともに蓄積した“想い”を浄化し、それと引き換えに、全ての記憶を失うこと。
 だから私は毎年、始まりしか知らない。終わりはいつも、他人の手の中だ。

 そして、結界の崩壊が近づくと、それを阻止する為に、花守は“花封じ師”によって地脈へと還される。つまりそれが、“封印の儀”だ。花守を生贄とすることで、桜の結界は再び息を吹き返す。
 この世界は、そんな理で出来ている。その理によって、いったい何人の花守が桜の樹の下に眠っているのか、私は知らない。

 “封印の儀”などと、人々は敬いと畏れを込めて呼ぶけれど。その実それは、花守の“死”に他ならない。一人の花守の命と引き換えに、多くの民の命が救われる。乳母はそれを、「誉れ高いこと」と言っていた。人々の為に尽くす「尊い務め」なのだ、と。或いは、「特別に幸せなこと」なのだ、とも。
 きっといつの世の花守も、そう言われてきたのだろう。民を救う為に生まれた命として。民を救う為に犠牲となる命として。

 果たして誰かひとりでも、“花守”という“ひとりの人間の死”を、嘆き悲しんでくれたことはあるのだろうか。

「……承知いたしました」

 微笑みながらそう告げると、張り詰めた使者のかんばせが、ほんの少しだけ弛んだような気がした。その変化を見届けてから、私は静かに視線を落とす。

 彼はもう知っているのだろうか――。そう考え、しかしすぐに愚問だったと、胸の内で苦笑する。“花封じ師”である彼が、儀式の日を報されていないはずがない。儀式には、“花守”と“花封じ師”が、二人でひとつでなければならないのだから。

「主上は、大層心を痛めておいでです」
「どうかお気になさらず、とお伝えください」

 唯一開け放たれた円窓から、綺麗に手入れをされた庭へと視線を向ける。ぽってりとした紅色の山茶花、すっと背を伸ばした清純な水仙、短く刈り込まれた深緑の灌木、風の渡る広々とした池。
 あの池に架かる反り橋の袂で、帝と最期に言葉を交わしたのは、いつだっただろう。

「私は大丈夫ですから」

 声は思っていたよりもずっと穏やかで、どこか遠くから自分の口を借りて誰かが話しているようだった。

 ひんやりとした風が、かさかさと草葉を揺らしながら流れ込み、僅かな沈黙の中に沈む私達の間をするりと抜けながら、整えられた前髪を微かに揺らす。

 その風にのって、まだ芽吹いていないはずのひどく懐かしい香りが、ふいに鼻先を掠めたような気がして、胸の奥に、鋭い痛みが重たく響く。

 来年の桜は、どんなふうに咲くのだろう。私の命を吸って、数多の人々をやさしく包み込みながら。来年も、再来年も、そのまた先の春も。次の花守が現れるその日まで、あの桜はどんな花を、枝いっぱいに咲かせるのだろう。

 その桜を眺めながら――彼は少しでも、私のことを思い出してくれるだろうか。

「ただ……」

 ゆっくりと顔を動かして視線を戻し、真正面に腰を据えた使者の、薄くほっそりとした睫毛に囲まれた切れ長の目を見つめる。その視線を受けて、彼が少し身構えたらしいことが、空気の僅かな震えから感じ取れ、私は薄く微笑んだ。

 生きたい、とは言わない。運命を受け入れない、とも言わない。
 ただ――ただ、最期だけは。そう望むことだけは、どうか許してほしいと思う。
 最初で最期の、私の我儘なのだから。

「ひとつ、お願いがあるのです――」
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