桜の下であなたを想う、その日まで

榛乃

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 遥か昔。春は名ばかりで、花ひとつ咲かぬ時代のこと。
 果てしない戦の炎が大地を焦がし、人々は憎しみと絶望の中で次々と命を落としていった。家族を想い、恋人を想い、或いは主君を想いながら。
 少し歩けば、すぐ骸に躓く。赤黒く焦げた大地は血と怨嗟に濡れ、煙と煤の舞う空は鈍色に重く曇るばかり。

 けれど、そんな荒れ果てた大地のただなかに、ひとつの“花”が咲いた。それは、漆黒を溶かし込んだような大輪の花だった。ひどく悍ましく、それでいて、胸を締めつけるほど美しい。
 死者の嘆きが根を養い、涙が露となり、血が花弁の色を深めてゆく。花は夜ごとに増え、風が吹く度、またひとつ新たな骸を喰らって芽吹くことを繰り返す。

 故に人々はそれを、“怨花おんか”と呼んだ。怨念に色づいた花。怨花の群生する地は、即ちそれだけ多くの死者が眠る地であるということ。たくさんの命と、たくさんの想念と、たくさんの怨嗟が、地脈の深くまで沁み込んだ場所。

 嘗てこの世は、咲き乱れる怨花の花畑に、どこまでも暗く覆われていた――。


 紙に滑らせていた筆をとめ、机上に落としていた視線をゆっくりと持ち上げる。そっと振り返れば、鏡台の傍らに飾られた一双の屏風が目に入った。この部屋に設えられた物の中で、最も色彩に富んだ調度品。そして恐らくは、最も多くの時を傍観してきた物。

 二曲一双の造りをした屏風の右隻には、群れを成して咲く幾本もの怨花が、墨の濃淡と細やかな筆致で描かれている。歪んだもの、細く長いもの、重なり合うもの、茎の曲がったもの。

 ひとつとして同じ形のものがないのは、同じ人間はこの世にひとりとて存在しないことを表しているのだ、と、いつだったか乳母が教えてくれた。性格も、感情も、生まれた地も、愛した人も、皆それぞれに違う。ひとりひとりに確かにあった“人生”という名の花を、絵師は怨花の“姿”として描き表したのだ。

 そして対となる左隻には、太く立派な幹を持つ一本の桜が、夜明けの光を背にして描かれている。力強く、神々しいほどの生命力に満ち溢れた、大きな桜。一面を覆い尽くすように広がる薄桃色の桜雲、儚げに舞う無数の飛花、幹の根本に散った怨花の残骸。

 薄墨の花弁を鏤めた、その無惨にも崩折れた怨花を見つめながら、なんとも表現のしがたい複雑な心持ちで眉根を潜めると、唐突に、障子の外から気配がした。気を引き締めたのは、ほんの一瞬。すぐに親しみ慣れたそれだと気づくと、私は緋袴の端を指先でそっと握り締めた。

「――入るぞ」

 落ち着いた声音が鼓膜にやさしく触れ、胸の奥で何かがとくりと跳ね上がる。聞きたかった声。けれど、今はまだ聞きたくなかった声。

 溢れ出しそうになる思考を必死に押し留め、私は詰まりそうになった息をゆっくりと吐き出す。ゆるゆるとした動きで声のした方へ視線を向けるのと、微かな音を立てて障子が開いたのは、殆ど同時だった。

 見上げた瞳の中で、艷やかな白髪が小さく揺れる。透き通るような白い肌、凛々しく整えられた柳眉、長く濃い睫毛に囲まれた切れ長の目、まるで珠玉のように玲瓏とした薄花色の瞳。
 
 形の整った輪郭も、一つに結わえて右肩に流された滑らかな白髪も、血色のよい唇も、何もかも見慣れているはずなのに。何故だか再び、心臓が一拍遅れて、鈍い痛みとともに飛び跳ねる。それと同時に、胸がぎゅうっと強く締め付けられて、息苦しい。

 こちらを見下ろす、冬風のように涼しげな瞳は、いっそ冷淡にも見えるけれど。その実いつもであれば不器用な優しさを滲ませてくれるその美しい薄花色は、でも今はどこかぼんやりと、朧に翳っているように見えた。

「儀式の日が、決まったそうよ」

 重苦しい沈黙が落ちかけるのを察し、私は努めて平静に、まるでなんでもないことを告げるような軽さで言葉を紡ぎながら、そっとやさしく微笑む。
 そんな私の反応に、なにか思うところでもあったのか、彼は――御影みかげ静琉しずるは僅かばかり眉根を寄せ、そうして音もなく溜息をついた。

「……知っている」

 後ろ手で閉めた障子の手前に腰を下ろし、静琉は横目でちらりと、堂々と広げられた屏風へ一瞥を向ける。感情のまるで感じられない視線で、半ば睨めつけるように薄っすらと目を細めて。

 彼がその屏風絵を、あまり好いていないことは知っている。しかし、この部屋にそれはつきものだ。歴代の花守が執務に就いたこの部屋には、決して欠かすことの出来ないもの。だから静琉は、極力この部屋に足を踏み入れようとはしない。彼にとって“重たい過去”であるそれを、眼に映り込まないようにする為に。或いは、普段は頭の奥底に押し留めているのだろう数多の記憶を、少しも思い出さないようにする為に。
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