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「呼んでくれれば良かったのに」
そうすれば表に出ることが出来たわ、と言葉を付け加えながら文机に視線を戻し、広げていた薄紙を丁寧に折り畳む。
「それは何だ」
抽斗の中にしまいこもうとしていたそれを目敏く見つけた静琉が、すかさず問いかけてくる。私は一瞬躊躇し、開きかけた唇を引き結ぶけれど、どうせ既に彼の耳には全て――帝への頼み事も含め――届いているのだろうから、と思い直し、しまいかけた薄紙をゆっくりと持ち上げた。折り畳まれた面の一部には、墨で綴られた文字の跡が薄っすらと滲んでいる。
「最期の“春”がくるまでにしたいことを、忘れてしまわないようにまとめていたの」
努めて明るくそう答えたものの、静琉が息を呑む気配がして、私は慌てて彼へと目を向けた。真っ直ぐにこちらを見つめる、宝玉のように澄んだ薄花色の瞳。その独特な薄青色にとらわれていると、まるで裡に隠したものを全て見透かされてしまうような気がして、私はそうっと、ほんの少しだけ視線を逸らす。
静琉は昔からそういうところがあるのだ。きっと私が“私”でなかった頃から、ずっと。
「たいした内容ではないわ。本当よ。とても些細なものばかり」
口を噤んだままでいる静琉に気が咎め、私はごく自然に見えるよう苦笑をこぼしながら、逃げるように言葉を重ねた。
街を見にゆくこと。川で釣りをすること。流行りの茶屋で甘いものを食べること。夜の丘で満天の星空を眺め、数えること。旅籠に泊まって温泉に入ること。そして――。
つらつらと思うままに書き綴った目録を、頭の中にひとつずつ思い浮かべる。墨色の細い線そのままに。それらはどれもこれも、まるで子供じみた夢だった。他の人からすれば“ありふれたもの”と言われてしまいそうな――或いは、そんなものを望む必要はないだろうに、と訝られそうな――、とても小さな小さな願い。
けれどもそれは私にとって、“ありふれたもの”なんかでは決してなかった。
街を見ることも、川で釣りをすることも、流行りの茶屋で甘いものを食べることも、何もかも。多くの民にとってはありふれた“日常の一部”であっても、花宮の中で幼い頃から――と、乳母から聞かされている――育てられ、外に出ることは一度たりとも許されることなく、厳しい制約ばかりに雁字搦めにされたまま生きてきた私にとっては、まるで未知の世界のようなものだった。
この花宮の外に、本当に街は――多くの人々が住まう都は――存在するのだろうか、と、時々そんなことを考えてしまうほどには。
だから――。片手に握った薄紙をそっと見下ろし、私は力なく苦笑をこぼす。だから、最後の最期だけでも。“花守”としてではなく、“ひとりの普通の少女”として過ごしたかった。“ひとりの普通の少女”として、たくさんの思い出を作りたかった。――いつも傍にいてくれた、大切な人とともに。春がくれば消えてなくなってしまうものだと、そう分かっていても。
「帝に無理を言ったそうだな」
呆れたように肩を竦める彼に、私はくすりと笑い声を小さくこぼす。
「主上は怒っていらした?」
「いや……寧ろ喜んでいたように思う」
そう言って、静琉は漸く、張り詰めていたかんばせを柔らかく綻ばせた。私はそのやさしい微笑みを、とても好きだと思う。普段は淡々とした、あまり感情の起伏を表に出さない彼が、時折見せてくれる穏やかな顔。
「お前が初めて頼ったのだからな」
自然と込み上げてきた笑みを、ふふっとこぼしながら、私は折り畳んだばかりの薄紙をそっと開く。
何か一品でも料理を作ってみることは出来るだろうか。立春頃に打ち上げられる花火を見ることは出来るだろうか。都の子どもたちと触れ合うことは出来るだろうか。――静琉とふたりで、たくさんの楽しい時間を過ごすことは出来るだろうか。
「……ねえ、静琉」
紙面に落としていた顔をあげ、障子の前に凛々しく腰を下ろした静琉の、澄んだ薄花色の瞳を真っ直ぐに見据える。その視線を、静琉は少しも逸らすことなく、まるで包み込むように受け止めてくれた。
「どうか桜が咲くその日まで、私の我儘に付き合ってくれないかしら」
薄く開け放した肘掛け窓の隙間から、冬の名残を孕んだ冷たい風がするりと流れ込み、白檀や沈香の落ち着いた香りがふわりと鼻先を掠める。嗅ぎ慣れた、静琉の愛用する香の匂い。
その豊かな香りに胸の奥が鋭く疼くの感じながら、それでもどうにか満面の笑みを湛えて、“思い出の書”と題した薄紙をゆっくりと差し出す。静琉はそれに一瞥もくれることはなく、どこか切なげに唇を引き結びながら、ただ静かに私の双眸を見つめていた。
悲しげに、でも、とてもやさしく。
「――私の、最期のお願い」
こうして私たちの、最期のひと月が始まった。
春を待つ蕾のように、儚くも確かな、最期の日々。
そうすれば表に出ることが出来たわ、と言葉を付け加えながら文机に視線を戻し、広げていた薄紙を丁寧に折り畳む。
「それは何だ」
抽斗の中にしまいこもうとしていたそれを目敏く見つけた静琉が、すかさず問いかけてくる。私は一瞬躊躇し、開きかけた唇を引き結ぶけれど、どうせ既に彼の耳には全て――帝への頼み事も含め――届いているのだろうから、と思い直し、しまいかけた薄紙をゆっくりと持ち上げた。折り畳まれた面の一部には、墨で綴られた文字の跡が薄っすらと滲んでいる。
「最期の“春”がくるまでにしたいことを、忘れてしまわないようにまとめていたの」
努めて明るくそう答えたものの、静琉が息を呑む気配がして、私は慌てて彼へと目を向けた。真っ直ぐにこちらを見つめる、宝玉のように澄んだ薄花色の瞳。その独特な薄青色にとらわれていると、まるで裡に隠したものを全て見透かされてしまうような気がして、私はそうっと、ほんの少しだけ視線を逸らす。
静琉は昔からそういうところがあるのだ。きっと私が“私”でなかった頃から、ずっと。
「たいした内容ではないわ。本当よ。とても些細なものばかり」
口を噤んだままでいる静琉に気が咎め、私はごく自然に見えるよう苦笑をこぼしながら、逃げるように言葉を重ねた。
街を見にゆくこと。川で釣りをすること。流行りの茶屋で甘いものを食べること。夜の丘で満天の星空を眺め、数えること。旅籠に泊まって温泉に入ること。そして――。
つらつらと思うままに書き綴った目録を、頭の中にひとつずつ思い浮かべる。墨色の細い線そのままに。それらはどれもこれも、まるで子供じみた夢だった。他の人からすれば“ありふれたもの”と言われてしまいそうな――或いは、そんなものを望む必要はないだろうに、と訝られそうな――、とても小さな小さな願い。
けれどもそれは私にとって、“ありふれたもの”なんかでは決してなかった。
街を見ることも、川で釣りをすることも、流行りの茶屋で甘いものを食べることも、何もかも。多くの民にとってはありふれた“日常の一部”であっても、花宮の中で幼い頃から――と、乳母から聞かされている――育てられ、外に出ることは一度たりとも許されることなく、厳しい制約ばかりに雁字搦めにされたまま生きてきた私にとっては、まるで未知の世界のようなものだった。
この花宮の外に、本当に街は――多くの人々が住まう都は――存在するのだろうか、と、時々そんなことを考えてしまうほどには。
だから――。片手に握った薄紙をそっと見下ろし、私は力なく苦笑をこぼす。だから、最後の最期だけでも。“花守”としてではなく、“ひとりの普通の少女”として過ごしたかった。“ひとりの普通の少女”として、たくさんの思い出を作りたかった。――いつも傍にいてくれた、大切な人とともに。春がくれば消えてなくなってしまうものだと、そう分かっていても。
「帝に無理を言ったそうだな」
呆れたように肩を竦める彼に、私はくすりと笑い声を小さくこぼす。
「主上は怒っていらした?」
「いや……寧ろ喜んでいたように思う」
そう言って、静琉は漸く、張り詰めていたかんばせを柔らかく綻ばせた。私はそのやさしい微笑みを、とても好きだと思う。普段は淡々とした、あまり感情の起伏を表に出さない彼が、時折見せてくれる穏やかな顔。
「お前が初めて頼ったのだからな」
自然と込み上げてきた笑みを、ふふっとこぼしながら、私は折り畳んだばかりの薄紙をそっと開く。
何か一品でも料理を作ってみることは出来るだろうか。立春頃に打ち上げられる花火を見ることは出来るだろうか。都の子どもたちと触れ合うことは出来るだろうか。――静琉とふたりで、たくさんの楽しい時間を過ごすことは出来るだろうか。
「……ねえ、静琉」
紙面に落としていた顔をあげ、障子の前に凛々しく腰を下ろした静琉の、澄んだ薄花色の瞳を真っ直ぐに見据える。その視線を、静琉は少しも逸らすことなく、まるで包み込むように受け止めてくれた。
「どうか桜が咲くその日まで、私の我儘に付き合ってくれないかしら」
薄く開け放した肘掛け窓の隙間から、冬の名残を孕んだ冷たい風がするりと流れ込み、白檀や沈香の落ち着いた香りがふわりと鼻先を掠める。嗅ぎ慣れた、静琉の愛用する香の匂い。
その豊かな香りに胸の奥が鋭く疼くの感じながら、それでもどうにか満面の笑みを湛えて、“思い出の書”と題した薄紙をゆっくりと差し出す。静琉はそれに一瞥もくれることはなく、どこか切なげに唇を引き結びながら、ただ静かに私の双眸を見つめていた。
悲しげに、でも、とてもやさしく。
「――私の、最期のお願い」
こうして私たちの、最期のひと月が始まった。
春を待つ蕾のように、儚くも確かな、最期の日々。
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