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冷たい風が頬を掠めてゆくのを感じながら、乾いた喉の奥で、密かに息を詰める。凍てついた刃は、すぐさま心の臓へ届くというわけではない。それは残酷なほどゆっくりと時間をかけ、じわりじわりと身体を侵蝕してゆく。やがて呼吸をする度、心臓が脈打つ度、毒に侵された身体はきりきりと、悲鳴に似た痛みを迸らせる。
いつの世も、そうだった。経験したくなくとも経験してしまった、幾つもの生の全てで。
だからいけない、と思う。そうなる前に、彼女から目を逸らさねばならない、と。
けれども、結局のところ、どうすることも出来なかった。眼前の少女が、あまりにも美しく清らかにそこに在るせいで。
上質な薄紅梅の小袖は、桜が咲き始める前の、ほんの僅かな期間にだけ身に纏うことの許された色だ。陽射しの加減で白くも見えるその透き通るような色は、彼女の佇まいをたおやかに、そしてひどく儚げに見せる。まるでそこにはない者のように。すっと空に溶けて、今にも眼の前から――この世そのものから――消えてしまいそうなほど。
そのくせ、やがて咲き出す桜の、熱気を帯びたような気配は、噎せる程に色濃い。その甘い毒は、彼女のすぐ傍から、ふわりと立ち上っている。
「――主」
真っ直ぐに伸びた濡れ羽色の髪の毛が穏やかに靡き、こぼれた一筋が肩口にやさしく触れる。それを静かに見届け、いつの間にか皺の寄った険しい眉間を、指先できつく摘む。分かっている、と、喉元まで迫り上がった言葉は、既のところで呑み込んだ。この時期は、どうにも気が立って仕方がない。苛立ったところで、何かが変わるわけでもないというのに。
深く吸い込んだ息を細く長く吐き出し、心を整えるようにひとつ瞬く。ゆっくりと開けた視界の中で、桜の巨木を見上げながら、彼女はただしとやかに佇んでいた。風に、或いは桜の息遣いに、溶けることも、攫われることもなく。遠い景色の中に、けれど、確かに。
――どうか桜が咲くその日まで、私の我儘に付き合ってくれないかしら。
命の終わりを目前にして彼女が望んだのは、“普通の少女”として生きることだった。ひと月という、その僅かに残された時の間だけでも、と。
なんといじらしい願いだろう。この世界を、そこに生き続ける人々を救う為に、自らの命を犠牲にすることを強いられた者の“最期の願い”としては、あまりにもささやかすぎではなかろうか。
しかし、それが彼女にとってどんなに渇望し続けたものであるのかもまた、よくよく知っている。
花守は、その人生の全てを、桜を守る為だけに造られた邸――花宮――の中で過ごす。それは掟だ。何百年と受け継がれてきた、“花守”という尊い生贄を庇護する為の掟。
だから花守は、自らが守ることとなる世界を、おのの眼で見ることは一度たりともない。外界の話は人伝に聞くばかり。それは彼女たちにとって、草紙に綴られた御伽噺も同然だったろう。
故に皆、外の世界を夢見ながら死んでいった。そこに息づく、ごくありふれた人々の“生活”に、強くも切ない憧憬と羨望を抱いて。
――私が彼女にしてやれることなど、これくらいしかないのだからな。
気丈に微笑みを繕いつつも、隠しきれぬ憂いを滲ませた男の横顔を脳裏に浮かべながら、砂利の敷かれた庭へと一歩踏み出す。足を進める度、静謐な空気の中に、ざらついた足音が微かに響く。
ふと川べりを一瞥すると、ほどよく配された灌木の枝先に、まだ小さいながらも、鮮やかな色彩がぽつりぽつりと実っていた。時の流れが停まったように感じられるこの宮の中でさえ、春が間近に迫っていることはもう、隠しきれない。世界は、透花という魂の支えによって、確かに命を巡らせている。
中門から中島まではさほど離れてはいないというのに、何故か遥か遠い所にそれはあるような気がした。踏み出す一歩が、鉛の枷でも嵌められているかのように、ひどく重たい。
それでもどうにか歩みを進め、中島に架かる橋を渡り終えたところで、ひときわ強い風が吹き抜けた。刹那、まるで何かを感じ取ったかのように、透花がゆっくりと振り返る。ふわりと宙を撫でるように靡く横髪を、片手で留めながら。静かなたおやかさで。
長く濃い睫毛に囲まれた目が、ほんの一瞬、大きく見開かれる。その真中で輝く桜色の瞳の美しさや、そこに薄っすらと透ける桜の影まで、はっきりと見て取れるほど。その眼は何の迷いもなく、真っ直ぐに俺を捉えた。
その瞬間、俺は理解する。彼女の無垢で澄んだ瞳には今、桜の樹でも己の運命でも、はたまた命と引換えに救う世界や人々でもなく、ただ“俺”という存在だけが、溢れんばかりの喜びとともに映し出されているのだということを。不思議なほどの明瞭さで。
純粋な彼女の眼差しは、しかし俺の心を、強く締め付ける。
「静琉!」
弾けるように咲いた笑顔が、とても眩い。その神々しさに目を細めながら、俺はそっと胸の裡で溜息をつく。
あと何度、彼女の笑顔を見つめることが出来るだろう。あと何度、彼女の愛らしい声を耳に出来るだろう。あと何度、彼女に名を呼んでもらうことが出来るだろう。
あと何度――俺は“花守”を殺せば良いのだろう。
いつの世も、そうだった。経験したくなくとも経験してしまった、幾つもの生の全てで。
だからいけない、と思う。そうなる前に、彼女から目を逸らさねばならない、と。
けれども、結局のところ、どうすることも出来なかった。眼前の少女が、あまりにも美しく清らかにそこに在るせいで。
上質な薄紅梅の小袖は、桜が咲き始める前の、ほんの僅かな期間にだけ身に纏うことの許された色だ。陽射しの加減で白くも見えるその透き通るような色は、彼女の佇まいをたおやかに、そしてひどく儚げに見せる。まるでそこにはない者のように。すっと空に溶けて、今にも眼の前から――この世そのものから――消えてしまいそうなほど。
そのくせ、やがて咲き出す桜の、熱気を帯びたような気配は、噎せる程に色濃い。その甘い毒は、彼女のすぐ傍から、ふわりと立ち上っている。
「――主」
真っ直ぐに伸びた濡れ羽色の髪の毛が穏やかに靡き、こぼれた一筋が肩口にやさしく触れる。それを静かに見届け、いつの間にか皺の寄った険しい眉間を、指先できつく摘む。分かっている、と、喉元まで迫り上がった言葉は、既のところで呑み込んだ。この時期は、どうにも気が立って仕方がない。苛立ったところで、何かが変わるわけでもないというのに。
深く吸い込んだ息を細く長く吐き出し、心を整えるようにひとつ瞬く。ゆっくりと開けた視界の中で、桜の巨木を見上げながら、彼女はただしとやかに佇んでいた。風に、或いは桜の息遣いに、溶けることも、攫われることもなく。遠い景色の中に、けれど、確かに。
――どうか桜が咲くその日まで、私の我儘に付き合ってくれないかしら。
命の終わりを目前にして彼女が望んだのは、“普通の少女”として生きることだった。ひと月という、その僅かに残された時の間だけでも、と。
なんといじらしい願いだろう。この世界を、そこに生き続ける人々を救う為に、自らの命を犠牲にすることを強いられた者の“最期の願い”としては、あまりにもささやかすぎではなかろうか。
しかし、それが彼女にとってどんなに渇望し続けたものであるのかもまた、よくよく知っている。
花守は、その人生の全てを、桜を守る為だけに造られた邸――花宮――の中で過ごす。それは掟だ。何百年と受け継がれてきた、“花守”という尊い生贄を庇護する為の掟。
だから花守は、自らが守ることとなる世界を、おのの眼で見ることは一度たりともない。外界の話は人伝に聞くばかり。それは彼女たちにとって、草紙に綴られた御伽噺も同然だったろう。
故に皆、外の世界を夢見ながら死んでいった。そこに息づく、ごくありふれた人々の“生活”に、強くも切ない憧憬と羨望を抱いて。
――私が彼女にしてやれることなど、これくらいしかないのだからな。
気丈に微笑みを繕いつつも、隠しきれぬ憂いを滲ませた男の横顔を脳裏に浮かべながら、砂利の敷かれた庭へと一歩踏み出す。足を進める度、静謐な空気の中に、ざらついた足音が微かに響く。
ふと川べりを一瞥すると、ほどよく配された灌木の枝先に、まだ小さいながらも、鮮やかな色彩がぽつりぽつりと実っていた。時の流れが停まったように感じられるこの宮の中でさえ、春が間近に迫っていることはもう、隠しきれない。世界は、透花という魂の支えによって、確かに命を巡らせている。
中門から中島まではさほど離れてはいないというのに、何故か遥か遠い所にそれはあるような気がした。踏み出す一歩が、鉛の枷でも嵌められているかのように、ひどく重たい。
それでもどうにか歩みを進め、中島に架かる橋を渡り終えたところで、ひときわ強い風が吹き抜けた。刹那、まるで何かを感じ取ったかのように、透花がゆっくりと振り返る。ふわりと宙を撫でるように靡く横髪を、片手で留めながら。静かなたおやかさで。
長く濃い睫毛に囲まれた目が、ほんの一瞬、大きく見開かれる。その真中で輝く桜色の瞳の美しさや、そこに薄っすらと透ける桜の影まで、はっきりと見て取れるほど。その眼は何の迷いもなく、真っ直ぐに俺を捉えた。
その瞬間、俺は理解する。彼女の無垢で澄んだ瞳には今、桜の樹でも己の運命でも、はたまた命と引換えに救う世界や人々でもなく、ただ“俺”という存在だけが、溢れんばかりの喜びとともに映し出されているのだということを。不思議なほどの明瞭さで。
純粋な彼女の眼差しは、しかし俺の心を、強く締め付ける。
「静琉!」
弾けるように咲いた笑顔が、とても眩い。その神々しさに目を細めながら、俺はそっと胸の裡で溜息をつく。
あと何度、彼女の笑顔を見つめることが出来るだろう。あと何度、彼女の愛らしい声を耳に出来るだろう。あと何度、彼女に名を呼んでもらうことが出来るだろう。
あと何度――俺は“花守”を殺せば良いのだろう。
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