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時折、ふと考えることがある。大切な人を誰もつくらなければ良かったのだろうか、と。
他愛ない話でも、ただ無邪気に笑いあえる仲間も。どんなことでも打ち明けられるほど、心を許した友も。――何度巡り逢っても、胸の奥が苦しいほどときめき、恋い焦がれてやまない愛しい人も。
誰とも出会わなければ。或いは、誰とも深く言葉を交わさなければ。
長くも短いこの人生を、誰かと共に過ごし、共に学び、そうする中で様々なことを経験し、胸の裡に“感情”というものを芽吹かすこともなかったならば。
そうすれば私は、楽しさも、喜びも、苦しみも、悲しみも、何もかも知らずにいられたのだろうか。何も知らぬまま、ただの“生贄”として、冷たい地へと還ることが出来たのだろうか。この命が還るその日まで、何も恐れずにいられたのだろうか――。
けれどそう考える度、辿り着く答えはいつも同じだった。幾度心を問い直しても、まるで定められた川筋を流れる水のように、ひとつの答えへと吸い寄せられるように辿り着く。
それは“導かれる”というより、そもそもはじめから、道筋――答え――はただひとつしか存在していない、と言った方が正しいのだろうと思う。
“桜”と同じ、それは“この世の理”と同じようなものだ、とも。
――お前達の縁を遮ることなど、誰にも出来やしまいよ。
ふいに、遠い日に聴いた帝のやわらかな声が、耳の奥にやさしく蘇る。
笑い含んだようなその声音は、しかしどこか物憂げで、ひんやりと漂う朝靄のように虚ろだ。抗えぬ何かを静かに堪えるような、或いは、深く嘆くような。
あの時私は、その翳りに気付いていたにもかかわらず、ただはにかむことしか出来なかった。そのことを後ろ暗く思い出しながら、屈強な門番の、所々荒れた無骨な手が重々しい門扉にかけられる様をじっと見つめる。乾いた浅黒い肌、短く切り揃えられた爪、手の甲に刻まれた一文字の古い傷跡。
一生涯を花宮の中で過ごす花守が、宮の東側に設けられた檜皮葺の中門を超えることはない。故に、その先に構えられた、宮を取り囲む築地塀にきられた棟門を踏み出すことも、無論ない。――ない、はずだった。
何百年もの間、絶えることなく受け継がれてきたその掟を、果たして破った者が過去にひとりでもいただろうか。それがたとえ、人々の頂きに立つ時の権力者であっても。花守を庇護する為に、最も遵守せねばならぬとされる掟を、多くの非難を浴びながらも、それを感じさせぬ穏やかな笑みを湛えながら、破り捨てることの出来る者が――。
ごとり、と、音が鳴った。その重たい響きに、意識が引き戻される。千年もの時を刻んだ蝶番が、悲鳴のような甲高い音を微かに立てながら、門番の手でゆっくりと開かれてゆく。
内と外の世界を隔てていた扉。たくさんの者が目にし、手で触れ、そして潜ってきた扉。けれども、今まで誰ひとりとして花守が踏み出すことのなかった、やさしくも冷たい扉。
その隙間から、奔流のように白い光が射し込んだ。容赦のないその眩さに、思わず目を細め、薄紅梅の袖を握り締める。
花宮の中にいても、陽光はたっぷりと降り注ぐ。朝も昼も夕も。陽が暮れれば、神々しい月明かりが邸を照らす。――それは宮の中でも、宮の外でも、全く同じことだ。
けれども、口を開いた棟門の向こう側から射し込む陽光は、花宮の中で浴びるそれよりも、もっとずっとあたたかい。生きている、と感じる。それは正に“生の光”だ、と。
真昼の陽光にあたためながらも、まだ冬の終わりを感じさせるひんやりとした風が、ふわりと頬を撫でてゆく。土草の甘い匂い、炭の焦げた匂い、干した魚の匂い、そして、たくさんの人々の溌剌とした息吹の匂い。
清潔な伽羅の香が満ちた宮の中とは、何もかもが違う。違うけれど、それらは宮の中でも、ふとした瞬間に薫るものだ。だから、知っている。知っているけれど、でも、どれも全く知らなかったような気がする、と、強烈な“生”の匂いに身体中を包み込まれながら思う。
それは、とても不思議な感覚だった。そしてその感覚は、洪水のように押し寄せてくる騒音に呑み込まれた私を、この世に生まれ落ちたばかりの、まだ何も知らぬ赤子のような心地にさせる。
荷車の転がる音、草履が砂粒を踏み締める音、金槌が木板に打ち付けられる音。子供とも大人ともつかぬ笑い声、商いに精を出す行商人の声、喧嘩と思しき荒々しい声、母が子を呼ぶやさしい声。
まるで色彩の渦だ、と思った。遠くのざわめきにまで、耳を澄ませながら。これほど多くの色が、音が、私の知らぬ場所に、まだこんなにも溢れていたのか、と。網膜に映る全てが、鼓膜に触れる全てがあまりにも鮮やかすぎて、息を呑む。圧倒的な“生”の勢いに気圧され、頭がくらくらとしてしまう。
嗚呼、生きている。みんな、生きている。
これが――この光景こそが、私が己の命と引き換えに護ることとなる、大切な“世界”。
そう思えば思うほど、心臓が鼓のように早く、強く脈打ち、身体の奥底――芯――から、あたたかいものがとめどなく湧き上がってくる。
それはやがて胸をきつく締め付け、呼吸を奪う。苦しくて苦しくて、たまらない。目に見えぬ大きな手で、まるで握られているようだ。
けれどもそれは、淋しさや哀しみなどでは、決してない。身体の裡に満ち溢れる、煌々と輝く光そのもの。生まれて初めて触れる壮大な“外の世界”への、尽きぬ喜びと感動だった。
他愛ない話でも、ただ無邪気に笑いあえる仲間も。どんなことでも打ち明けられるほど、心を許した友も。――何度巡り逢っても、胸の奥が苦しいほどときめき、恋い焦がれてやまない愛しい人も。
誰とも出会わなければ。或いは、誰とも深く言葉を交わさなければ。
長くも短いこの人生を、誰かと共に過ごし、共に学び、そうする中で様々なことを経験し、胸の裡に“感情”というものを芽吹かすこともなかったならば。
そうすれば私は、楽しさも、喜びも、苦しみも、悲しみも、何もかも知らずにいられたのだろうか。何も知らぬまま、ただの“生贄”として、冷たい地へと還ることが出来たのだろうか。この命が還るその日まで、何も恐れずにいられたのだろうか――。
けれどそう考える度、辿り着く答えはいつも同じだった。幾度心を問い直しても、まるで定められた川筋を流れる水のように、ひとつの答えへと吸い寄せられるように辿り着く。
それは“導かれる”というより、そもそもはじめから、道筋――答え――はただひとつしか存在していない、と言った方が正しいのだろうと思う。
“桜”と同じ、それは“この世の理”と同じようなものだ、とも。
――お前達の縁を遮ることなど、誰にも出来やしまいよ。
ふいに、遠い日に聴いた帝のやわらかな声が、耳の奥にやさしく蘇る。
笑い含んだようなその声音は、しかしどこか物憂げで、ひんやりと漂う朝靄のように虚ろだ。抗えぬ何かを静かに堪えるような、或いは、深く嘆くような。
あの時私は、その翳りに気付いていたにもかかわらず、ただはにかむことしか出来なかった。そのことを後ろ暗く思い出しながら、屈強な門番の、所々荒れた無骨な手が重々しい門扉にかけられる様をじっと見つめる。乾いた浅黒い肌、短く切り揃えられた爪、手の甲に刻まれた一文字の古い傷跡。
一生涯を花宮の中で過ごす花守が、宮の東側に設けられた檜皮葺の中門を超えることはない。故に、その先に構えられた、宮を取り囲む築地塀にきられた棟門を踏み出すことも、無論ない。――ない、はずだった。
何百年もの間、絶えることなく受け継がれてきたその掟を、果たして破った者が過去にひとりでもいただろうか。それがたとえ、人々の頂きに立つ時の権力者であっても。花守を庇護する為に、最も遵守せねばならぬとされる掟を、多くの非難を浴びながらも、それを感じさせぬ穏やかな笑みを湛えながら、破り捨てることの出来る者が――。
ごとり、と、音が鳴った。その重たい響きに、意識が引き戻される。千年もの時を刻んだ蝶番が、悲鳴のような甲高い音を微かに立てながら、門番の手でゆっくりと開かれてゆく。
内と外の世界を隔てていた扉。たくさんの者が目にし、手で触れ、そして潜ってきた扉。けれども、今まで誰ひとりとして花守が踏み出すことのなかった、やさしくも冷たい扉。
その隙間から、奔流のように白い光が射し込んだ。容赦のないその眩さに、思わず目を細め、薄紅梅の袖を握り締める。
花宮の中にいても、陽光はたっぷりと降り注ぐ。朝も昼も夕も。陽が暮れれば、神々しい月明かりが邸を照らす。――それは宮の中でも、宮の外でも、全く同じことだ。
けれども、口を開いた棟門の向こう側から射し込む陽光は、花宮の中で浴びるそれよりも、もっとずっとあたたかい。生きている、と感じる。それは正に“生の光”だ、と。
真昼の陽光にあたためながらも、まだ冬の終わりを感じさせるひんやりとした風が、ふわりと頬を撫でてゆく。土草の甘い匂い、炭の焦げた匂い、干した魚の匂い、そして、たくさんの人々の溌剌とした息吹の匂い。
清潔な伽羅の香が満ちた宮の中とは、何もかもが違う。違うけれど、それらは宮の中でも、ふとした瞬間に薫るものだ。だから、知っている。知っているけれど、でも、どれも全く知らなかったような気がする、と、強烈な“生”の匂いに身体中を包み込まれながら思う。
それは、とても不思議な感覚だった。そしてその感覚は、洪水のように押し寄せてくる騒音に呑み込まれた私を、この世に生まれ落ちたばかりの、まだ何も知らぬ赤子のような心地にさせる。
荷車の転がる音、草履が砂粒を踏み締める音、金槌が木板に打ち付けられる音。子供とも大人ともつかぬ笑い声、商いに精を出す行商人の声、喧嘩と思しき荒々しい声、母が子を呼ぶやさしい声。
まるで色彩の渦だ、と思った。遠くのざわめきにまで、耳を澄ませながら。これほど多くの色が、音が、私の知らぬ場所に、まだこんなにも溢れていたのか、と。網膜に映る全てが、鼓膜に触れる全てがあまりにも鮮やかすぎて、息を呑む。圧倒的な“生”の勢いに気圧され、頭がくらくらとしてしまう。
嗚呼、生きている。みんな、生きている。
これが――この光景こそが、私が己の命と引き換えに護ることとなる、大切な“世界”。
そう思えば思うほど、心臓が鼓のように早く、強く脈打ち、身体の奥底――芯――から、あたたかいものがとめどなく湧き上がってくる。
それはやがて胸をきつく締め付け、呼吸を奪う。苦しくて苦しくて、たまらない。目に見えぬ大きな手で、まるで握られているようだ。
けれどもそれは、淋しさや哀しみなどでは、決してない。身体の裡に満ち溢れる、煌々と輝く光そのもの。生まれて初めて触れる壮大な“外の世界”への、尽きぬ喜びと感動だった。
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